ラテアートにハートをのせて
千鶴田ルト
第一話 千春さんとの出会い
私と
それは、人付き合いの苦手な私が珍しく自分から話しかけたのがきっかけだった。
偶然か、必然か、運命か、気まぐれか。
そのときの私には知る由もないが、この日が私の人生における大きな分岐点だったことだけは確かだ。
「おかあさん、はやくはやくー」
玄関にいる娘の
とび跳ねるたびに、二つ結びの毛先も合わせてピョンピョン弾む。
今日は幼稚園の親子工作イベントがあるため母子で通園する予定だ。まだ出発時間には十五分ほど余裕があるが、結の心はすでに準備万端だった。
私は、残ったコーヒーを飲み干しバッグを手に取った。
「はいはい、お母さん靴履くから、待ってね」
食後のコーヒーはゆっくり味わえなかったが、無邪気に喜ぶ娘の姿にはそれ以上に心が満たされる。
結自身は何も心配がないほどに健やかに育ってくれている。
しかし、私の足を重くしている原因は他にあった。
娘が生まれて四年経つが、いまだにママ友なるものがいないのだ。
もともと人付き合いが苦手なので、ころな禍を理由にするまでもなく出産前から近所付き合いもほとんどない。
今年の四月から娘は幼稚園に入ったが、六月の今まで他のママ達と関わり合うことも片手で数える程度しかなかった。
令和の時代には、そういうのあまりないのかな、なんて自分のコミュ力の無さを正当化していた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
幼稚園に到着し、今日の活動場所の保育室に入ると――。
すでに、いくつかの『輪』ができていた。
他の親子たちはグループを作り、談笑しながら開始時間を待っている。
一体どういうタイミングで仲良くなったのだろう、という純粋な疑問と、もしそんなタイミングがあったとしても自分はこんな風に仲良くなれないだろうな、という自嘲的な思いが交差する。
一人でいることには慣れているつもりだったが、娘に寂しい思いをさせるのは避けたかった。
結とつなぐ手に、汗が滲む。
「あ、あおいちゃんだ!」
結の声に振り向くと、視線の先には『あおいちゃん』であろうボブカットの女の子とその隣には母親らしい女性が座っていた。
その女性は、目立つというわけではないが、どこか独特の空気を纏っていた。
私よりだいぶ若そうで、二十代半ばくらいだろうか。
母親特有の疲れや力みのようなものを感じられす、自然体。
今どきの親世代には珍しく髪をまとめることもせず、パーマがかった長いブラウンの髪をそのまま下ろしていた。
服装はゆったりしたパーカーとデニムで、細身の体を引き立たせてよく似合っている。
グループに混ざっていなくてもあまり気にしない様子で、母子二人だけで会話している。
「結、あの子がおともだちのあおいちゃん?」
「そうだよ」
あおいちゃんのことは、家で何度か結から聞いたことがある。
結の嬉しそうな顔を見て、私は少し勇気が湧いてきた。
これなら、自然に話しかけても大丈夫かもしれない。
「あの、」
私はあおいちゃんのお母さんに話しかけた。
知らない人に話しかけるのは、何年ぶりだろうか。
「あおいちゃんのママですよね。ご一緒していいですか?」
声をかけると、彼女は振り返って少し私の顔を見て、固まった。
どうしよう、困らせてしまっただろうか。
それとも、急に話しかけてきた不審者に思われただろうか。
なかば後悔しつつ、数秒(も経っていないと思うが)見つめられた後。
ぱっと明るい笑顔を浮かべて、
「いいんですか? よかった、ありがとうございます!」
と受け入れてくれた。
ほっとした後、素朴で可愛らしい反応をするんだな、とこちらが少し照れてしまった。
「あおちゃん、一緒にやってくれるって。えっとお名前は……」
「ゆいです! あおいちゃんいっしょにやろ!」
結は元気に答える。
「うん……いっしょにやる」
対するあおいちゃんは物静かだが、嫌がっているわけではなさそうだ。おそらくいつも、こんな感じで結が誘っているのだろう。結は私に似ず社交性が高いようである。
あおいちゃんのママはしゃがみ込んで、結に目線を合わせて言った。
「ゆいちゃん、ありがとう! わたしのことは
ママ友同士は『○○ちゃんママ』などと呼ぶものだと思っていた私は少し出鼻をくじかれたが、気圧されずに
「
と名乗った。あおいちゃんは私の顔と結の顔を交互に見て、緊張した面持ちでうんと頷いた。この子の方がわたしに近いかもしれない。
千春さんはそれを確認した後、
「ゆーなさんですね! よろしくお願いします!」
千春さんはハキハキとした素直な人みたいで、他のグループに入っていないのが不思議だった。
こうして、私たちは工作の『ちぎり絵のあじさい』を共に作る仲間を得た。
しばらく一緒に工作をしていて、あおいちゃんと千春さんの会話を聞いていると。
「できないよー。ちいちゃん、やって」
「じゃあ、ちいちゃんはこっち貼るから、あおちゃんはこっち貼れるかな?」
あおいちゃんは『ママ』とか『お母さん』ではなく、『ちいちゃん』と呼んでいるのだ。
まあそういう家庭もあるよね、と思っていると、顔に出ていたのか目が合った千春さんは私に向かって言った。
「あー、実はわたしたちほんとの親子じゃないんです」
「えっ」
訳アリなんだろうか、聞いていい話なんだろうか、などといろんな考えが頭の中を駆け巡る。
そんなわたしを見かねたのか、千春さんは悪戯っぽく笑い、
「すいません、半分冗談です。姉の子どもなんです。つまり姪っ子。ねー、あおちゃん」
あおいちゃんが無言で頷いた。
「あっ、あー。そうなんですね」
勝手にテンパってしまったのが恥ずかしくて、やけに大きな声で返事をしてしまった。
しかし、彼女が他の母親たちとは異彩を放つ理由がわかった。本当に『母親』ではないからだったのだ。
「姉が体調くずしてしまったので、今日は代理で来たんです。いま仕事してないんで、ダラダラしてるくらいなら手伝えって言われちゃいまして。あ、よけーなこと言ったかも」
あはは、と楽しそうに話す千春さん。私も当てられて思わず笑みがこぼれる。
「はい、むらさきあげる!」
結は甲斐甲斐しくあおいちゃんに構いたがり、
「ピンクあげる」
あおいちゃんもお返しをする。
二人の協力で、各々のあじさいのちぎり絵は成長していった。
千春さんは二人の子供を見守りながら私に話しかけた。
「結ちゃん、すごくしっかりしてますね。あおちゃんのこと、面倒みてくれてありがたいです」
「私には出来すぎた娘ですね。いつも元気もらってます」
「きっと、ゆーなさんの育て方が良いってことですよ。結ちゃんは幸せだと思います」
圧倒的コミュ力に褒め殺されてしまう。焦った私も、千春さんを褒めてみようと思った。
「いえいえ。千春さんこそ、代理を任されるってことは相当あおいちゃんに懐かれてるんじゃないですか? 今日も対応が慣れてそうですし」
「姉がてきとーなもので、よく押し付けられるんですよー。まあ、てきとーさではわたしも負けてないですけど。なんたってあおちゃんがカワイイので、頼まれると断れないですね」
無邪気に笑う千春さんを見て、こちらも癒される。大学の友人とも疎遠になってしまった今、こんな風に何気ない会話を夫以外とするのは本当に久しぶりだった。心の風通しが良くなり、重い空気が入れ替えられたように感じる。
「結ちゃんのあじさい、キレイだねー!」
結は千春さんに褒められると、最初は恥ずかしがっていたがだんだん打ち解けていったようだった。
「ちいちゃん、こっち!」
「ねえねえ、これもキレイ?」
あおいちゃんと結で、千春さんの取り合いになってしまった。
こうして見ると、結は本当に人見知りしない性格で私とは正反対だ。
思わず笑みをこぼすと、千春さんも釣られて笑ってくれた。
工作を終え、結は豪快に大きめにちぎった折り紙で、あおいちゃんは繊細に細かくちぎった折り紙で、それぞれちぎり絵を完成させた。どちらも微笑ましいが、露骨に性格が出るものだ。二人とも満足そうで、私と千春さんは微笑み合った。
よく見ると、あおいちゃんの作ったあじさいの上には色鉛筆で描かれたかたつむりがいた。千春さんが描いたのだろう、可愛らしい絵だった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
「今日は本当に楽しかったです! 結ちゃんとゆーなさんのおかげです! ありがとう!」
社交辞令なのは分かっているが、こんなに元気に言われるとこちらも嬉しくなる。
「こちらこそ、ありがとうございました。結も楽しかったみたいです」
この短時間ですっかり懐いてしまった結は、
「あおいちゃん、ちいちゃん、ばいばい!」
と千春さん(いつの間にかちいちゃんなんて呼んで)にも別れのあいさつをした。
互いに別れ、なんとなく振り返ると千春さんも同じタイミングで振り返ったようで、目が合った。
私が会釈をすると、千春さんは人懐っこい笑顔で手を振ってくれた。
次に会えることはあるだろうか。代理で来ているなら、幼稚園で会うことは今後はないのかもしれない。
そう考えると、少し寂しく感じた。
帰り道、いつものように特に深い意味もなく結に聞いてみた。
「今日は楽しかった?」
「うん、たのしかった! おかあさんは?」
聞き返されて、思わず答えに詰まってまった。
いつもなら意識せずに『お母さんも楽しかったよ』と答えているところだ。それも嘘ではなく、ある種の形式的なコミュニケーションでしかないが、今日はそのように答えることを憚られた。
「うん、お母さんもすごく楽しかったよ」
心からの本心であるが故に、決まり文句で返すことに抵抗があったのだと思う。楽しかった。その理由は、間違いなく千春さんに会えたことにある。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
夜、結が寝た後に夫の
「おかえり。遅くまでお疲れさま」
ラップをかけてあった晩御飯のおかずをレンジにかける。
私も休憩しようと、コーヒーメーカーを出した。
飲んでも寝られなくなる体質ではないので、夜のリラックスタイムにはいつもコーヒーを淹れている。
「たっくんもコーヒー飲む?」
「んー、俺はいいや」
フィルタをかけ、挽いてあるコーヒー豆を一杯分だけ入れる。
ミル付きのものだが、音が大きいので最近はすっかり使っていない。
拓馬が着替えを終えてテーブルに着いたので、私は温めたおかずとともに白いご飯を出した。
ちょうどコーヒーも抽出されたのでマグに注ぎ、温かい香りを楽しむ。
ゆっくりと一口飲むと熱が身体に染み渡り、思わずふう、と息を吐いた。
「今日は幼稚園のイベント、お疲れさま。どうだった?」
拓馬が箸を運びながら聞いてくる。
「ありがと。結は元気に幼稚園楽しんでるよ。仲の良い友達もいるみたい」
「それは何よりだね。優菜はママ友できた?」
その問いには少しだけ考え、
「どうかな。でも、楽しい人はいたかな」
脳裏に浮かんだ顔に何故か少し気恥ずかしくなり、再びコーヒーを流し込んだ。
「そうか。……無理に作るものでもないよね」
こういうとき、拓馬は本当に申し訳なさそうにする。
私が人付き合いを苦手としていることを分かっているから、それをさせている責任を感じているらしい。
でも、拓馬には仕事を頑張ってもらっているし、仕事をしていないときは結の面倒も見てくれる。
私もそれに応えたいという気持ちはある。
「ううん、大丈夫」
それに、今日のことは本当に楽しかったのだ。
コーヒーを啜りながら、千春さんの元気な顔と明るい声を思い返す。
連絡先くらい、交換しておけばよかったかな。
でも、どちらにしろそんな勇気があるわけがなかったのである。
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