第3話『約束をする話』

 一切の草木が生えておらず、土が剥き出しの一本道を除いて、一面の銀世界が広がっていた。

 雪原の中からは、暗い茶色のどっしりとした幹の巨大な針葉樹が至る所に広大な森林を成していた。

 純白の厚い毛皮を纏う山羊のような動物が、樹皮を反芻していた。その動物を狙うように白銀の大狼が雪の中に身を潜めていた。

 雪原を分断するように流れる大河には、純黒の魚が跳ねていた。それを喰らおうと、純白の荒々しい毛並みの大熊がバシャバシャと水飛沫をあげていた。


 銀世界の中に、古びた城壁で囲まれた小国があった。城下町や城の全てが漆黒の石造りであり、城はまるで頑強な要塞のような造りだった。城下町は多くの兵士が巡回しており、警戒態勢を敷いているということが見て取れた。

 兵士も民衆も、皆が(性別によって多少の差異はあれど)同様の黒い鎧や厚着をしており、暖かそうな格好ではあった。

 しかし、その面持ちはどれもが悲哀を感じさせるものばかりだった。

 老若男女、兵士や民衆などの年齢や階級・立場を問わず、誰しもが負の感情に支配されていた。泣き崩れる者、呆然とするもの、苛立つ者、号哭するもの、諦める者、瞳に固い決意を宿した者、と様々であった。


 その城下町を、一組の男女が歩いていた。

 男は短い黒髪に死んだ魚のような黒い瞳をしていた。整った顔立ちで20代ほどの人間だった。簡素な白いシャツに黒いローブを纏い、黒い下穿きを身につけ、袖と裾それぞれから鉛色のガントレットとグリーヴが覗いていた。

 女は腰まで伸びた長い銀髪と藍色の瞳をしていた。幼さの残った顔立ちで10代後半ほどの容姿であり、頭には犬のような耳、腰からはくるんとしたふさふさの尻尾が生えていた。絵の具でべたりと塗ったような奇妙な黒い鎧を身に着け、背には身長よりも大きな片刃の大剣を背負っていた。その大剣も鎧と同様の黒であった。

「涼しいね、ナル」

「まあ、リーベからしたらそうか。一般的に人間よりも、お前たち獣人は寒さに強いからな」

「そうだね。貴方は少し特殊だけどね」

 リーベと呼ばれた少女が、ナルと呼ばれた男に話しかけた。

「少し...か。本当に少しだったらよかったんだがな」

 ナルは感情の無い瞳と声音で言った。

「うーん。まぁ......ナルの中だと、少しじゃないのかもしれないけれど、私にとっては、ほんの少しなんだよ。私も貴方も、ほんの少し特殊なだけなんだよ」

 リーベは微笑み、ナルは口角が僅かに上がった顔を背けて言った。

「そうか。お前が言うなら、そうなのかもしれないな。お前がいいなら、それでいいか」


「それにしても、この国は随分と悲しい雰囲気だね。何かあったんだろけど......」

「だろうな。その理由も含めて依頼人に聞くとしよう」

「うん。それがいいと思う。【収納空間インクローズ】」

 リーベは収納魔法【収納空間】から依頼書を取り出し、依頼人の場所を確認しようとした、その時。二人の前に一人の筋骨隆々な兵士が前に立っていた。

「御二人を国王の客人であり、『願いを叶える』魔術師殿と剣士殿とお見受け致します。私は国王直属兵士の『アイシュトレング』。私の事は『兵士』か名前で御呼び下さい。私も主同様、『灰燼の魔術師かいじんのまじゅつし』様と契約を交わしておりますので、ご安心を。王の客人である御二人に誰も付けずに歩かせるなど、主の品格とこの国の威信に関わります。ですから、この国の兵である私が御二人を王の前へとお連れ致しましょう」

 兵士『アイシュトレング』は荒々しさと力強さを感じさせる見た目とは、打って変わって丁寧な言葉遣いをしていた。

「あぁ、アイシュトレング殿。貴方の気遣いに甘えさせて頂くとしよう。リーベ、行くぞ」

「うん。よろしくね、アイシュトレングさん!」

「は!それでは御二人共、此方でございます」

 二人は、アイシュトレングと名乗る兵士の後ろに着いて歩き出した。


「城まで少しかかります。つきましては、何かお話し致しましょう。我が国の機密に関わるものでないのならば、何なりと」

「そうか?ならば、貴国の国民が沈んだ表情ばかりしているのは何故だ?」

 アイシュトレングは、苦し気な表情をした。

「......戦争の影響で御座います。一週間前のことでした。多くの兵と国民が犠牲になったのです」

「.........そっか。それで皆悲しそうな顔をしていたんだね」

「ええ。我が国は傭兵業を大きな収入源にしており、幼いころから戦闘技術を学びます。傭兵業以外の大きな収入源が無く、酷寒と痩せた土ばかりが広がる我が国にとって、それは生きる道だったのです。そして、優れた精鋭へと育った者達を傭兵団として他国に貸し出すので御座います。我が国の傭兵団は他国からも高い評価を受けております。先程申し上げた一週間前の戦争の時には、彼らに一・二段と劣るものしかおりませんでした。しかし、無念にも戦の中で殉じた同胞達は、戦争で使い物にならない程劣るというわけではないのです。傭兵団が特別なだけであり、国を守るに十二分な過剰戦力と言って差し支えない程に優秀な者達でした。彼等の実力ならば今頃は、大した犠牲もなく戦勝の喜びと民や国を守り切った誇りを胸に笑い合えていた筈です」

 どこか遠くを見る兵に、ナルは言った。

「ならば、貴方の同胞達が死んだのは何故だ?」

「敵国の使役する魔物、『毒穢血蛇ヒドラ』の毒によるもので御座います」

「『毒穢血蛇』?そんな魔物いた?私はそんな名前聞いた事ないけど......ナルはどう?その魔物知ってる?」

「いや。俺もそんな魔物は聞いたことがない」

 二人に対して「それもそうでしょう」と言って、アイシュトレングは言葉を続けた。

「あれは、敵国が作った魔物ですから。気性は獰猛で残忍なうえに好戦的。大きな体躯と体重を活かした爪や牙による一撃の前には、盾や鎧などは意味を成さず、全身をいとも容易く切り刻まれます。幸いにも魔法は使ってこないため、爪や牙による単純な攻撃以外はしてきませんから、同胞達は大した被害を出さずに倒すことができました。しかし、かの魔物の吐く毒の吐息と、流れる毒の血が彼等の命を奪ったのです」

「毒か。当然試したのだろうが、解毒魔法は効かなかったのか?」

 ナルの言葉に変わらない表情で、兵は言った。

「......残念ながら。毒とは言いましたが、呪術魔法などを複雑に絡めていたのです。そのため、解毒や解呪は困難を極めました。毒を浴びたものは、絶命するまで全身を刃物で何度も切りつけられるような痛み、首を絞めつけられるような息苦しさ、何度もせり上がってくるような吐き気、頭蓋を中から激しく殴打されるような頭痛、体が溶けるような不快な感覚など襲われ、苦悶の表情のままに死んでいきました。」

「それは......とても辛かっただろうね。」

 リーベの言葉に、アイシュトレングは暗い表情で言った。

「それだけでは、この悲劇は終わらなかったのですが......」

「え?それってどういうこと?」

 リーベは兵の意味ありげな言葉に不思議そうな顔をして問いかけたが、兵はそれに直接は答えずに言った。

「お手数ですが、その事も含めて国王に御尋ねなさると宜しいでしょう。私のような兵士ではなく、我らが国王にして智者たる『無冠の王むかんのおう』ならば、分かりやすく教えて下さるはずです。お恥ずかしながら、私は剣を振ることしか出来ませんので」

 二人の目の前には、実戦的で堅牢な漆黒の石造りの城が聳え立っていた。

「御二人共、此方へどうぞ。御二人の依頼人にしてこの国の主がお待ちです」

 ナルとリーベはアイシュトレングの後ろについて入城した。


「王よ!客人をお連れ致しました!」

 王城の一室、その扉の前で国王直属兵士は、中にいるであろうこの国の王の返答を待っている。

「ご苦労であったな、アイシュトレングよ。魔術師殿と剣士殿を御連れしろ!」

「はっ!失礼致します!」

 主の言葉に、彼は扉を開け、ナルとリーベに入るように促し、二人の後に入った。

「御足労をかけさせてしまったね。遠慮せず腰をかけて欲しい。アイシュトレング、飲み物をお出ししろ」

「はっ!承知致しました!」

 王に促されて、二人は王の前にある円卓を挟んで向かい合うような位置にある二つの椅子に座った。

 二人の目の前にいた王は、王族らしからぬ印象を受ける若い優男であった。

 傭兵業を資金源にしているという国の王にしてはほっそりとした体格に、城下で見た民衆や兵と同じ服装をしており、雪より白い肌に赤く腫れた目元が痛々しく目立っていた。

 アイシュトレングが言った『無冠の王』という言葉のとおり、彼の頭には王や皇帝の象徴たる王冠が無かった。

「ところで一つ、つかぬ事を聞くようですが。確認させてください。貴公らは香辛料は苦手ではないでしょうか?」

「香辛料?私は別に嫌いじゃないよ、王様。ナルも別に嫌いじゃないよね?」

 王からの藪から棒な問いかけに、リーベは困惑しながらも答え、ナルは頷いた。王はほっとしたような表情をした。

「いやぁ、それは良かった。今、アイシュトレングに用意させているのはこの国の草食動物『樹皮食羊リンディーヴル』の乳を使ったミルクティーに香辛料と少しの酒を混ぜた飲み物でして。外からいらっしゃる客人にお出しするのが、我が国では最大のもてなしなのですよ」

 物珍しさからか、好奇心に満ちた瞳をしてリーベは言った。

「ミルクティーに香辛料を混ぜた飲み物は飲んだ事はあるけれど、それは初めてかも」

「この国はとても寒いものですから。この飲み物『傭兵のもてなしイスクレンノスチ』は寒い中を歩かせ、身体を冷やさせてしまった客人の労を労い、会いに来てくれたことへの感謝が込められたものなのです」

「それは随分と優しい伝統だな、王よ」

 ナルの言葉に、王は優しく微笑んだ。


 アイシュトレングが、三人の前にカップを置き、深く礼をして扉の隣に控えた。

「さぁ。温かいうちに頂いてくれ」

 王が、二人へカップの『真心』を勧めた。

「......優しい味。それに、良い香りで...あったかい味だね」

 リーベは微笑み、ナルは何も言わずにほんの少しだけ僅かに微笑んだ。

 それを見て、満足そうな顔で王は口火を切った。

「そろそろ本題に入るとしようか。アイシュトレング、お前は御二人にどこまでお話ししたのだ?」

 兵はその場から動かずに進言した。

「は!私が御二人にお教えしたのは二つで御座います!一つは、我が国が傭兵国家であること。二つは、我が国が先の戦争で敵国の繰る魔物『毒穢血蛇』に襲われ、同胞たちが苦悶と共に力尽きたこと。その二点で御座います!」

 王は、ふぅと一息ついた。

「それなら話は早い。御二人共、この国は一つの問題に直面しています。それは『毒穢血蛇』の毒性の血です。あの魔物の血に含まれる毒は雪を通じて大地に染み渡り、土壌を汚染します。そして土壌に溶け込んだ毒は木を枯らし、大河や被食動物を汚染し、それらを喰らう大型肉食動物が汚染されます。当然、私たちだって大河の水も動物の肉も口にします。私たちだって汚染されるでしょう。戦後、森林は縮小し、野生動物の数が減ってきました。倒木や野生生物の死骸、大河の水からは僅かな『毒穢血蛇』の毒が確認できました。このままでは、この地域の食物でもある野生動物が死に絶え、飢餓がもたらされるだけでなく、毒の溶けた水により多くの同胞が死ぬという可能性は否定できません。私は国王として、愛する国民を死なせたくは無いのです」

 ナルは目を細めて言った。

「貴方は聡明なのだな。それに、良い支配者だ。きっと多くの事を学んできたのだろう」

 王はくすりと笑いながら言った。

「...そうですね。たくさんの事を学びました。幼少の頃は、この城の書物全てに目を通したものですよ。見ての通りですが、傭兵国家の王子にしては貧弱で武勇に優れなかったものでしてね。知恵でしか他人に自分を認めさせる手段がなかったんです。特に、生物やそれを取り巻く環境に視点を置いた書物に童心を掴まれましたね。自分で言うのは些か傲慢かととは思いますが、一心不乱に読み漁った結果、生物や環境の分野には精通していると自負していますね」

 リーベは申し訳なさそうな顔をした。

「急に聞くのは悪いかもとは思うんけど、王様がナルに叶えて欲しいお願いは何なの?」

 王はふふっと笑って言った。

「『灰燼の魔術師』殿から、話は聞いています。大切なものを代償に願いを一つ叶えてくれるのでしょう?なら、私の願いはすでに決まっています」

 ティーカップの中身を少し飲んで口を開いた。その顔は穏やかだった。

「この地域一帯を肥沃な地に変えて欲しい、それこそが貴方に叶えて頂きたい願いです」

 王は言葉を続けた。

「より具体的に言うなら、土地を塗り替えるイメージです。不毛な上に毒に侵された大地や大河も。その全てをひっくるめて肥沃な地に変える、私の願いはそういうことですね」

「結構大きなお願いだね、ナル。できるとは思うけど、どう?」

 リーベの言葉に、ナルは表情を変えずに言った。

「問題ない。余裕だ」

 ナルの自身のある言葉に、王は言った。

「それに、この寒冷地でも生育可能なイモの開発に成功したんですよ。しかしまぁ、それの唯一の問題点が、この地域の不毛な土壌では枯れてしまうことだったのです。魔術師殿が私の願いを叶え、このイモの唯一にして最大の問題が解決したなら、この国の抱える問題を減らす一助になるでしょう。愛する人を、家族を、親戚を、隣人を、友人を。多くの大切な人を喪ってしまった、優しい国民の涙を止める一助になることを期待しているのです」

 王は『早く私の望みを叶えてほしい』といったように目を輝かせた。

 しかし、一人の声がその空気を乱した。

「恐れながら我が王よ。既に日が落ちております。今この場で、王の願いを叶えたならば御二人に暗い夜道を歩かせることになりましょう。私如き、一兵に過ぎぬ者が口にすべき事ではありませんが、祖国の夜明けへと踏み出すきっかけを与えてくださる未来の恩人に対し、不敬に当たると愚考し愚見申し上げます」

「あ、あぁ。そうだな、アイシュトレング。お前の言葉が正しい。それでは今日は御二人に城の一室で過ごしてもらい、明日願いを叶えてもらうとしよう。御二人共、よろしいでしょうか?」

 王の言葉に、二人は問題ないとばかりに頷いた。


「御二人共、こちらの部屋をお使い下さい」

 あの後、兵は二人を用意された部屋の前に案内した。

「城内でも案内してもらえて助かった」

「ありがとう、アイシュトレングさん」

 ナルとリーベはそれぞれ礼を言った。

「少しで良いのです......私の話を聞いて頂けますでしょうか?」

 兵は二人をじっと見ながら言った。その目と声は、優しさと哀しさを秘めていた。

「どう見ても、少しで済む話をするようには思えないが?」

 ナルの言葉に、アイシュトレングは彼から僅かに目を逸らした。

「......申し訳御座いません。ほんの少しだけ長いと思える話になるかもしれません.........」

「あくまでも少しの範疇か。まぁいい、分かった。部屋の中で話を聞くとしよう。アイシュトレング殿、それでも良いな?」

「はっ!誠に有難く存じます!」

 兵は、深々とした礼をもって感謝を示した。

「じゃあ、入ろっか?二人とも?」

 リーベの言葉に三人は部屋へと入って行った。


「私が御二人にお話ししたいことはただ一つ。我が王の事です。御二人を城にお連れする時に申し上げたとおり、王は『無冠の王』なのです。一般的に王や皇帝とは、その頭の上に支配者の証たる冠があるものです。しかし、我が王はそれを持ちません。それは、祖国のために手放したからなのです」

 部屋に入り、アイシュトレングは椅子に。二人は同じベッドに腰を掛け、彼の言葉に耳を傾けていた。

「何か違和感があると思ったら、そういうことかぁ。王様の頭の上には王冠がなかったもんね」

「ええ。その話や、我が王の歩んでこられた過去についてお話ししたいのです」

「そうか。好きに話すといい」

 兵は、ナルの言葉に「ありがとう御座います」と答え、深々と礼をして話を始めた。

「我が王は、この国にて体の弱い第四王子として御生誕なされました。国王殿下は大剣に、第一王子殿下は斧に、第二王子殿下は大槌に、第三王子殿下は槍斧に秀でておられ、国内のみならず遠く離れた国まで武威を轟かせておりました。ですが、当時の我が王は、傭兵国家の王族でありながら、剣の一本すら振るうことができなかったのです。しかし、国王殿下や他の王子殿下達は、我が王を見捨てることなく『武器を振るえないのならば書物を読め。そして、その頭に蓄えた知識で戦うのだ。なにも、武器を振るう事のみが戦いではない』と仰せられたそうです」

「貴国のことを蔑む意図は無いが、そのような場合、体の弱い王子などは政略の道具になる事こそあれど、それほど大切にされるというのは珍しいな」

 ナルの言葉にアイシュトレングは僅かに微笑んだ。

「そうですね。我が王は愛されていたのでしょう。王は、その言葉を胸に来る日も来る日も城中の書物を読み漁りました。やがて、学者とも対等に話すことのできるほどに、その知識を深めました。しかし、我が王は大切な方々を喪ったのです」

 兵は、少し顔を伏せ、言った。

「国王殿下と他の王子殿下を次々と亡くされました。病気や事故、戦争などで立て続けに大切な御家族を失いながらも、当時王子であった我が王は悲しむ暇すら与えられずに国王の座へと即位されました。しかし、この国は傭兵国家です。力こそが全てだと考える者が大多数を占めており、『武威を示すことのできる指導者に従う』という考えが主流でした。武威を示すことのできぬあの方は、その身に余る大きな苦労をされたのです」

 王のことを愛おしく、敬愛したような様子でアイシュトレングは言った。

「まず、我が王はこの地に生きる生物の数を増やしました。この国は基本的に、輸入した穀物では足りない分の食料を、狩猟で賄います。しかし、いつからか過剰な狩猟量が続いてしまい生物の数が激減してしまったのです。その崩れた生物の数のバランスを、大規模に植樹や幼体、魚卵の保護・保全、狩猟量の制限を行い、好転させて見せたのです。減少してしまった食料の量を補うために、我が王はあらゆる私財や王の象徴たる冠までもを売るなどして食物と家畜の飼料を効果的に輸入したのです」

 アイシュトレングは続けて言った。

「その時、我が王はこのように仰せられました。『王冠では腹は膨れない。ならば、そのような支配者としての象徴にしかならない、見てくれだけの小道具など要らない。いっそ売り払って、私が減らさせてしまった分の食料を輸入する資金にでもした方が役に立つ』と仰せられたのです。そして、王冠を売った相手は現代最強とも名高い魔術師にして『世界都市』の守護者であられる『灰燼の魔術師』殿でした。王冠を売り払い莫大な資金を得られたうえに、嬉しい誤算として御二人はどうやら馬が合ったらしく、あらゆる国に対して親密さをアピールすることで抑止力にもなったのです」

 また、とアイシュトレングは続けた。

「毎日、公務の合間に城下を歩かれ身分などは関係なく人々と言葉を交わされました。兵士や一般の民衆、旅人や浮浪者でさえも。国民か否かさえ関係なく言葉を交わされたのです。当然最初のうちは、支配者である王と話すことに恐れや緊張が見て取れましたが、それも次第に薄れ我が王が城下に姿を現されると、自然と人々が集まるようになりました。そのうえ、王は支配者でありながら民と同じ質素な食事をし続けました。あの御方は、これら以外にもあらゆることを行い、武威でもなければ歴代の王の象徴たる王冠にすら頼らずに、民の信頼と指示を勝ち取り『無冠の王』と呼ばれ親しまれるようになったのです」

 しかし、とアイシュトレングは続けた。その目は暗い後悔が滲んでいた。

「武威で国を治められない我が王を、良く思っていない者共は兵士や貴族を中心として依然として多くおりました。彼らは反乱を起こしたのです。王を憎んでいたり、反乱に乗じて終結後に生まれるであろう新たな支配者に取り入ろうと考えていた一部の貴族や大半の兵がその中心であり、我が王ではそのクーデターに対抗するなど不可能でした。結果は火を見るよりも明らかであり、あっさりと捕らえられ、即日斬首刑が確定することとなりました。そしてその日。私は人生において最大の、死するとも永久に悔やまれるであろう程の後悔を、記憶とこの魂に刻むこととなりました」

 アイシュトレングはきつく目を閉じ、真一文字に口を結び、唇を振るわせながら言葉を紡いだ。

「私は処刑人として断頭台に立ったのです」

 ナルの眉が微かに動き、リーベは目を大きく見開いた。

 アイシュトレングは二人のことなど見えていないかのようで、滾る感情に任せて言葉を懺悔するように勢いよく吐き出した。

「当時の私は剣術の才が無く、同期のみならず新兵にすら一本として取る事すら出来ない落ちこぼれでした。それを変えたいと思い、毎日他者の倍以上の訓練をこなしました。それでも、私は誰に対してもたったの一本すら取る事が出来なかったのです。恥ずかしながら、当時の私は我が王が大嫌いでした。あの御方は兵士達に嫌われていることを知りながら、毎日のように訓練の視察へいらっしゃったのです。当時の私も、あの御方の功績は認めており、武威がどうだなどとは考えておりませんでした。しかし、自身を守る役割であるはずの兵士からは嫌われ、支配者によっては屈辱にすら感じるであろう、治めるべき民衆と肩を並べながらの談笑。そのどれもが、私にとっては理解できなかったのです。落ちこぼれの私では理解できない我が王と、その御心が大嫌いだったのです。そして反乱が起き、先程申し上げたように私は処刑人に選ばれました。どうやら落ちこぼれであったとしても行いは当時の上司の目に留まっていたそうで、私は武威を示さぬ愚王の首を落とす栄誉を与えられたのです」

 アイシュトレングは、感情冷めやらぬといった状態で続けた。

「そして死刑執行の時が来ました。首を断頭台へ固定され、四肢を鎖と錠で拘束された我が王は何故か笑顔を浮かべていました。クーデターの首謀者が私に刑の執行を命じました。私が剣をあの御方の首に振り下ろそうと、振りかぶったその時です。見知らぬ男の『王様!』という声が聞こえました。それは大勢の民衆の中の一人に過ぎないような男でした」

 兵は、少しだけ微笑んで続けた。

「男の声に王は『おおラズロ。今日はお前の娘の出産日と言っていたな。すまないな、これほど騒がしくして。お前の娘に悪い影響が無ければいいのだが』と仰せられ、申し訳なさそうに笑ったのです。ラズロと呼ばれた男に続き、次々と民衆が我が王へ話しかけました。『私の子供の面倒を見てくださったこともありましたよね』『オレの弟の結婚式に祝辞をくれて嬉しかったぞ!』『ウチのバカ息子の怪我の治療費を工面してくれた恩。あたしゃ忘れないよ!』といったように何人もの民衆が感謝を伝えました。彼らは皆涙を流していました。『ニーナ、トッド、ドーラ、それにお前たち。私の愛する国民よ。私の大切な宝よ。唐突な別れにはなってしまったが、悲しむことは無い。なにも死は終わりではない。死とは往々にして後に続く者に対して繋ぐ儀式だ』我が王はそこまで仰せられると『私は命など全く惜しいと思ったことなどない!王冠を持たず、武威を示さぬ、愚かなこの体も好きにするがいい!だが、約束しろ!私を殺し、この国を治める者よ!何があろうとも国民の為に生きろ!この国に生きる国民を愛し、生かせ!私を殺して、この国と国民を導き救え!』その言葉を聞いた首謀者はこれ以上余計なことを話させまいと考えたのか、私に早く首を斬れと命じました」

 アイシュトレングは穏やかな表情で続けた。

「再度、剣を振りかぶる私に我が王は『やっと、お前の努力が認められたか。アイシュトレング。この首を斬り落とし、手柄にせよ』と仰せられました。私は『なぜ自分のような落ちこぼれの名など覚えているのですか?なるほど内心では私を馬鹿にしておられるのですね?私という出来損ないの落ちこぼれが徒労を積み重ねる様は、貴方のような御方の目にはさぞ滑稽に見えたことでしょう』といった具合でお聞きしました。首謀者の早く首を落とせ、などという命令などどうでもよかったのです。この男はこのような状況で何を考え、何を思い、落伍者に過ぎない私へその言葉をかけたのか。もしも、返ってくる言葉が命乞いや何か的外れな言葉であったなら嫌いという悪感情のままに罵詈雑言を吐きかけようとすら考えていました。しかし、王は優しく微笑んで言いました。『アイシュトレング、私にとってお前は恩人なんだ。お前の努力に救われたんだ。お前が徒労と言った努力に私は救われたんだ!武威を貴ぶこの国で、先代や兄達のような武威を示せぬ私がここまで歩んで来られたのはお前が居たからだ!何度でも立ち上がる、不屈のお前が居たからだ!私の恩人の努力が間違っていなかったと証明された事が、私はただ嬉しいのだ』その言葉を聞き、私はあの御方を拘束する全てを叩き斬り破壊しました」

「それは......どちらも正常ではないな」

 ナルの言葉に、リーベがくすりと笑った。二人の言葉と表情に悪意はなかった。アイシュトレングもにこやかな表情で言った。

「ええ、そうですね。普通ならば命乞いをしたり、躊躇せずに首を斬るものですから。今になって思えば、本当に正常ではありませんでしたね」

 アイシュトレングは、ほんの少しだけ表情を引き締めた。

「王も民衆も首謀者達も、私以外のその場に居合わせた全ての人々が何が起きたのか分からないといった様子でした。私は『民よ!我が王を『世界都市』まで逃がせ!この御方をお救いするのだ!そこまで逃げる事ができれば『灰燼の魔術師』殿の力を借りられるだろう!』と叫びました。当然首謀者達は私と王を許さず、兵士を仕向けてきました。一合、また一合と剣を交わしますが、私では勝てる筈もなく徐々に押されていきました。背後の民衆達の方から『アイシュトレング!死ぬな!私のために死ぬなど断じて許さんぞ!』という我が王の言葉を聞き『まだ逃げてないのですか!?民衆よ、いいから早くその御方を逃がせ!この国の未来にその御方は必要だ!』と叫びました。このままでは我が王の命までもが危ういという、その時でした」

 兵は笑って言った。

「『逃がす?そんな必要はない。私がここにいるからな』という女の声が隣から聞こえました。見ると、エルフの女が私の隣で胡坐をかき、右手に持った酒瓶をラッパ飲みしていました。煌々と燃ゆる炎のような深紅の瞳と髪、『世界都市防衛軍』の白い軍服に身を包み、周囲には小さな不死鳥が飛び、頭を可愛らしい小さな竜が甘噛みし、胡坐の上には小さな黒いスライムがふるふると揺れ、空いた左手で小さな黒い犬の頭を撫でていました。『灰燼の魔術師』アッシュ・ヘイズリィンが現れたのです」

 エルフの名前を耳にしたナルは何とも言えないような表情となり、リーベは優しい表情で笑った。

「彼女は誰もが言葉を発する前に『逃げられた奴と立っていられた奴には、酒でも奢ってやるよ』と言うと同時に左手を前に突き出しました。その瞬間莫大な魔力が放出され、前方にいた全ての兵が白目を向いて卒倒したのです。『なんだ、全滅かよ』胡坐をかいたままの変わらぬ姿勢で緊張感もなく、そう仰せられました」

 兵は不思議そうな顔をして続けた。

「一般的に魔法はその名前を発しなければ行使できず、高位のものになれば詠唱を必要とするものです。常識で語るならば、魔法のような何かであの方は兵士達を下したのです。かくして、我が王は再び王として君臨されることとなりました。そして、非常に疑わしいことですが『灰燼の魔術師』殿はあの日、単純に我が国の酒を飲みに来ただけだそうです。あのような完璧なタイミングで現れておきながら、白々しいとは思いますがね」

「それで?貴方は俺たちに何を伝えたかったんだ?まさか、自分が仕えている王の自慢話ではないのだろう?」

 ナルの言葉にアイシュトレングは頷いた。

「私がお話ししたことを通して伝えたかったことは唯一つです。私の願いを叶えてください。魔術師殿、例の魔法は代償を伴うのですよね?我が王は、国民の為ならば命を差し出すことすら厭わないでしょう!の御方は、きっと大きな代償を払うこととなります。ですが、この国には我が王は必要な方なのです!」

「そうか。いいだろう。魔力量の問題もないからな。いつでもできる」

「そうですか!それは良かった!ならば、今すぐお願いしてもよろしいでしょうか?」

 ナルとアイシュトレングは言葉を交わし、リーベは彼に問いかけた。

「ナルの魔法【星に願いをメテオーア】は、莫大な魔力と大切なものを代償にすることで発動するの。代償と捧げるものを大切に思う気持ちが大切なんだよ。だから聞かせて?あなたの捧げる代償は何?」

 アイシュトレングは微笑んで言った。

「私の捧げる代償は積み上げてきた剣術です。これは間違いなく私にとって大切なものと言えましょう。私の叶えていただきたい願いは『いつまでも我が王を記憶しておくこと』です。私は兵士として、付き従う者として、救われたものとして、何が起ころうともその決断を否定致しません。しかし、年を取ることで我が王から受けた大恩を忘れることを恐れているのです。私の徒労を努力と認めてくださったあの御方は、紛れもなく私の恩人なのです。ですから、どうか。どうかお願いします。誠に勝手ながら、私の願いを叶えてはくださいませんか、魔術師殿」

 ナルはベッドから立ち上がった。

「分かった。貴方の願いを叶えよう。代償は『貴方の剣術』で間違いないな?」

 ナルは右手のガントレットを外して魔法を発動させた。その小指と薬指の爪は黒く染まっていた。

 ナルの確認の言葉にアイシュトレングは頷き、ナルも同意したかのように頷いた。

「【星に願いを】」

 彼が魔法を発動させると、八色の大きい魔法陣が部屋中に描かれた。すると、アイシュトレングの両手から鋼色に鈍く輝く光球が現れた。光球は魔法陣に取り込まれ、ぱっと霧散した。

 次の瞬間、純白の光球が魔法陣の中から現れ、アイシュトレング自身の頭部に溶けるようにして消えた。

「魔術師殿?これは......成功したのですか?」

 不安そうに、彼はナルに尋ねた。

「多分な。何も不具合は起きていなかったぞ」

 彼はほっとした顔で感謝を述べ、深い礼をして退室して行った。


「【魔王呪術エドーリムンド】はどう?」

 ナルが右手のガントレットを外し、爪を見ると新たに中指の爪が黒く染まっていた。

「発動したみたいだな。アイシュトレングにとって恩人を忘れない事は幸福なんだろう」

 リーベとナルはそれぞれのベッドに居た。リーベがしっかりと布団をかけ、ベッドにもぐりこんでいるのとは対照的に、ナルは両手を頭の後ろで組んで枕にし、右足を上にして足を組み、仰向けで寝転がっていた。

 ナルの右手を見ながら穏やかな微笑みを浮かべ、リーベは言った。

「そっかぁ。【魔王呪術】、発動したんだね。これであと七回かぁ」

 部屋は暗く、リーベの表情は分からない。

「明日も発動するといいね、ナル」

「...そうだな」

 ナルの言葉は僅かに苦し気なようにも、淡々としているようにも聞こえた。


「王よ。貴方の願いと捧げる代償は何だ」

 夜明けの光が射す城のバルコニーで、ナルは王に尋ねた。扉の前には兵士『アイシュトレング』が、ナルの傍らにはリーベが立っていた。

 夜明けの仄かに青紫色の空の下、王は人のよさそうな微笑みを浮かべた。

「私の願いは『この地一帯を肥沃な地に変える』こと。捧げる代償は『国民の記憶の中にある私という存在』だ」

 王は続けた。

「彼らは強い。私などいなくとも、この酷寒の地で生き抜ける」

 王の言葉に、アイシュトレングが感情を昂らせた。

「我が王よ!それは違います!貴方様が居てくれたから、貴方様が導いてくださったからこそ我ら国民は今日まで生き延びることができたのです!」

 王は苦しそうな作り笑いをした。

「だが、私はお前たちの王でありながら、戦争で多くの者を死なせてしまったのだ。わたしの宝、何よりも大切な私の国民をだ。お前たちにどれだけ讃えられようとも、その事実は変わらない。お前たちは、多くの大切な人を無くしながらも、決して私を責めずに讃えてくれる。お前たちの優しさと私の後悔が心を抉り続けて止まないのだ!だから頼む、分かってくれ。アイシュトレング」

 つまりは自分の為。これまでのイメージを叩き壊すような言葉を吐き出した。今目の前にいる王は賢王でも人徳者でもなく、ただの人間だった。

 突如としてアイシュトレングは人が変わったかのように、下衆に軽薄に悪辣に陰湿に姑息にさもしく鮮烈に軽快に無邪気に粗雑に惨憺に恩知らずにゲラゲラと笑い出した。

「なんだよ。これが笑わずにいられるかよ。ぶはっ。アッハッハ!つまりお前は逃げるんだろ?あれだけ、散々に国民の事を宝だ何だと言っておきながら?それはそれは、非常に身勝手だなぁ?ぶふっ!結局アンタは、自分可愛さに他人を切り捨てられるクズだったってことだろ?俺も同じクズだから分かるさ、その気持ちが。踏ん切りが付けられない馬鹿なご主人様にお前と同じクズの俺が太鼓判を推してやるさ!」

 その瞬間、王は作り笑いも忘れてアイシュトレングを殴っていた。しかし貧弱な力での殴りなどで鍛えられた兵士の肉体はよろけることすら有り得なかった。

「お前はクズだ!畜生だ!まだ分からないのか?所詮お前は王族の血を引くという繋がりだけで権力を継いだだけの寄生虫の国王だ!先代国王とお前の兄達も馬鹿だよなぁ。お前に国王の器が無いと知っていながら可愛がってばかりだったんだろ?だから、お前は出来損ないなんだろ?だからお前は俺と同じ落ちこぼれなんだよ」

「お前に何が分かるアイシュトレング!お前に私の気持ちが分かるというのか!?私とて、本音を言えば国民と共に歩み続けたい!だが、私では無理だっただろう!?だから、クーデターが起きた!だから、国民の多くを死なせてしまった!それでも民は私を慕う。こんな出来損ないを疑いもせずに慕う彼等に何ができるというのだ。それでも何かを成したいと思う私は、最後に希望を与えて逃げ出すことしかないだろう!?」

 王は様々な感情が綯い交ぜになった面持ちで言葉を吐き出し、アイシュトレングは言葉を続けた。

「アンタには失望した。もう俺はこの国を出る。国民を辞めてやる。こんな腰抜けの治める国に、これ以上居てられるか」

 王は殴りつけていた手を退け、続けた。

「......そこまで言うならばもういい。これよりお前はこの国の国民ではない。追放だ。二度とこの国の土を踏むことは許さん。何処へでも好きな所に行け」

 アイシュトレングは笑い飛ばした。

「そりゃあいい。これできつくて苦しい訓練からも、自己犠牲が趣味で頭でっかちの国王からも解放されて晴れて自由の身ってわけだ。じゃあせいぜい頑張ってくれ」

 アイシュトレングの遠のく足音に、王は一言零した。

「お前だけは、分かってくれると思っていた..........」


「お騒がせして申し訳ありませんね、御二人共」

 少しして、王は申し訳なさそうに言った。

「...ほんとに良かったの?アイシュトレングさんと、これから会えなくなっちゃうかもしれないのに」

 リーベは心配そうな顔をした。

「.........良かったか悪かったかで言うならば、悪いですね。確かに、彼とこのような別れ方になったのは辛いです。ですが、私に彼の選択ならば止めることなど出来ないから」

 王は苦しそうに言った。

 ナルは突然、口を開き淡々と言った。

「主従とは、どの時代も主人の言動の全てを肯定することではない」

 死んだ魚のようなその目はどこか遠くを見ているようだった。

「衝突は必要だ。そうでなければもし、いつか王と臣下のどちらかが過ちを犯してしまう」

 王は、微かに笑って言った。

「魔術師殿はお優しいですね」


「さぁ。魔術師殿、私の願いを叶えてくれないか?」

「あぁ。いいだろう」

 昨晩と同じく、ナルは右手のガントレットを外した。その小指と薬指、中指の爪が黒く染まっていた。

「【星に願いを】」

 彼が魔法を発動させると八色の大きな魔法陣が床一杯に描かれた。すると、国全体から色とりどりの輝く光球が現れた。光球の数々は次々に魔法陣へと取り込まれ、ぱっと霧散した。

 次の瞬間、若葉色の大きな光球が魔法陣の中から現れ、上空に飛び広範囲に飛散して大地に溶け込んだ。

「成功したのだろうな。ありがとう。本当にありがとう、御二人共」

 突如として城下から阿鼻叫喚の声が響き、感極まる王の言葉を遮った。彼は動揺を隠せいない様子で叫んだ。

「な、何だ!?何が起こった!?」

「ちょっと待って。【遠距離透鏡ズロコプ】」

 リーベは遠くを見ることのできる魔法のレンズを生み出す魔法を行使した。すると、三人全員の手に小さく透明なレンズが生み出された。三人はレンズを使って、城下の方を覗いた。

 そこには、絶望が広がっていた。

 大きな体躯の全てを覆う黒い鎧のような鱗に身を包み、大剣のように鋭い爪と牙を生やし、口からは毒々しい息を吐く怪物がいた。そのうえ、上等の鎧で武装した多くの騎士が今にも民衆を殺さんといったような下卑た笑みを浮かべていた。

 王は叫んだ。

「あれは『毒穢血蛇』!?それにあの鎧!隣国が攻めてきたというのですか!?停戦協定はどうなったというのですか!!」

「あれが、アイシュトレングの言っていた『毒穢血蛇』か」

 ナルの言葉に、王は力なく応えた。

「ええ。彼に聞いたでしょうが、あの魔物は強い。兵力も落ちた我が国では、この戦争を生き延びることなど出来ないでしょう。ですが、武術の欠片も分からない私ではあるが御二人はきっとお強いのでしょう。であれば、早くお逃げ下さい。さぁ早く。手遅れになる前にお逃げ下さい」

 リーベはナルの方を向いた。

「ナル、お願い。この国を救って」

「そこまでする義理はない」

「じゃあせめて、手伝って」

「さっさと次の依頼人の所に向かう方が効率的だ」

 二人は小さな声で言葉を交わした。

「分かったよ、私だけ行くから」

 願いを聞かないナルに見せつけるように、背負った大剣の柄に手をかけた。鎧と大剣が仄かに赤みを帯びた。

ナルは降参とばかりに手を挙げた。

「......分かった。お前の頼みだからな、仕方なく聞いてやる。それに、あの王とアイシュトレングはアイツと俺に似ている。このままだときっと燻る。衝突はしたんだ。なら、次は談笑だ。アイツと俺には出来なかった再び手を取り合うという事が、二人にはできるだろうからな」

 どこか遠くを見つめる彼に、リーベは「そっか」と言葉を零した。その表情は曇りのない笑顔だった。

「王よ、一つだけ聞きたい。『毒穢血蛇』の毒は毒魔法によるものか?」

 藪から棒なナルの問いに、王は動揺しながら応えた。

「え、ええ。確かに我が国の学者や魔法使いが突き止め、そのように結論付けました。しかしそれがどうかしたというのですか、魔術師殿?」

「手間が減って助かった」

 ナルは城下に向けて右手を前に突き出した。

「いったい何をしようというのですか...?」

「魔法は絶対ではない。剣や武術の達人は魔力を操作して武器や拳に、相対する魔法に込められた魔力より同等以上の魔力で強化したり、同格以上の魔法を付与した攻撃であれば魔法を相殺や破壊することができる。これはその技術の応用だ。『灰燼の魔術師』も使った筈だ。俺が今からやることは、それをより繊細に大規模にして殺しに特化させた下品な技術だ」

 次の瞬間、彼の右手から莫大な魔力が放出されたかと思うと同時に『毒穢血蛇』と敵国の騎士達は消滅し、城下の人々は何が起こったのかといった顔をしていた。

「死体も残らないとは...」

 感謝、安堵、畏れといった感情の混ざった何とも言えない表情で王の発した言葉に、ナルは淡々と言った。

「『毒穢血蛇』の血や全身の欠片や一滴に至るまで、高密度の魔力を叩きつけて毒魔法は破壊し尽くした。リーベ、これで良いだろ」

 ナルの言葉にリーベは満足そうに微笑んだ。

 王は、話に耳を傾けながらも魔法のレンズを覗き、その表情は驚愕に染まった。

「大変です!検問所の辺りでアイシュトレングが倒れています!」

 王は、城を飛び出し検問所の方角へと一目散に走って行った。ナルとリーベもその後を追いかけた。


「......アイシュトレング!アイシュトレング!!」

 王は倒れている彼に駆け寄りその身体を抱き寄せた。

 彼の身体は、右手が肩から千切れて無くなっていた。左手は手首から先が失われ、下半身がバラバラになって転がっていた。

 騎士の武器や『毒穢血蛇』の爪や牙でこのような無残な姿にされたということは、誰に聞かずとも分かった。

「...王?我が王だというのですか?......先程の非礼を詫びさせて下さい」

 意識が残っていることが、会話ができることが不思議なほどだった。王は、彼をしっかりと抱いた。

「......なぜ、お前は私の記憶があるんだ?」

「.........私は魔術師殿に『我が王を記憶しておくこと』という願いを叶えて頂いたのです。貴方の事を忘れられなくなった私が貴方の国民である以上『国民の中の貴方という存在に対する記憶』という代償が.....僭越ながら、矛盾を抱えることを危惧致しました.........」

「だから私に普段であれば言わないような言葉を吐き、私にお前を追放させ、国民ではないと言わせたというのか?.........なぜ...なぜ、お前はそうも不器用な男だな」

 アイシュトレングは小さく「ふぅ」と息を吐いた。

「貴方がそれを仰いますか、貴方だって不器用でしょう...ですが。私は幸せな兵です.........仕える主君の腕の中で、生を終えることができますから。しかし...私には心残りが……一つだけ御座います。付き従う者としては不遜な願いでは……御座いますが、どうか叶えて頂けませんか…?」

 途切れ途切れの言葉に、王はぼろぼろと涙を流し頷きながら聞いていた。

「あぁ!何でも叶えてやる!何でも言え!!だから、死ぬな!アイシュトレング!」

 アイシュトレングは薄く力なく微笑んだ。

「死ぬな、とは...それは難しいことを仰いますね......私の願いは...『貴方様と友人になる』こと......です。死にぞこないの……妄言とでも考えて、冥途の...土産に叶えては......頂けませんか.........?」

 王は彼を一層強く抱き締めた。

「あぁ......あぁ!俺たちは親友だ!だから頼む、アイシュトレング!死なないでくれ!」

 王の服にアイシュトレングの血が染み渡り広がっていった。

「アイシュトレングさ......ん」

 慣れない道に迷ったのかナルとリーベは遅れて駆け付けた。駆け付けたリーベが、咄嗟に回復魔法をアイシュトレングに行使しようとしたが、もう手遅れであった。

「剣士殿!アイシュトレングを助けることはできないだろうか!?」

 リーベの表情は苦しそうだった。

 口を噤むリーベの代わりに、傍らのナルが口を開いた。

「王よ、できても延命だ。【星に願いを】ならばどうとでもできるが、貴方にこれ以上捧げられる代償はないだろう。それに、俺もリーベもこの状態から助けることができるような回復魔法は使えない。せめて、俺たちの事など気にせず、彼と言葉を交わしてやるのが良いだろう」

「...御二人共......御配慮、感謝致します.........御二人にまで看取られるとは......私はやはり、幸せ者...ですね......」

 アイシュトレングは、はははと力なく笑った。

「我が王よ。親友...親友ですか......我が王にそこまで言って頂けるとは、大変...嬉しく思います。私は『死んだ者は生まれ変わる』と......聞いたことがあります。それならば私は...願わくば、来世は.........貴方の隣人として......生まれ変わりたいものです......そのときはどうか.........」

 アイシュトレングの目から光が消え、生気を失った。

 彼は静かに息を引き取った。

「そうだな、アイシュトレング。そのときはもう一度『親友』になろう。私の親友よ」

 王は無残な亡骸を抱きしめて静かに、熱く泣いた。


「これで良かったのかな、ナル」

 二人は傭兵国家を後にし、次の地へと歩を進めていた。

「良いか悪いかは分からない。だが、少なくともあの二人に後悔は残らなかったはずだ」

「それもそうだね。それに『生まれ変わったら親友になる』か。果たせると良いよね、二人の約束」

「きっと果たせる。そう願う事しか俺達には出来ない」

 

 蒼空高く白鳥が鳴いた。

 大河では大魚が跳ねた。

 寒風が雪原を走り、雪が舞った。

 二人の声と姿が、地平線の彼方へと消えていく。

 約束の履行の結末も、彼らの行く先も誰にも分からない。

 だが、全て大地と空が知っている。全てを星々が見守っている。

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