『鬼の花嫁は、契りの夜に笑わない』
ブロッコリー
第1話
第一話 ──鬼の花嫁──
山の神に、娘を差し出すことになった。
そう聞かされたのは、春を迎えたばかりのある夜だった。
梅が咲きはじめた村のはずれ、綾女は囲炉裏の前で固まっていた。
「……私が、鬼に嫁ぐの?」
「“鬼”ではない。“神”だ。山の主、八雲さまに他ならぬ」
そう言ったのは、村の長老だった。ひどく老いた男で、目尻に刻まれた深い皺が、まるで山の年輪のようだった。
「お前には、その血がある。昔から特別だった。八雲さまもそれをお見通しなのだろう」
綾女は何も答えられなかった。
この村では、代々「神の嫁」が選ばれるという風習がある。
飢饉や疫病、災いが続いた年には、山の神へ“花嫁”を捧げ、山の怒りを鎮めるのだ。
迷信じみた話だった。けれども、実際に“花嫁に選ばれた者”は皆、姿を消した。
戻ってきた者は、誰もいない。
綾女は、村の者の視線に耐えられず、神社の裏手へ逃げるように走った。
満月が雲に隠れ、空は墨をこぼしたように暗い。
鳥居の奥には、獣道のような登り坂。
その先にあるのが“神の森”。立ち入ってはならぬ禁域。
だが、そのとき──
「行くのか?」
突然、背後から声がした。
綾女は振り向く。そこに立っていたのは、一人の男だった。
白い狩衣。髪は長く、漆のように黒い。
瞳は赤銅色で、人のものとは思えぬほど透き通っていた。
──否。
人ではない。
その空気、匂い、存在そのものが、異質だった。
「……あなたは」
「山の主、八雲だ」
男は静かに名乗った。
その声音には、感情というものがなかった。冷たく、どこか哀しげでさえあった。
「なぜ私を選んだの?」
綾女は、少しだけ勇気を出して尋ねた。
すると八雲は、眉一つ動かさずに言った。
「選んだのではない。お前が来ると決まっていただけだ」
「そんな勝手な……」
「代わりに、村には災いを与えぬ。それが契約だ」
契約。
まるで売買のような言葉に、綾女は唇を噛んだ。
「……私はただの娘です。神の嫁なんて務まらない」
「望んではいない。嫁という形が必要なだけだ」
八雲は一歩近づき、綾女をまっすぐ見つめた。
「契約だ、綾女。形式だけの夫婦となる。指一本触れぬ。
一年、それだけ我慢すれば、お前も村も、自由になる」
「……それが、本当に“神”の言葉なの?」
綾女の問いに、八雲はわずかに目を細めた。
「私は神ではない。……鬼だ」
その夜、綾女は村を出た。
花嫁衣裳も、式もない。ただ、月夜の山道を、鬼に導かれて進む。
歩けば歩くほど、冷たい風が肌を刺した。
けれど不思議と、怖くはなかった。
八雲の後ろ姿は、静かで、どこか孤独だったから。
たどり着いたのは、霧に包まれた屋敷だった。
桜が一輪も咲かぬ中庭。
黒塗りの柱に、紅い紙灯籠だけがゆらゆらと揺れている。
八雲は黙って扉を開け、綾女に言った。
「ここが、お前の部屋だ」
「あなたは?」
「別の棟で過ごす。……契約通りだ」
──こうして。
少女は鬼と仮初めの契りを交わし、
花も香もない“契約結婚”が始まった。
けれどそのとき、綾女は知らなかった。
この一年が、
神と鬼と人間、そして──“本当の自分”を巡る旅になることを。
(第一話 了)
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