官渡〜最大の決戦〜

ヨシキヤスヒサ

本編

1.嵐の前

1−1.

 進軍する劉備りゅうびの一軍を眺めながら、孔融こうゆうはため息をついていた。


 袁術えんじゅつ討伐。

 衰えたとはいえ、かつて覇を唱えた群雄である。それに対して差し向けるべきは誰かとなれば、我軍では曹仁そうじんか、あるいは劉備か、となる。

 しかし、劉備と徐州じょしゅう。この組み合わせである。その先に何があるかなど、容易に想像しうることではないか。


「丞相閣下はそこを含めて劉備殿をお選びなさったと思いますよ」


 風貌通り、涼やかに荀彧じゅんいくは答えた。


「今、軍の再編をしておられる。許褚きょちょ張遼ちょうりょうの五千が空いている。つまりこれを徐州に差し向けるというお考えでしょう」

「しかしだね、文若ぶんじゃく。そうなれば丞相閣下は本陣を空けることになる」

袁紹えんしょうは、小細工を弄するに及ばず、と判断する」

「それがこわい。顔良がんりょう文醜ぶんしゅうがいる。田豊でんぽう許攸きょゆうも。何だったら審配しんぱい逢紀ほうきすらも」

「顔良と文醜は匹夫ひっぷの勇。田豊は強情で目上の者に逆らい、許攸は貪欲で足元が覚束おぼつかない。審配は独断的で無計画。逢紀は自分の判断に自身がありすぎる」

 竹簡をまとめながら、荀彧はさっと答えた。


「つまりは、何の心配もいらない、ということですよ」

 そうやって、荀彧はにこりと笑った。


「君はいいな。そうやって冷静に、物事を判断できる」

「敵には敵で人材がいる。そして味方には味方で人材がいる。私や、あなたのように」

「私は凡夫だよ。袁紹の倅ごときに追いやられた」

「それでも、あなたには血筋がある。私や丞相閣下にとっては、喉から手が出るほどのものが」

 言われて、孔融は気恥ずかしくなって、顎髭を撫でるに留めた。


 かの孔丘こうきゅうの末裔である。言われた通り、血筋については荀彧や曹操そうそうなぞ歯牙にもかけない。

 しかし、凡庸だった。それはいちばんに自分がわかっていた。


臧覇ぞうはが前に出すぎている」

 それでも、思ったことを言っていた。

公孫瓚こうそんさんが敗れた。となれば次は南。そこまではわかる。鄄城けんじょう程昱ていいく洛陽らくよう夏侯惇かこうとん。黄河流域に于禁うきん。そして長安ちょうあんには鍾繇しょうよう。これも適切だ。しかし臧覇だけは前すぎる。青州せいしゅうに侵入しにいくような動きだ。迂闊、とも言っていいだろう。それはまさしく」


張繡ちょうしゅうくだる」

 その言葉に、孔融は二の句が継げなかった。側に座していた郭嘉かくかである。


「それはつまり、劉表りゅうひょうが動かないことを意味します」

「なんと、それは。どこからかね?」

「程昱殿の手のものから。それを今、僕の方で差配しています」

 にこりと、こちらも美貌といっていい顔を崩していた。


張繡ちょうしゅうもなかなかですが、なにより賈詡かくだよね、文若ぶんじゃくにい。あの無頼めはとびきりだ。あれがいれば孫策そんさくの動きすら止められるだろう」

「しかして、人ひとりに過ぎぬぞ、奉考ほうこう

「相手も人ひとりさ、孔融殿。江東こうとう孫策そんさくひとりで動いているといっても過言ではないからさ」

 そうやって、からからと笑った。状況がわかっていないともいっていい明るさだった。


 袁紹の息子、袁譚えんたんに青州から追いやられ、この許都きょとに逃げてきてから、孔融としてはほとほと、驚くことばかりであった。

 常時、戦、戦の情勢。流民ばかりの都。不満ばかりの皇帝と漢臣をあの手この手で抑え込むしかない状況。

 それでも曹操そうそう臣下の臣民は皆、生き生きとしていた。


 軍には夏侯惇と曹仁がいる。文官としては程昱、荀彧、郭嘉の三羽烏。辺境向けの総督としても鍾繇や夏侯淵かこうえんがいる。言う通り、人は足りている。

 しかし、何かが、というより、すべてが物足りない。不安になる。


「閣下、閣下」

 最前線、黎陽れいよう。わからないことは本人に聞く。

 がなり立てながら、孔融は本営の廊下を走っていた。

「閣下にお目通り願いたい」


「いかがしたよ、孔融殿」

 それは糜竺びじくと相対しながら、のんびりとを楽しんでいた。


「閣下に具申いたしたきこと、これあり」

「待て待て、いいところなのだ。これなる糜竺殿めの困る顔を、今少し楽しませておくれよ」

「あいや、丞相さま。もう少し手心というものをですな」

「何を申すか、糜竺殿。今もこれからも、俺と貴公は敵同士。敵を困らせに困らせて勝つのが兵法の常というものじゃろうて」


 そうやって楽しそうに黒をひとつ指す。それで糜竺の丸っこい体が跳ね上がった。


車冑しゃちゅう朱霊しゅれい、首の値段はどちらが高いか?」

「徐州刺史しし、車冑さまにござりますれば」

「そうだよな。しかして朱霊めもそちらにはなびかぬまい」

「袁術さま、陣中にて没す。そういうことも起こりえましょう。そうなれば朱霊さまは馬首を返さざるをえませんでしょうに」

「まるで見てきたかのように言う」

「丞相さまに程昱さまあれば、我らには張益徳ちょうえきとくがござりまする」

「はは。あの男ならば、あるいは」


 それらの言葉に、ひやりと背中が冷たくなった。


 張飛ちょうひという男。孔融に取ってしてみれば、粗暴者にしか見えていなかったが。あるいは上にへりくだり、下に威張り散らすような。

 それをあの程昱と並べるような言い方をするとなれば、つまりは劉備軍における謀略の要か。


「暴君呂布りょふ。そして暗君袁術のたおれたるのち、中山靖王ちゅうざんせいおうの末裔、劉皇叔りゅうこうしゅくが徐州に帰還する。筋書きとしては十分だろうさ」

「しかして、まずは統治からです。いきなり丞相さまに弓引くなどとは」

「そう。まずは統治。それをやられると俺たちは死ぬる」

 また指した黒に、糜竺はびくりと跳ねた。面白いぐらいに。


「でもそれはしないさ。必ず袁紹と結ぶようなことをするだろう」

「それは、なにゆえに」

黄巾賊こうきんぞく


 曹操の言葉に、しかし糜竺の体は震えもしなかった。


「あの場所の賊は俺の手駒だ。青州兵せいしゅうへい。少なからずを紛れ込ませている。いつでもまた、徐州一帯をずたぼろにできる程度には」

「そしてそれを、我らが益徳は掴んでいると」

「それを掴めぬようであれば凡百だよ」

「北か南。となれば北の袁紹さまでしょうな。南の孫策さまは、山越賊さんえつぞく劉表りゅうひょうさまで手一杯でしょうから」

「孫策と劉表の二枚が噛み合えばよかったが、そうもならんだろう。親の仇だ。だからこれは見なくていい。西の馬騰ばとう韓遂かんすいには、うちのとびきりを向かわせている。囲まれているように見えて、その実はがら空きだ。だから俺は、今は劉備だけをどうにかすればいい」

「そのための車冑さまと」

「あれはいちいち、ひとこと多いからな。徐州着任の件も、左遷と思っているがある。関羽かんうあたりがいやがるだろうさ」

「ああもう、雲長うんちょうめはどうして気位ばかりが高いのだか」

「そこがあれのいいところさ、糜竺殿。劉備は小沛しょうはい。関羽は下邳かひだな?」

「その見積もりでようございます」


 一手。それで、糜竺が心底からにこりと笑った。


「参りましてございます」

「よし、勝てたぞ。糜竺殿はか弱いが、なにせ小癪だ。篤実が過ぎて、俺の本心まで引き出そうとする」

「私の主君は、あくまで玄徳げんとくさまでございますれば」

「劉備めも強欲よなあ。これだけの人がいて、なお天下を目指そうというのだから」

「まことその通り。徐州ひとつで我慢してくだされば、それでようございますのに」

「そのとおりだよ。はは。それでは糜竺殿、主君のところへ」

「はっ、過大なるご寛恕かんじょにござりますれば。丞相さま」


 慇懃な拝礼の後、糜竺が席を立つ。

 孔融はそれを見ていることしかできなかった。


「それで、どうしたよ?」


 言われてきっと、はっとしていたと思う。


「劉備についてでござる」

「先ほどの糜竺殿とのやり取りのとおりだ。心配ご無用。俺が顔を出せば、あれはびっくり仰天するはずさ。足元を固める前に散らしてやる」

「しかしてその間は、この黎陽ががら空きになり申す」

「于禁、楽進がくしん延津えんしんから渡河させる」

 その言葉に、孔融ははっとしていた。


「この黎陽の地に、袁紹本軍が出向いてくると?」

「俺は劉備を撃退した後、白馬はくば劉延りゅうしんと合流する。そこでようやく開戦だ」

「しかし、寡兵をもって大軍に相対するには」

「死力を尽くすしかない。常道では絶対に勝てない戦だ。そういう戦を、これからする」


 曹操が二度、手を鳴らす。入ってきたのは、曹操と同程度の矮躯わいくだった。


「ここまで、この荀攸じゅんゆうの考えだ」


 その風采のよくない男は、やはり見た目通り、適当な作法で拝礼した。


「戦略単位で勝ち目はないことはわかりきっていることです。それであれば、その末端である戦術単位、戦局単位で物事を成立させないようにすればいいだけです」


 ぼうっとした声。しかも、極論も極論である。


「面白いだろう、こいつ。こんなことばっかり言うものだから、頼り甲斐しかないものでなあ」

「文若の甥御殿ですな?才気煥発とは聞いていましたが、いや、あの、これはまた、どう表現してよろしいものか」

「鬼子だの忌み子だの言われてきましたので、何とでも」

「いや、あの、そういう意味ではござらんが」

 言いながら、孔融は難しくなって、頭を掻きむしった。


「何だったら行くか?徐州」

 言われた言葉に、きっときょとんとしていた。


「行くだけだ。それで終わる。戦になりもせん」

「劉備がその程度の男だと?」

「今ならな。ひと月後ではまた変わる」


 誰かの唸り声が聞こえた。自分のだった。


「おい、虎痴こち

 曹操が、傍らに控えていた巨躯に声をかけた。

「こわい顔をしてみせろ」

 言われた側は、きょとんとした顔である。

「こわい顔だよ。劉備のやつが逃げ出すぐらいにこわいものさ」

 そう言われて、どうしてか許褚は、そのいかめしい顔をにっこりと破顔させた。それを見て、曹操は面白いものを見たように大笑いした。


「おお、仲康ちゅうこうよ。こわい顔だぞ?もっとこう、ぎろりと睨みつけるだとかをしてみせなさい」

「いいのだよ、孔融殿。俺にとっても虎痴のこの顔は、いちばんにこわい」

 涙まで流しながら、曹操は笑っていた。


「お前なんてどうってことないんだぞ、って顔だ。機嫌を損ねたら、首どころか胴を刎ねられかねん」


 曹操の言葉に、許褚は応えるようにして薙刀をどんと鳴らした。

 言われて見てみれば、なるほど、餓えた虎がよだれを垂らしているような表情にも見えて、孔融はつま先から指の先までぶるぶると震えていた。


(つづく)

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