第六話 元気がない千春さん

 結の幼稚園の夏休みが終わった。

 夏休みの間、結と一緒にカフェに行くことは何度かあったけど、正直あまりゆっくりはできなかった。でも結は退屈せずに済むし、千春さんに会えるだけでも私は十分楽しかった。


 千春さんが、あおいちゃんを連れて家に遊びに来てくれることもあった。

 結とあおいちゃんが遊んでいる間に、千春さんは家事を手伝ってくれたり私を休ませたりしてくれる。この前体調不良だったとき以来、何かと気にかけてくれるようになった。私はとても助かっているけど、申し訳なく思う気持ちもある。私からも、お返しをしたい。


 そんな風に過ごしている内に、千春さんとの距離は少しずつ縮まっている……そう思っていた。


 二学期になり結は幼稚園に行き始め、私はカフェ通いを再開した。

 家事を一通り終えて家を出ると、強い日差しはまだ夏そのものであり、帽子と日傘の二段重ねがないと黒焦げになりそうだった。

 『HIDAMARI珈琲』に着き、扉を開ける。チリリンとドアベルが涼やかに鳴り、冷房の効いた空気がひんやりと体を撫でた。

「いらっしゃいませ、ゆーなさん♪」

 いつもの内装、いつもの芳香、そしていつもの千春さんの笑顔。

「こんにちは、千春さん。カフェラテお願いします」

 しっかり冷房が効いているので、温かい飲み物でも問題ない。この前は外の暑さに負けてアイスコーヒーを頼んだら、飲み終わる頃には凍えそうになってしまった。私は冷えやすいので、二の舞を演じないよう学習したのである。

 千春さんの案内でテーブルに向かっていると、扉が開き新しいお客さんが入ってきた。二人組の女性客だ。

「いらっしゃいませ、いま伺いまーす」

 千春さんが呼びかける。すると、その一人が千春さんを見てハッとした。

「あれっ、千春さんじゃないですか?」

 千春さんは動きを止めて、その人の方を振り返った。

「やっぱり! わー、お久しぶりです! 会いたかったですよー」

 女性は嬉しそうに千春さんに駆け寄った。

「千春さん、急にお店辞めちゃったからどうしたんだろうって思ってたんです。元気そうでよかったです」

 千春さんは少し言いづらそうに苦笑いした。

「ああ、挨拶もなしに辞めちゃってすいません。ちょっといろいろありまして……」

 前に働いていたカフェの常連さんだろうか。そのときも人気者だったんだろうな。

「そういえば店長さんの結婚式は行ったりしたんですか?」

 瞬間、千春さんの顔がこわばった。

「え……?」

 千春さんは顔を逸らしながら一度咳払いをして、笑顔を作り直した。

「いやー、わたしはお呼ばれしなかったんです」

「え、そうだったんですね。でもおめでたいですよね!」

「……ですね」

 千春さんは放心したような力ない表情で二人を席に案内した。

 案内を終えると、逃げるようにカウンターの奥の部屋へ消えた。

 ――どうしたんだろう。千春さんの様子がおかしい。


 席に着いたお客さんの会話が聞こえてきた。

「ほら、千春さんはあのカフェ・ドルチェヴィータの店員さんだったの」

「ああ、あの店ね」

 ドルチェヴィータって、確か栄にあるオシャレなカフェだったな。千春さん、前はそこで働いてたんだ。急に辞めちゃったって、何があったんだろう。お客さんとのトラブル? プライベート? もっと聞きたい気持ちもあったけど盗み聞きするのも気が引けるので、私はバッグから本を取り出して読み始めた。でも脳は千春さんのことを考え続けていて、内容は入ってこなかった。


 千春さんが、私に持ってきたコーヒーを渡す。

「お待たせしました、カフェラテです」

「ありがとう」

 もらったカップを見ると、ラテアートのハートが少しバランスが崩れ、歪んでいるように見えた。

 私は意を決して千春さんを見上げた。

「千春さん、何かありました?」

 一瞬驚いたような顔になったが、千春さんはすぐに微笑んだ。

「何もないですよ、大丈夫です」

 そう言うが、すぐに目を逸らされてしまった。私が見つめていると、

「さ、飲んでください。カフェラテは出来立てが一番美味しいんですよ」

 と言ってカウンターの方へ戻ってしまった。はぐらかされたような気がする。

 ――やっぱり何かあったんだろうな。

 一口飲むと、いつもよりも少しだけ苦いカフェラテの熱が、体を巡った。


 次にカフェを訪れたときも、千春さんは気持ちが沈んでいるようで、いつものようにコロコロ変わる可愛らしい表情や、弾むような声、活気のある仕草が見られなかった。


 カフェから帰ると、私は千春さんにメッセージを送ろうとした。明日は千春さんのバイトはない曜日だ。会って話をしたい。

 私に悩み相談なんて、できないかもしれない。でも何かの力にはなりたい。いつも私ばかりが助けてもらっている。恩を返すときが来たんだ。

 何て送ったらいいだろう。『元気?』 違うな、『大丈夫?』『会いたいな』……うーん、よく分からなくなってきた。いろいろ考えた挙句、送ったメッセージは『明日、どこかで遊ばない?』になった。なんかデートのお誘いみたいかな?

 既読になってからも返信が遅い。やっぱりこんなのじゃ断られるかな、もっと気の利いた文面があったかな、そう思っていると返信が来た。

『いいですよ』

 ちゃんと返事が来て、とりあえず一安心。あまり遠出はしたくないとのことで、カフェ近くの公園にした。


 翌日、公園に着くと千春さんはベンチに座って待っていた。

「すみません、お待たせしました」

「いえ、わたしが早く来てたんです」

 乾いた笑顔でそう答える千春さん。とても痛々しい。そのまま、立ち上がって歩き始めたので私も着いていった。

 公園の中には、池がある。周りは散歩コースになっていて、今日のように平日の午前中はお年寄りの方がウォーキングしていることが多い。歩きながら水面に目をやると、鴨がのんびり泳ぎ、白鷺も岸辺に立ってじっとしている。私から誘っておいて、話を切り出すタイミングが掴めなかった。

「この公園、バイト先の近くだけどこの辺には来たことないんですよね」

 重い空気に少しだけ風を吹かせてくれた。きっかけで私も応対できる。

「私も。結は遊具で遊びたがるから、それ以外のところは来ないかな。……あおいちゃんは元気?」

「元気で可愛いですよー。わたしが働き始めちゃったから、遊んでくれないって怒ってるみたいですけど」

 そう言って少し微笑む千春さんを見て、少しホッとする。でも、表情にはまだ陰があるように思えた。

「……ゆーなさん、心配かけてごめんなさい」

 突然、千春さんが立ち止まり私の目を見た。

「え……?」

「わたしが元気ないから、誘ってくれたんですよね」

 お見通しだ。そりゃそうか、今まで私から誘ったことなんてなかったし。

「……うん、そうだよ。少しでも力になれたらって」

「わたしは大丈夫です。ゆーなさんに迷惑はかけません」

「違うよ、私は……。千春さんにいつも助けられてる。迷惑だって、むしろかけて欲しいくらいっていうか……いや、迷惑ってわけじゃないんですけど! お返ししたいんです。いつものお礼として」

 言葉がうまく出てこないのがもどかしい。自分のコミュ力の無さを恨む。

 千春さんは、仕方ないといった雰囲気でポツリと言った。

「じゃあ、愚痴というか。話だけでも聞いてもらえますか」

「もちろん」

 千春さんが再び足を進めたので、私も隣を歩いた。

「わたし、前のカフェで店長と付き合ってたんです。それでまあ、前にも言いましたが別れました。まだ一年も経ってません」

 そうか。別れるのと同時に、お店も辞めちゃったんだ。私は黙って頷いた。

「その人が結婚したのを知ったのはつい今週のことです。たまたま、前のカフェの常連さんだった人に会って……聞きました」

 千春さんは、大きく息を吐いた。

「それで分かったんです。わたし、結婚するのに邪魔だったんだなって」

 千春さんの声が震える。

「別れたこと自体は、べつに良いんです。恋愛ってそういうこともあるでしょう。でも、付き合ってたこと自体がなかったことにされたみたいで、自分の存在が否定されたみたいで。わたしって何だったんだろうって……」

「そんなことないよ!」

 思わず叫んでいた。

「私は千春さんにたくさん助けてもらってるし、いつも感謝してる。存在が意味ないなんて、思わないよ」

「……ゆーなさんは分かってないんです」

 歩みを止め、冷たい声で千春さんはつぶやいた。

「どうして? 私は千春さんのこと、大切な友達だって……」

「だって、ゆーなさんだって――」

 千春さんは顔を背けたまま、肩を震わせて言い放った。


「結局は男と結婚した人じゃないですか!」


 千春さんがハッとして口を押さえた。

 私はその発言の意味が理解できなかったが、彼女を傷つけてしまったことは分かった。

「千春さん、ごめ……」

「すみません、今のは忘れてください。今日は帰ります」

 私の言葉を遮り、逃げるように千春さんは去っていった。

 追いかけたい気持ちもあったが、さらに拒絶されたらどうしようという考えが足を止めた。元気づけるどころか、傷つけてしまった。私にも、千春さんを助けられると思っていた。でも、それは思い上がりだった。

 千春さんが見えなくなっても動けず、無力さへの絶望と後悔と羞恥から、涙が溢れるのを止められなかった。

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