官渡〜最大の決戦〜
ヨシキヤスヒサ
本編
1.嵐の前
1−1.
進軍する
衰えたとはいえ、かつて覇を唱えた群雄である。それに対して差し向けるべきは誰かとなれば、我軍では
しかし、劉備と
「丞相閣下はそこを含めて劉備殿をお選びなさったと思いますよ」
風貌通り、涼やかに
「今、軍の再編をしておられる。
「しかしだね、
「
「それがこわい。
「顔良と文醜は
竹簡をまとめながら、荀彧はさっと答えた。
「つまりは、何の心配もいらない、ということですよ」
そうやって、荀彧はにこりと笑った。
「君はいいな。そうやって冷静に、物事を判断できる」
「敵には敵で人材がいる。そして味方には味方で人材がいる。私や、あなたのように」
「私は凡夫だよ。袁紹の倅ごときに追いやられた」
「それでも、あなたには血筋がある。私や丞相閣下にとっては、喉から手が出るほどのものが」
言われて、孔融は気恥ずかしくなって、顎髭を撫でるに留めた。
かの
しかし、凡庸だった。それはいちばんに自分がわかっていた。
「
それでも、思ったことを言っていた。
「
「
その言葉に、孔融は二の句が継げなかった。側に座していた
「それはつまり、
「なんと、それは。どこからかね?」
「程昱殿の手のものから。それを今、僕の方で差配しています」
にこりと、こちらも美貌といっていい顔を崩していた。
「
「しかして、人ひとりに過ぎぬぞ、
「相手も人ひとりさ、孔融殿。
そうやって、からからと笑った。状況がわかっていないともいっていい明るさだった。
袁紹の息子、
常時、戦、戦の情勢。流民ばかりの都。不満ばかりの皇帝と漢臣をあの手この手で抑え込むしかない状況。
それでも
軍には夏侯惇と曹仁がいる。文官としては程昱、荀彧、郭嘉の三羽烏。辺境向けの総督としても鍾繇や
しかし、何かが、というより、すべてが物足りない。不安になる。
「閣下、閣下」
最前線、
がなり立てながら、孔融は本営の廊下を走っていた。
「閣下にお目通り願いたい」
「いかがしたよ、孔融殿」
それは
「閣下に具申いたしたきこと、これあり」
「待て待て、いいところなのだ。これなる糜竺殿めの困る顔を、今少し楽しませておくれよ」
「あいや、丞相さま。もう少し手心というものをですな」
「何を申すか、糜竺殿。今もこれからも、俺と貴公は敵同士。敵を困らせに困らせて勝つのが兵法の常というものじゃろうて」
そうやって楽しそうに黒をひとつ指す。それで糜竺の丸っこい体が跳ね上がった。
「
「徐州
「そうだよな。しかして朱霊めもそちらにはなびかぬまい」
「袁術さま、陣中にて没す。そういうことも起こりえましょう。そうなれば朱霊さまは馬首を返さざるをえませんでしょうに」
「まるで見てきたかのように言う」
「丞相さまに程昱さまあれば、我らには
「はは。あの男ならば、あるいは」
それらの言葉に、ひやりと背中が冷たくなった。
それをあの程昱と並べるような言い方をするとなれば、つまりは劉備軍における謀略の要か。
「暴君
「しかして、まずは統治からです。いきなり丞相さまに弓引くなどとは」
「そう。まずは統治。それをやられると俺たちは死ぬる」
また指した黒に、糜竺はびくりと跳ねた。面白いぐらいに。
「でもそれはしないさ。必ず袁紹と結ぶようなことをするだろう」
「それは、なにゆえに」
「
曹操の言葉に、しかし糜竺の体は震えもしなかった。
「あの場所の賊は俺の手駒だ。
「そしてそれを、我らが益徳は掴んでいると」
「それを掴めぬようであれば凡百だよ」
「北か南。となれば北の袁紹さまでしょうな。南の孫策さまは、
「孫策と劉表の二枚が噛み合えばよかったが、そうもならんだろう。親の仇だ。だからこれは見なくていい。西の
「そのための車冑さまと」
「あれはいちいち、ひとこと多いからな。徐州着任の件も、左遷と思っているふしがある。
「ああもう、
「そこがあれのいいところさ、糜竺殿。劉備は
「その見積もりでようございます」
一手。それで、糜竺が心底からにこりと笑った。
「参りましてございます」
「よし、勝てたぞ。糜竺殿はか弱いが、なにせ小癪だ。篤実が過ぎて、俺の本心まで引き出そうとする」
「私の主君は、あくまで
「劉備めも強欲よなあ。これだけの人がいて、なお天下を目指そうというのだから」
「まことその通り。徐州ひとつで我慢してくだされば、それでようございますのに」
「そのとおりだよ。はは。それでは糜竺殿、主君のところへ」
「はっ、過大なるご
慇懃な拝礼の後、糜竺が席を立つ。
孔融はそれを見ていることしかできなかった。
「それで、どうしたよ?」
言われてきっと、はっとしていたと思う。
「劉備についてでござる」
「先ほどの糜竺殿とのやり取りのとおりだ。心配ご無用。俺が顔を出せば、あれはびっくり仰天するはずさ。足元を固める前に散らしてやる」
「しかしてその間は、この黎陽ががら空きになり申す」
「于禁、
その言葉に、孔融ははっとしていた。
「この黎陽の地に、袁紹本軍が出向いてくると?」
「俺は劉備を撃退した後、
「しかし、寡兵をもって大軍に相対するには」
「死力を尽くすしかない。常道では絶対に勝てない戦だ。そういう戦を、これからする」
曹操が二度、手を鳴らす。入ってきたのは、曹操と同程度の
「ここまで、この
その風采のよくない男は、やはり見た目通り、適当な作法で拝礼した。
「戦略単位で勝ち目はないことはわかりきっていることです。それであれば、その末端である戦術単位、戦局単位で物事を成立させないようにすればいいだけです」
ぼうっとした声。しかも、極論も極論である。
「面白いだろう、こいつ。こんなことばっかり言うものだから、頼り甲斐しかないものでなあ」
「文若の甥御殿ですな?才気煥発とは聞いていましたが、いや、あの、これはまた、どう表現してよろしいものか」
「鬼子だの忌み子だの言われてきましたので、何とでも」
「いや、あの、そういう意味ではござらんが」
言いながら、孔融は難しくなって、頭を掻きむしった。
「何だったら行くか?徐州」
言われた言葉に、きっときょとんとしていた。
「行くだけだ。それで終わる。戦になりもせん」
「劉備がその程度の男だと?」
「今ならな。ひと月後ではまた変わる」
誰かの唸り声が聞こえた。自分のだった。
「おい、
曹操が、傍らに控えていた巨躯に声をかけた。
「こわい顔をしてみせろ」
言われた側は、きょとんとした顔である。
「こわい顔だよ。劉備のやつが逃げ出すぐらいにこわいものさ」
そう言われて、どうしてか許褚は、その
「おお、
「いいのだよ、孔融殿。俺にとっても虎痴のこの顔は、いちばんにこわい」
涙まで流しながら、曹操は笑っていた。
「お前なんてどうってことないんだぞ、って顔だ。機嫌を損ねたら、首どころか胴を刎ねられかねん」
曹操の言葉に、許褚は応えるようにして薙刀をどんと鳴らした。
言われて見てみれば、なるほど、餓えた虎がよだれを垂らしているような表情にも見えて、孔融はつま先から指の先までぶるぶると震えていた。
(つづく)
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