日記

@YUGI54

第1話 看板制作

八月四日、夏休み一日目の月曜日

 世の学生たちの多くが惰眠をむさぼり、夢と現のあわいを彷徨っているであろうその刻、私はひとり、眠気を押しやりながら身支度に取り掛かっていた。世は夏休みであるというのに、私はまるで何事もなき平日であるかのように、早朝七時に目を覚ましたのである。窓外には真夏の陽が容赦なく照りつけ、空には一切の雲もない。蝉は声高に夏の到来を謳い、世界はただ眩しさの中にあった。かかる晴天の日に、わざわざ早起きをして外へ出ようなど、常人の感覚では考え難いことであろう。それでも私は、己の意思というより半ば義務感に突き動かされるように、重く沈んだ身体を無理やり起こしたのだった。

 朝の支度を終えたのち、私は簡素ながらも心満たされる朝食を口にした。味玉―めんつゆにゆったりと浸されたそれは、白き殻を剝がされてなお気高さを保ち、艶やかに光を湛えていた。まるで食物であることを忘れ、何かしらの美術品のように思えた。私はそれをそっと箸で口に運びながら、静かに一日の始まりを実感した。

 電車に乗り、私は目的地へと向かう。車内は平素に比べ幾分人影がまだらで、夏休みという季節の色を否応なく感じさせた。ざわめきは少なく、窓の外を流れる景色も、どこか緩慢である。

 駅に降り立ち、私は学校までの道のりを徒歩にて辿る。紫外線アレルギーという厄介な持病を抱える身として日傘は外出時の常なる伴侶である。傘の影を頼りに、私はとぼとぼと歩き始めた。いつもなら自転車で疾走し、ただ通り過ぎていた風景が、今日は妙に鮮やかに映る。同じ道のはずなのにどこか異界めいている。人の気配が絶え、今にも崩れ落ちそうな古びた建物、閉ざされたシャッターが開く日など二度と訪れぬであろう商店街、猫が姿を消していった細い路地―――まるで現実と夢の隙間のような朧げな世界である。古本屋の奥では、ひとりの老人が身じろぎもせず、黙々と頁を捲っていた。その姿に、不意に時間が止まったような錯覚を覚える。こうした光景の一つ一つが、私の胸をじわりと躍らせた。現実と非現実の境界が滲む場所に、私は確かに足を踏み入れた。

 学校の門をくぐると、友人が私を見つけて手を振った。その表情には、いつものように曇りがなかった。彼―ここでは仮に佐藤と呼ぶことにする―は、朗らかに、まるでこの夏の陽光そのもののような明るさで私を迎え入れた。

 なぜ、私はわざわざ夏休み中に学校などという場所へ足を運んだのか。理由はひとつ、文化祭である。夏休みが明ければすぐに本番を迎えるその催しの看板を、私は作らなければならなかった。尤も、私は文化祭実行委員ではない。本来、関わる義務も責任もない。だが、その看板のデザインを担当したのが、ほかならぬ私であったがために、考案者本人が制作に携わった方が手早く、都合もつきやすいという理由でこうして呼びだされたのだった。朝の陽気は既に消え去り、夏の容赦ない熱気が全身を包んでいた。暑さと倦怠が、私の精神をゆっくり蝕んでいたのかもしれない。

 それにしても、いつもは何の違和感もなく隣にいるはずの佐藤の存在が、その日に限っては妙に鼻についた。声が造られているように感じ、その振る舞い一つ一つが、わざとらしく思えた。私は、彼のことが、どうしようもなく、疎ましくなっていた。

 佐藤は性格が良い。恋人もいて、友人も多い。愛想がよく、誰に対しても分け隔てなく接する。そういう人間だった。それに引きかえ、私は暗く、口数も少ない、意欲というものに乏しい。社交にも長けていない。私は、私と彼とを、どこかで比較していたのだろう。そうして、自分より優れたものに対しての、卑しい劣等感を募らせていたのかもしれない。

 看板の制作はしばらく順調に進んだ。しかし途中、佐藤は他の友人たちと楽しげに談笑を始めた。

 私はふたたび、彼を嫌悪した。

 これは私の性格の問題だと分かっていた。怠惰に生き、何者にもなり切れぬ自分が、他人の在り方に口を挟む資格などあるはずもない。まず己の不出来を見つめるべきだ―――そう考えているはずなのに、どうしても「鬱陶しい」と感じてしまう。それはおそらく、私の中にある浅ましき欲望、すなわち「彼は私より劣っていてほしい」という無意識の願いが、心の奥底に潜んでいるかれではなかろうか。

 私は、彼らの会話に耳を傾けた。「このあと、二人でどこかへ行こうか」という言葉が聞こえた。私は、誘われるのを待っていた。けれど、その声は来なかった。彼らはきっと、私の家が学校から遠いことを気にかけてくれたのだろう。私もそれを理解していた。けれど、理解していたとしても、心のどこかが疼いた。

 私はそのまま帰路についた。帰り道の途中で私は泣いた。特にひどいことをされたわけでもないのに。それなのに、自分の意思とは裏腹に流れる涙の訳が分からなかった。駅まで迎えに来てくれた母の車に無言で乗り込む。母は心配そうに何か嫌なことがあったのか、と問いかける。その声を聞いた瞬間、こらえていたものが喉の奥でぐらりと揺れた。言葉にしてしまえば、すべてが決壊してしまいそうだった。だから私は何も言わず、ただ視線を窓の外に向けた。こらえられなくなった涙が流れた。


私は蝉が嫌いだ。いきなり大きな声で泣き出す。つんざくような音に耳を塞ぎたくなる。その声は徐々に弱弱しくなり、やがて聞こえなくなった。それは死を示唆する。それがなんだかとても悲しい物事だと私の脳は誤認してしまい、私は涙を流すこともある。蝉は嫌いだ。 

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