第七話 千春さんがいない
公園で千春さんを傷つけてしまった後、私達はほんの一往復だけメッセージをやりとりした。
『今日はすみませんでした』
『こちらこそ、怒鳴ってしまってすみません』
それっきり、後に続くことはなかった。
その夜は眠れず、千春さんの言葉を思い返した。叫ばれて、彼女を傷つけてしまったことに動揺して理解できていなかった、あの言葉。
『ゆーなさんだって――結局は男と結婚した人じゃないですか!』
私は確かに結婚している。でも『男と』という言い回しに気になるところがある。その前に言っていたのは、
『ゆーなさんは分かってないんです』
結婚している私には分からない気持ち?
それとも、男と結婚している私には分からない気持ち?
もしかして、千春さんは……。
スマホで、カフェ・ドルチェヴィータのことを検索する。お店のSNSがあるようだ。内装や外観、メニュー、コーヒーの写真。お店の情報を探す。すると、ある記載が目に飛び込んできた。
代表:松岡澄子
やっぱり……そうだったんだ。
千春さんの元恋人は、女性だった。
『この度、オーナーの松岡は結婚いたしました。それに伴い姓が変わりましたが、カフェではこれまで通り旧姓のままで営業してまいります。今後とも【カフェ・ドルチェヴィータ】をどうぞよろしくお願いいたします。』
こんな、何の変哲もない文面に心が痛む。千春さんはこのサイトを見ただろうか。元恋人が、男性と結婚するために同性の自分と別れたなんて、想像しただけでも心が苦しい。『
それに、そう考えると私の発言は不用意すぎた。事情も知らず、力になれるとか、お返ししたいとか、何様のつもりだろう。千春さんの辛さは測り知れない。初めから、私なんかにできることはなかったんだ。
私はカフェ通いをやめてしまった。
『HIDAMARI珈琲』に行けば千春さんには会える。でも、どんな顔をして会ったらいいのだろう。どんな声をかければいいのだろう。分からなくて、何もしないことを選び続けている。
何の意味もなく家庭用のエスプレッソマシンを調べてみた。しかし馬鹿馬鹿しくなってすぐに閉じた。買ってどうするというのか。自分の行動にも辟易していた。
今日は、幼稚園の親子イベントがまた開催される。
私は千春さんとの出会いのことを思い出していた。ママ友がいなくて不安だったあの日、千春さんは快くグループを組んでくれた。そのおかげで結も楽しく工作することができたのだ。今日は、別の意味で前回にも増して足取りが重かった。
「おかあさん、たのしみだね!」
結が無邪気にそう言うのに対して、
「そう、だね……」
明らかに嘘の返事をするのは後ろめたかった。
今日の活動場所である、幼稚園の保育室に入った。目に入ったのは、この前と変わらずいくつかのママ友グループ。
千春さんの姿は、なかった。
――そりゃそうだよね。前回は代理で来ていただけだから。
彼女がいないことにホッとする気持ちと、残念に思う気持ちがないまぜになっていた。結の友達、あおいちゃんを探して見回していると、後ろから声をかけられた。
「ゆーなさん」
心臓が高鳴る。
話しかけてくれた? 何を話したらいい?
考えがまとまらず振り向くと、そこにいたのは千春さん――ではなく。
「……
お姉さんの、百香さんがあおいちゃんを連れて立っていた。私は必死で平静を装った。一瞬でも千春さんかと思ってしまったことで、心拍が跳ね上がっていた。
百香さんとは、夏休みの間に千春さんと一緒に交流する機会があったのだ。私の唯一の、『ママ友』と呼べるかもしれない人である。
「ね、一緒にやりましょうよ」
千春さんに似た人懐っこさを持つ百香さんは、私と結を誘ってくれた。
「もちろんです。あおいちゃん、よろしくね」
しかしあおいちゃんは、私と目を合わせてくれなかった。
どうしたんだろう。恥ずかしがり屋のあおいちゃんとも、だいぶ打ち解けてきたと思っていたけど。
結が構わず話しかける。
「あおいちゃん、いっしょにやろ!」
「うん、いっしょにやろう」
結に対してはいつも通りだった。少し気になったが、他のママさん達がいそいそと近寄ってきたので切り替えた。
「結ちゃんのママですね? 初めまして! うちの
「こんにちは、結ちゃんのことは
百香さんと一緒にいた何人かのママさんが、話しかけてくれた。ひまりちゃんやいちかちゃんの名前は結からも聞いたことがある。
「こ、こちらこそ……。結がいつもお世話になってます」
急にたくさんの人と応対しないといけなくなり、テンパってしまったが何とか切り抜けた。結の面倒見の良さが、こんなに広がりを見せるとは思わなかった。つくづく私と結は正反対だな、と思う。
工作が始まった。百香さん親子を含めて三組の親子達とグループを組むことになった。結はみんなに世話を焼いていて、自分の作業がなかなか進まない。私が手伝おうとすると、「おかあさんはさわらないで!」と制されてしまう。結が大きくなったらしっかりものになって、私も拓馬もたじたじになってしまうかもしれないな、と思った。
私はコミュ力の低さから、普段は『話しかけるなオーラ』が出ているのだろう。今日は百香さんが話しかけてくれたことでそれが打ち破られて、他のママさん達も話しかけてくれたのだ。きっかけとなったのは百香さん。――ひいては、千春さんだ。
何をしても千春さんのことを思い出してしまう。いつまでもこんなことじゃいけない。百香さんに、彼女の様子を聞いてみようか。
「あの、百香さん」
私は、意を決して話しかけた。
「千春さんって、どうしてますか? ……実は今、ちょっと気まずくなってしまいまして。詳しいことは言えないのですが」
千春さんが女性と付き合っていたことは、(知っているかどうか分からないが)お姉さんだとしても言うべきではない。すると百香さんは、少し考えて苦笑した。
「……なるほど、そういうことだったんですねえ」
「どういうことですか?」
「いえね。私とあおいが実家に遊びに行ったとき、あの子珍しく酔って帰ってきたことがあったんですよね」
そういえば、千春さんは今実家に住んでいて、百香さんは家が近いのでよく遊びに行くらしい。
「……そうなんですか」
「普段お酒なんか飲まないもんだから、ひどい酔い方しちゃっててね。何かあったのか聞いても、答えてくれなかったの。でも――」
「ちいちゃん、ないてたよ!」
そばで聞いていたあおいちゃんが工作を中断して、私を睨みつけた。
「『ゆーなさんのばか』っていって、ないてたよ。ちいちゃん、なかしたんでしょ! あおちゃん、おこってるよ!」
「こら、あおい。そんなこと言わないよ! ……すみませんね、優菜さん。失礼なことを」
「いえ……」
かろうじてそう答えたが、頭の中はいろいろな感情でいっぱいになっていた。
泣いていた……?
私は、そんなに千春さんを傷つけてしまったんだ。ますます合わせる顔がない。私はどうしたらいいんだろう。
気がつくと工作の時間は終わり、みんなで片付けを始めていた。私も参加したが、何をしていたかほとんど覚えていなかった。
最後に百香さんが気遣って挨拶に来てくれた。
「今日はごめんなさい! あおいも、千春のことが好きすぎてあんなこと言っちゃったけど、きっと誤解が解ければ落ち着くと思いますから。千春もいい大人だし、そのうち元気になりますよ」
「いえ、誤解じゃないかもしれませんが……。あおいちゃんに申し訳ないです」
「また一緒に遊びましょうね! ピクニックでも行きましょう」
「そう……ですね。そうしたいです」
私は千春さんを傷つけてしまった。厚かましいことは言えず、歯切れの悪い答えしかできなかった。
帰り道、浮かない顔の結と手を繋いで歩いていた。結にも迷惑をかけてしまっている。親として情けないところを見せてしまった。
「おかあさん、ちいちゃんとケンカしちゃったの?」
涙目で私を見上げる結。
「ケンカ……かな。そうかもしれないね。大人なのに、お母さんダメだね」
「おかあさん、ケンカしたらごめんなさいするんだよ」
私はハッとした。
「ごめんなさい、する……?」
「せんせい、いってたよ。ケンカしたら、ごめんなさいして、なかなおりしてねって」
――そうか。私、まだ千春さんにちゃんと謝れてない。あんなメッセージだけのやり取りじゃ、伝わるものも伝わらない。会いに行かなきゃ。
「結、ありがとう。お母さん、ちいちゃんにちゃんと謝りに行くね」
結は、機嫌を取り戻してニカッと笑った。
「うん! なかなおりのあくしゅ、だよ!」
怒られてもいい。許してもらえなくてもいい。会って話をする。まずはそれからだ。
千春さんに、会いに行こう。
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