第十三話 千春さんとの……
千春さんは優しく私の体を撫で、首筋にキスをする。そして、私のワンピースの上から太ももを撫でた。
「触りますよ……」
頷くと、彼女はスカートを捲り上げ、直接肌に触れた。いつもは体温の低めな指先が、熱を持って震えているのが分かる。綴るように撫で上げ、下着に触れそうなところまで来たときだった。
「あっ」
それは嬌声のたぐいではなく、何かに気づいたための咄嗟の声だった。千春さんは驚いて手を止めた。
「……大丈夫、ですか?」
また不安にさせてしまったようだ。変なふうに捉えられると困る。
「いえ……すみません。その、下着がオシャレじゃないことに気づいて……」
履いているのは肌触りだけを重視してまとめ買いした、シンプル過ぎるパンツ。まさかこんなことになるとは思っていなかったから、何も考えずいつもの下着を身につけていたことを思い出したのだ。
「はぁ~……」
強張っていた千春さんの顔が緩み、大きくため息をついた。
「どうしてそんなに可愛いんですか、ゆーなさん……」
「可愛い……? いや、可愛くないから言ったんだけど……」
「ゆーなさんの発言は、『下着を見られること』を通り越して、『見られた上でオシャレじゃないこと』の心配をしてるんですよ。本当にいいのかなんて、聞いたわたしがバカみたいじゃないですか」
確かにその通りだ。私はすでに、見られたり触られること自体は嫌ではないし、されてもいいと思っているということだ。
「ゆーなさん、わたし、もう止まれませんよ」
そう言うと、千春さんの唇が私の口をこじ開けて、舌が内側を舐り回った。甘く感じられる唾液が混ざり合う。たまに吸い付かれ、舌と共に千春さんの口に
千春さんの攻めは優しく、ときに激しく。激しいと思えば、また優しく。
それは彼女自身の迷いを表しているかのようだった。それでも、最後は意を決したかのように私を攻め立てた。
服を一枚ずつ剥ぎ取られ、下着だけの姿になった。お腹や二の腕、太腿も、とても引き締まっているとは言えない体を見られ、私は恥ずかしさで顔を覆う。露わになった肌に、千春さんは手で触れる。頬で触れ、唇で触れる。
千春さんの指は下着越しに、私の下半身を愛撫する。久しく誰かに触られていないそこは、驚いたようにピクリと反応を見せた。そういえば、毛だって綺麗にしていないことも思い出し、後悔していた。情けないところを、千春さんに見られてしまう。幻滅されるのが怖い。せめて昨日の夜、綺麗に洗えていただろうか。体毛はちょうど昨晩剃ったところで助かった。
「ゆーなさん……いきますよ」
耳元で囁く声が、脳に響き渡る。そのまま口で口を塞がれて、千春さんの指が触れている部分にピリッと電気が走ったような気がした。
体が、熱い。
夫がいる身で、他の人に抱かれている。
自分が拓馬を裏切っている事実が脳裏に浮かび、罪を自覚する。矛盾した心を抱えたまま、体への刺激が思考を上書きした。
こんなに心が激しく揺さぶられるのはいつ以来だろうか。
いや、もしかしたら初めてかも……。
私も既婚者だ。カマトトぶるつもりはない。
でも夫の拓馬とは、結を身籠って以来、していなかった。
もともと強く体を求め合う関係ではなかったけど、お互いに――少なくとも私は、そんな結婚生活に満足していた。もしかしたら、噂に聞く『産後の妻を女として見られない』というやつなのかもしれないと思ったこともある。そうだとしても、拓馬は優しいのでおくびにも出さないだろうけど。
産後はハグはしても、それ以上のことはしなかった。キスも、頬や首筋にする程度になった。
拓馬のことだから、いつから再開できるのか、するつもりがあるのか、私に委ねていただけなのかもしれない。私は求められれば応えてもいいが、自分からするほどではないかな、と思っていた。
でも、こうして千春さんに求められることで……。
悪い気はしなかった。いや、正直に言って、嬉しかった。体を求められることがではない。千春さんの気持ちと体を知ることが。
彼女の攻めが、激しさを増した。私は既に一糸纏わぬ姿となり、千春さんは一枚も脱いでいない。私が「待って」と言っても、わざとらしくサディスティックな様子で攻め立てた。痛くはないが、少し強くて恐さを感じることもあった。でもそれに翻弄されるのも、どこか心地良い。
そのまま、いつ以来かの絶頂が全身を包みこみ、抑えきれない声が漏れた。むず痒いような、温かいような、複雑な感覚が波のように訪れ、数秒間、息が詰まって腰が跳ね上がった。
「ゆーなさん、可愛い……」
私の耳元に、千春さんのウィスパーボイスが再びまとわりつく。余裕もない私は、息切れした呼吸で返事をした。
荒い息遣いが落ち着くにつれ、静寂が訪れる。
千春さんは私の上に乗って抱き寄せたまま、しばらく動かなかった。
私はまだ火照ったままの身体を彼女に預け、ただ天井を見つめる。
何を言えばいいのか。後悔している? 嬉しい? 怖い? 快感? 充足? 自分が何を感じているのか、それすら考えられない。
とにかく、わたしは不貞行為をしてしまった。越えてはいけない一線を越えた。バレなければ良いというわけではない。ただ、千春さんの心と身体を少しでも感じることができたのは満足している。
千春さんも、目を合わせようとせず俯いていた。何でもいいから、声をかけたかった。
「千春さん――」
その瞬間。
ピピッ ガチャ
玄関のドアが、カードキーで開錠される音。
――拓馬が帰ってきた? どうしてこんな時間に?
静まり始めていた心臓が、痛いほどに大きく脈打った。
「ただいま。優菜? いないのか? 忘れ物を取りに来ただけだから、すぐ戻るけど……」
リビングの扉の向こうで、夫の声がする。こちら側には、裸の私と千春さん。
足音は直接二階に行き、拓馬の部屋に入ったようだ。
「ち、千春さん、拓馬が……!」
小声で話しかけるが、千春さんは私を見たまま固まって動かない。
階段から、降りてきた足音が聞こえる。
扉の擦りガラスに、拓馬の影がかかった。
「じゃあ、すぐ会社に戻るから」
このまま、外に出ていってくれるだろうか?
そんな淡い期待を打ち砕くように、取っ手が傾き、扉が内側に開かれる。
――完全に見られた。拓馬の視界に映っているのは、後ろ姿の千春さんと、脱いだ服でかろうじて体を隠した私。二人でソファに座っている。私は拓馬と目が合ったまま、動けずにいた。
千春さんの表情はわからない。拓馬は、戸惑いを隠せず何かを言おうと口を開いたまま固まっている。
永遠かと思えるほどの一秒間、誰も声を発さなかった。
「優菜……」
沈黙を破ったのは、拓馬だった。
「一つだけ……。警察を、呼んだほうが、いいのかどうか、教えてくれ」
声は震えている。途切れ途切れ、振り絞るような言葉。拓馬はこんなときにも、私の心配をしている。千春さんの顔を見たが、無表情で微動だにしなかった。
私は、目を落として首を横に振った。
「……そうか」
拓馬はゆっくり振り返る。
「拓馬、待っ……!」
追いかけようとして、自分が裸であることを思い出しとどまった。
少し遅れて、玄関のドアが静かに閉まる音。
数秒の後……。
静まった部屋に、千春さんのため息が響いた。
「あーあ、これで終わりですね」
見ると、彼女は乾いた笑いを浮かべながら、ソファの縁に腰掛けていた。
「まあ、わたしが無理やり襲ったんだから、わたしは旦那さんに訴えられるかもしれないけど、ゆーなさんは無実。それで良いでしょう」
自嘲気味な千春さんの声は、まるで他人事のように軽かった。
わたしは、掴んでいた衣服をぐっと握りしめる。
「そ、そんなこと……!」
無理やり? そんなわけない。
千春さんは何度もためらった。一度は帰ろうとしたのを、私が引き止めてキスをしたんだ。
――私は、嫌じゃなかった。むしろ、望んですらいた。
――千春さんが求めることに、応えたいと思ってしまった。
――でもそれは、応えてはいけない想いだった……。
「わたし、帰りますね。結ちゃんにまで見られるわけにはいかないし」
そう言って、帰る準備をし始めた。
「もう来ないから安心してください。そのうち、弁護士?か何かから手紙がうちに来るんですかね。よく知らないけど」
私は、何も言えなかった。軽い言い方だけど、千春さんは辛いはずだ。私のせいだ。何もかも。
千春さんはバッグを取って、リビングから出ていくところで振り返った。
「さよなら、ゆーなさん。元気でね」
私は俯いていたので、彼女の顔が見れなかった。
ドアが閉まる音がして、家の中はさらなる静寂に包まれた。
私は何をしてしまったのか。何を壊し、何を失おうとしているのか。
頭の中はぐちゃぐちゃで、考えがまとまらない。とりあえず、結の迎えまでにシャワーを浴びることにした。
脱衣所で体を見ると、胸元に千春さんにつけられた痕があることに気づいた。指でなぞると、千春さんの最後の言葉が浮かんだ。
『さよなら、ゆーなさん』
――さよなら? もう会えない? 今日、千春さんが帰るのを引き留めたから今こんなことになっている。私はどうすればよかったの? いや、そもそもどうしたかったの?
シャワーを終えてスマホを見ると、拓馬からメッセージが来ていた。
『考えを整理したいから今日はどこかで一晩泊まってくる。明日の朝帰る。悪いけど結のことは頼む』
私も、考える時間が欲しかった。これからどうしたらいいのか。
今日は金曜日だ。明日は拓馬も結も休み。
――話さないと。まずは、拓馬と。
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