第十二話 千春さんとの秘密の関係

 千春さんに嫌な思いをさせたくないから、流されているだけ――のはずだ。

 でも、本当にそうだろうか。

 私は週に二回カフェに行き、千春さんは週に一回来てくれる。

 千春さんと過ごす時間は楽しいし、家事を手伝ってもらえるのも助かっている。

 千春さんはこれでいいんだろうか。いや、満足しているわけがない。どうして私なんかを好きになったのかはともかく、好きな人と結ばれたいって思うのは自然なことだろう。私が何もしないでいると、千春さんはずっと私を一方的に好きなままでいることになるかもしれない。

 ――私はこのままでいいの?

 千春さんはいつか、私に愛想を尽かすだろうか。


「最近、なんか……元気ないね」

 いつものように遅くに帰ってきた拓馬が、夕飯を食べながら突然そんなことを言った。

「そう? 確かに今ちょっと体調は良くないかも。たっくんはどう?」

 とっさに、誤魔化して話題を少しずらした。わざとらしかっただろうか。

「俺も、年相応かな。肩は凝ってしょうがないけど、まあ元気だよ」

 私と同い年の拓馬は、仕事で遅い日は夜の十時を超えて帰ることもある。体力のない私だったら、耐えられないかもしれない。それなのに私は、千春さんの好意に甘えて楽をしている。千春さんに対しても、拓馬に対しても、罪悪感が募る。しかも、そんな悩みを誰に言うわけにもいかない。拓馬には、私がカフェに行くことや、千春さんが遊びにきてくれるとは話しているけど、ここまで頻繁だとは思っていないだろう。

「千春さん――」

 急に、拓馬がその名前を出すものだからビクッとしてしまった。

「え? 千春さんが何て?」

「だから、千春さんとケンカしたって結が言ってたけど、それと関係あったりする?」

「えっと……」

 関係大ありだ。でも、もちろんそれも拓馬に言うわけにはいかない。

 ……そうか、誰に言うこともできない悩みって、こんなに苦しいんだ。千春さんも、こんな悩みを抱えて生きてきたのだろう。

「別に踏み込むつもりはないけどさ。千春さんと仲良くなって、優菜、すごく変わったような気がするから。優菜にとって良い縁だったのかなって思って」

「そう……かも。私も良い縁だと思うよ。っていうか、ケンカしてるわけじゃないからね」

 拓馬は微笑んで、食事を再開した。私は、コーヒーも飲まずに千春さんのことを考えていた。私は千春さんのことも拓馬のことも大切だと思っている。やっぱり、引け目のあるような関係のままじゃいけない。どうしたらいいんだろう。


 また、千春さんが家に来てくれる日が訪れた。

「こんにちはーっ」

 千春さんは秋らしい薄手のコートを羽織っていて、いつものように元気な、そして少し照れたような嬉しそうな笑顔を見せた。

「千春さん、いらっしゃい」

 私のほうも、もはや当たり前のように家に上がってもらう。まるで友人でも招くかのように。

 千春さんがコートを脱いだ瞬間、思わずドキッとした。

 薄手ニットの黒いタートルネックに、黒タイツとデニムのショートパンツ。肌の露出こそ少ないが、体のラインがくっきり浮かび上がっていて、何だか妙に色っぽい。っていうか……ほっそい。抱きしめたら折れちゃいそう。いやいや、なんで抱きしめる想像なんてしてるのか。

「千春さん、今日は何だか……大人っぽい格好ね」

「かわいいですか?」

「えっと、す……素敵だと思うよ」

 人を褒め慣れていない私は、何とか言葉を絞り出して称賛した。本当に素敵だと思ったからだ。

「えへへ、やったー」

 無邪気に喜ぶその顔は、とても大人っぽいとは言えないけど魅力的だった。


 掃除や洗濯を終えて、一休みして配信で映画を見る。これが、いつもの流れになっていた。

「お疲れさま」

 私はそう言って、先にソファに座って映画を選んでいる千春さんに、紅茶とクッキーを出す。

「このクッキー……手作りですか?」

「うん、一応……。あ、嫌だったら無理には……」

「いえいえっ! すごく嬉しいです! やった、ゆーなさんの手作りクッキーだぁ……!」

 私はこの笑顔が見たくて、クッキーを作ったのかもしれない。千春さんの笑顔を見ていると、本当に心が温かくなる。もっともっといろんなことを、してあげたくなる。

「ハートのジャムクッキーだ。かわいー。こっちはネコの形」

「それね、結にも好評なの」

「いただきますね。……美味しい!」

「ふふ、お口に合って良かった」

 そして、私たちは映画を観始めた。ソファに二人で座って、手を繋ぐ。千春さんは映画館デートの気分を味わっているのだろう。


 しばらく観ていると、千春さんは繋いだ手の指を動かした。暖かい指が、私の指に絡められる。手から、熱が伝わってくる。これが、今の関係性で許される精一杯のスキンシップだった。

 私は悪い気がしなかった。滑らかな指にさすられて、心地よい温もりに心と体を委ねたくなる。千春さんはこちらを向かない。私も、何も言わずに同じように手を撫で返す。

 私の身体に寄りかかる千春さん。彼女の体温が、私に移ってくる。

「ゆーなさん、好きです……」

 私も――。そう答えようとした自分に、驚いた。どうしたの、私? どうしてそんなことを言おうとしたの? 今の自分が好きなんて言っても、千春さんを傷つけるだけなのに。

 私はソファから立ち上がり、千春さんから少し離れた。

「ごめん、私……」

 言葉が、上手く出てこない。ちゃんと話さないと。でも何を、どうやって……?

 千春さんの目が、一瞬揺れたのがわかった。

「やっぱり、そうですよね……」

 まずい。今の行動は誤解される。彼女から見たら、「好き」って言ったら相手に距離を取られた。それは明らかに拒絶の意思にか見えない。

「待って、違うの。私、そういうつもりじゃ……」

「いいんです。……無理してたんですよね。ゆーなさんは優しいから、わたしが好きなのを許してくれた」

 千春さんは立ち上がり、私に背を向けた。

「でも、きっともう無理なんですよね。わたしだって分かってます。これ以上を求めちゃいけないってことは。ゆーなさんの家庭を壊したいわけじゃないし」

「わ、私は……」

 何か言わなきゃ、千春さんに誤解されたままだ。――誤解? 本当にそうだろうか。彼女の言う通り、これ以上の関係には、なっちゃいけない。でも、無理して千春さんと一緒にいたわけじゃない。そのことだけでも伝えたい。

「もう、終わりにします」

 力なく、静かに覚悟を決めたように千春さんは言った。

「……え?」

「最初にわたしの気持ちを受け止めてくれたときは、つい舞い上がっちゃいました。でも今は、ゆーなさんがずっと一定の距離を保ったままなのに気づき始めています」

「そ、それは……」

 すれ違いから始まったかもしれない。でも、この関係を私は悪いものだと思っていない。健気な千春さんを、喜ぶ千春さんを、可愛らしい千春さんを、知ることができた。私は家事を手伝ってもらって助かっているし、心情的にもそんな千春さんに救われている。私が千春さんに求めているのは、一体何なのだろう――。

「今までありがとうございました。わたし、ゆーなさんと会えて良かったです。恋人ごっこを演じてもらえて、楽しかったです。大丈夫です、ちゃんと諦めますから」

 千春さんが、振り返りもせずに玄関に向かう。行ってしまう。

 このまま、もう会えないの?

 もう、一緒に映画を観れないの?

 その笑顔を見ることができないの?

 そんなのは嫌だ。

「待ってよ……!」

 思わず、行かせまいと腕を掴んだ。そのまま引っ張ると、千春さんの涙目と目が合った。悲しそうな顔。泣かせてしまったのは、私だ。千春さんに、私の気持ちを伝えたい。言葉では伝わらない気持ちを。

 身体を引き寄せ、肩を掴む。そして唇を近づけ、彼女と重ね合わせた。

 始めに千春さんから告白されたとき以来の、キスだった。

 千春さんの涙が、私の頬を濡らした。私は肩を押されて、身体を引き離される。

「なっ……何で……」

 千春さんは口を抑え、目を見開いた。驚いて涙は止まってしまったようだ。

「いきなりこんなことをして、ごめんなさい。でも、終わらせたくないっていう私の気持ちを伝えるには、こうするしかないと思ったの」

 千春さんは、黙ったまましばらく動かなかった。

「終わらせたくない……?」

 震える声。信じられない、というように私を見つめている。

「そうだよ……。私、もっと千春さんと……一緒にいたいよ」

 私の言葉に、千春さんは少しだけ目を伏せた。でもすぐに顔を上げ、唇を噛みしめる。

「……ゆーなさんが、そんなこと言っちゃダメなんですよ」

「え?」

「終わらせたくないって……じゃあ、わたしはどうすればいいんですか?」

 千春さんが私の腕を掴んだ。強く、私を引き寄せる。

「旦那さんは? 家族はどうするんですか?」

 千春さんの言葉に、私は言葉を詰まらせる。

「それは……まだ分からない。でも……終わらせたくないのは、私の本当の気持ちだから」

 千春さんは、じっと私の顔を見つめている。

「ゆーなさん……」

 千春さんが、両手を私の肩に置く。そして、そのままぐっと押し倒された。

「――っ」

 背中から、ソファに沈み込む。千春さんの顔が、目の前にある。

「ゆーなさんが悪いんですよ。わたしは我慢してたのに……ずっと、ずっと」

 低く、かすれた声だった。

「片思いのままで良かったのに……受け入れてくれて。わたしのために、いろんなことをしてくれて。もっと欲しくなっちゃう。諦めさせてくれないんですね」

 千春さんの手のひらが、そっと私の頬をなぞる。

「わたし、ゆーなさんのこと……そういう目で見てたんですよ。気持ち悪いでしょう?」

「そんなこと……ない」

 私は息を詰めながら、そう言った。本当にそう思っていた。千春さんが私をどう思っていようと、嫌だなんて思わない。

 でも千春さんは、信じていないみたいに、自嘲的に笑った。

「こんなことだって、したいんですよ?」

 千春さんの手が、私の肩をなぞるように滑り、服の上から触れてくる。指先の通った跡が、痺れるようにざわつく。

「……っ」

 思わず目を閉じると、千春さんの息が近づいてきた。

「嫌じゃないんですか?」

 震える声。

 私は、ゆっくりと目を開けた。千春さんの瞳が揺れていた。助けを求めるような、感情を抑え込むような表情。

「千春さんの……好きにしていいよ」

 私は微笑んだ。

 千春さんの目が、大きく開かれる。手を私の頬に添え、顔を近づける。唇同士が触れた。

 それは今までのキスよりも深く、強く、熱かった。

 息継ぎをするように一度離れた千春さんは、私が拒絶しないのを確かめると、再び口を開けて私の口を塞いだ。

「ん……んっ……!」

 熱を帯びた舌が滑り込んでくる。受け入れるために口を開くと、舌が絡め取られた。

 心臓が跳ね上がる。体温の上昇を感じる。脳が焦がされる。唾液の混ざり合う音が、正午前の明るいリビングに響く。

 千春さんの腕が背中に回り込み、さらに密着する。


 いつか、こうなる気がしていた。もしかしたら、望んでいたのかもしれない。抵抗はまったくなかった。そのまま千春さんに、心身を委ねたいと思った。

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