第十一話 千春さんとの関係
流されやすい性格なのは自覚していたが、まさかここまでとは……。
私は、元恋人が結婚したことを知って落ち込んでいる千春さんの力になりたかった。いや、力になるなんておこがましい。せめて話を聞いてあげて、ネガティブな感情の受け皿になれればと、そう思っていたのだけど。
千春さんは今日、私に好きと言った。抱きしめた。キスをした。
私は彼女に、恋愛感情を抱かれていたということ……?
どうして私が……?
でも、そう考えると千春さんの行動に納得する。カフェでは(たぶん)私にだけハートのラテアートを描いてくれる。こんな人付き合い苦手な私にやたらと懐いてくれている。家に来て結と遊んでくれたり、家事を手伝ってくれたりするし、体調の悪いときにはたくさんお世話になった。
あれは、千春さんのアプローチだったんだ。
そして、あの言葉。
『ゆーなさんは分かってないんです』
『ゆーなさんだって、結局は男と結婚した人じゃないですか!』
あれは、男と結婚した私には千春さんの気持ちは分からない、という意味ではなく、千春さんの好きな相手(つまり私)が男と結婚する異性愛者であり、千春さんがそんな私のことを好きになってしまった気持ちが分からないという意味だったんだ。
そして、私はそれを知らず、「思いを受け入れる」と言ってしまった。千春さんは、自分の好意を受け入れてもらったと思ってしまった。
どうしたらいいんだろう。「ごめんね、それは千春さんの勘違いだよ。私はそういうつもりじゃなかったんだよ」なんて言えるわけがない。だって、千春さんはあんなに幸せそうにキスを喜んでいた。本気の感情で、私を好いてくれている。私が「本気で感情をぶつけてくれ」などと言ったばかりに。
結の迎えを理由に逃げ帰ってきたが、それ自体は本当だ。一緒に家に帰ってきた頃合いを見計らったかのように、千春さんから連絡が来た。
『明日はカフェに来てくれますか?』
つい既読をつけてしまったが、返事をどうしたものか。うんうん考えていると、手を洗って着替えを済ませた結が近づいてきた。
「ちいちゃんとなかなおり、できた?」
ああ、こっちにも返事に困る質問が。
「えっと……」
「なかなおりのあくしゅ、した?」
握手どころか、ハグしてキスしたよ。なんて言えるはずもなく。
「……うん、結のおかげで仲直りできたよ。ありがとう」
「よかったー!」
無邪気に喜ぶ姿を見て少し心が痛むが、嘘ではない。ただ、ちょっと仲直りしすぎてしまっただけだ。
そう。仲直りはできたのだから、カフェに行くのも当然だ。千春さんには、
『はい、美味しいコーヒーいただきに行きます』
と返してしまった。
千春さんからの返事は、何かのキャラクターのハートのスタンプだった。
――明らかに浮かれてるな。どうしよう。
翌日、私はカフェ【HIDAMARI珈琲】の前で入るのをためらっていた。……少し、怖い。私と千春さんはこれからどうなってしまうのだろう。
私は昨日の返信を思い出していた。
『美味しいコーヒーいただきに行きます』
千春さんに会いに来たわけじゃない。あくまでも、コーヒーを飲みに来たに過ぎない、と自分に言い訳するための言い回しだ。でも、そんな言い訳をしてまで来る理由は何だろう。考えを打ち切り、深呼吸して息を整えてから戸に手をかける。
チリリン。
少し久しぶりの店内の香り。そして――。
「いらっしゃいませ、ゆーなさん♪」
千春さんが笑顔で迎えてくれた。
「こんにちは」
私も笑顔で返す。
……ぎこちなくないだろうか。声は上擦ってないだろうか。
「今日は何にします?」
「……オリジナルブレンドを」
千春さんは少しピクリとしたが、すぐに取り繕って、
「了解です!」
と元気よく答えた。
席に着いた私は、深く息を吐いた。ハートのラテアートを意図的に避けたのだ。昨日のことをなかったことにするわけではないが、一旦距離を取って落ち着きたかった。自分でも情けない逃避行動だというのは分かっている。
「お待たせしました、オリジナルブレンドです」
「ありがとう」
千春さんは一瞬だけ私の目を見て、すぐに戻っていった。その背中を見て、私は若干の罪悪感を覚えた。しかし、コーヒーと一緒に運ばれてきたおしぼりを手に取ろうとしたとき、それに気づいた。
おしぼりの袋には、ペンでハートが一つ描かれていた。ラテアートの代わりと言わんばかりに。
「……っ」
なんて可愛いことをするんだろう。カウンターの方を見ると、ニヤリと目を細める千春さんと目が合った。思わず私も微笑み返していた。彼女からの好意に、心が温まっている自分がいる。応えることなんて、できないはずなのに。
そして翌日、千春さんはお休みだった。前日の連絡どおり、結を幼稚園に送って家に着くと、ちょうど千春さんが家の前で待っていた。
「おはようございますー! お手伝いに来ました!」
「おはよう、早いね……せっかくお休みなのに」
「お休みだから来たんですよ! さあ、早く終わらせちゃいましょう」
無邪気な笑顔で、千春さんは掃除を始めた。私は洗濯担当だ。
「ゆーなさん、こっちの掃除終わりましたよー!」
「ありがとう。洗濯も、もう少し……」
「じゃあ、お茶入れて待ってますね」
千春さんは、もはや勝手知ったるという風でティーポットを出した。洗濯物を干し終えた私はソファに座って、千春さんの入れてくれたお茶を一口飲んだ。
「お疲れさまです。今日はお買い物とかされますか?」
「ううん、大丈夫。食材は足りてるから」
それに、千春さんと一緒にスーパーに行くのもちょっと憚られる。平気だとは思うけど、周りからどう見られるか分からない。
「それじゃあ、時間はたっぷりありますね」
「時間……?」
尋ねると、千春さんは少し恥ずかしそうに目線だけ逸らした。
「ゆーなさんとの時間です」
……やっぱり、そういうことか。
夏休みにもうちに来て家事を手伝ってくれることはあったけど、結も家にいた。でも今は、結の迎えに行くまであと約三時間、私と千春さん二人きり……。
「えっとー……家事も終わったし、ちょっと休もうか。そうだ、千春さん何か映画とか観る?」
焦ると早口になってしまう癖は抜けない。とりあえず間を保たせようと、目に留まったテレビをつけた。
「映画? 何かあるんですか?」
「あの、ディズニーのサブスク観れるよ。好きな映画とかある?」
「へーっ、いいですね。そうか、結ちゃんがディズニー好きでしたもんね。わたし、小さいときはプーさんのビデオを無限に観てたそうです」
意外と食いついてくれた。何か観ながら、和やかに過ごせればそれでもいいよね。
「ゆーなさんは、何が好きなんですか?」
「私は特に。夫はマーベルとか観てるけど……」
言ってから、しまったと思った。夫の話はしない方がよかったな……。
チラリと千春さんを見たが、特に気にする様子は見られなかった。
「あ、アナ雪とか懐かしいですね! 中学のときカラオケでめっちゃ歌いましたよー」
そうか、中学……。私はそのとき大学生だった。すごくしっかりしてるから普段は気にならないけど、千春さんは私より八つも年下でまだ二十四歳なのだ。たまに、ジェネレーションギャップを感じることがある。
「じゃあ、久しぶりに観る?」
「いいですね!」
お茶とお菓子を準備して、ソファに二人で座った。オープニングが始まると、千春さんは「なつかしー!」などと笑いながらお茶を口にした。
私と千春さんの腰が、触れるか触れないかの距離に近づいている。気になって画面に集中できない。しばらく観ていると、千春さんは体全体をこちらに傾けて肩に頭を乗せてきた。
「なんか、こうしてると……映画館デートみたいですね」
「……そうかも」
千春さんの髪が頬をかすめて、ふわりと香る。彼女の体温と、香りと、息遣いを至近距離で感じている。千春さんはテレビから目を離さず、もぞもぞと動いて私の手の甲に手のひらを乗せた。
「千春さん……?」
指が、指の間に交差する。滑らかな肌が、私の手全体を撫でていく。くすぐったさと、手を握られる恥ずかしさ、人肌の安心感。それから、少しの高揚感。
「ゆーなさんの手、あったかいですね」
「ち、千春さんの手は、スベスベで……キレイだよね」
「ふふ……」
千春さんの指が、私のブラウスの袖に入ってきた。指先だけで手首をさすり、爪を立てずにこちょこちょとくすぐってきた。
「くすぐったいよ……」
私も仕返しに、彼女の手のひらをくすぐってみた。汗でしっとりしている。緊張してるんだろうか。喋らなくなったと思ったら、千春さんの顔はテレビの方を向いたまま真っ赤になっていた。つい、(あ、可愛いな)と思った。今、抱きしめたら喜んでくれるかな。……いやいや、何考えてるの。私の方からそんなことするなんて。
でも。
私は、その小さな手をぎゅっと包んだ。
「……ゆーなさん?」
知らんぷりをして、テレビを観る。
「レリゴーだね」
エルサ女王が有名な歌を唄いながら、魔法の力を解放して氷の城を建てている。その行為は、誰にも縛られず自由を求めてのものだ。でも、そのことで誰かを、大切な人を傷つけることになるなんて考えもしないし、望んでもいないだろう。
私にとっての自由って何だろう。大切な人は……。
それを知るのは、もっと後になってからのことだ。
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