お祭りまで120km
きたの しょう
Night light
熱帯夜をわずかに下回る気温の中、狭苦しい下宿の部屋は、ややくたびれかけの扇風機が必死に風を起こして部屋の空気をかき回している。開け放たれた窓は、ただ開いているだけで部屋よりわずかに低い気温の空気を取り入れることを放棄していた。そのかわり、住人の浅い睡眠を妨げないくらいの、遠くの市街地の様々な音を網戸を通して伝えていた。
枕元にあるラジカセは、人間に成り代わって几帳面に時を刻んでいる。これも、寝ている住人の視神経を刺激しない柔らかな光を放って見てもいない数字をまじめに表示していた。
その時計が、とある時刻になった。その瞬間、ラジカセの電光表示部が時計だけの表示から一斉にスロットのジャックポットに当たったように様々な機能の表示が点灯し、眠っていたシステムが息を吹き返したように動き始める。ラジカセ中央部の上にあるCDが高音でやや耳障りな稼働音を奏で始めると、セットされたディスクが目にもとまらぬ速さで回り始める。
そして、設定された音量で、CDの音楽をスピーカーから放ち始めた。
主旋律のエレキウインドが被さってきて、アルトサックスに似た音色が鋭く曲を盛り上げる。ドラムとギターとベースが参戦してAメロにつながった。
睡眠を妨害するギリギリの音量でラジカセのスピーカーから流れ始める。隣との壁が薄いのでそっちは起こさない様に、かつ起きるのに最適な音量が掛かるように設定したボリュームが、まだ夜明けまでには時間のある暗い部屋の中を満たしてゆく。
夢の中の様に実体のない音が俺の頭に侵入し、幻か
漆黒をその身に包んだ悪魔の格好をした眠気は、まだ寝ていろと耳から入る音を脳内で絞ろうとし、起きる邪魔をする。
それに対して白く輝く天使のような愛らしいやる気は、見た目に依らずヤクザな口調で時間だ起きろ今日は出かける日だろうが、と寝続けようとする体に活を入れる。
数十秒間、俺の中で眠気とやる気が闘争をした結果、やる気が勝利したらしい。俺は夢見がちな沼から水の中を急速浮上するように意識が大きくなり──目が覚めた。
目覚まし用のCDは、5曲目2コーラス目のサビの部分を奏でていた。
目が覚めた直後の耳は、音量をいくらか落とした状態でも暴力的な音圧を感じたせいか、俺は反射的に手を伸ばして暗い中音量ダイヤルを指で探して音を絞った。これで隣からうるさいと文句を言われることはない。
「……あ″ー……」
満艦飾のごとく電光掲示部から様々な光を放つラジカセの明かりが、薄暗くとはいえ古ぼけた天井の木目を浮かび上がらせていた。天井から吊り下げられた小柄な和風の吊り下げ蛍光灯から伸びる影が、天井の一部に影絵を描く。
「……」
起きなきゃ…俺は上半身を起こすと、目覚ましに使ったラジカセと止めようとして振り向き…電光掲示部から放たれる光の暴力に瞼が勝手に落ちた。瞳が直前まで寝ていたせいで完全に暗順応しており、昼間は何気なく見えていてもこの時ばかりは耐閃光防御なしに波動砲を見ているかのようだった。しばらくは目を閉じてタイミングを見計らい、やがて少しづつ瞼を開けて瞳を明順応させてゆく。眩しかった電光掲示部は、明順応が進むにしたがって光の暴力は収まり、暗闇に目に優しく光を届ける表示部へと変化していった。
僅かに見えるCDの停止ボタンを探し出し、それを押す。音量を絞っていた目覚まし代わりの
「…今何時や…って2時半!?30分近く寝過ごしてたのか…」
2時に起きるはずが30分も目覚ましの音楽を掛けていたまま寝ていたことに…。予定が強制的に繰り下がったためにその後の事を考えると半分まだ眠気に支配されていた俺の思考は完全に目が覚めた。
普通の人はまだ夢の中で遊んでいる時間帯。そんな時間帯に目覚まし代わりのCDを掛けたには理由がある。
『現代のお伊勢参り』こと、鈴鹿8時間耐久ロードレースを観戦しに三重県鈴鹿市へ行くためだ。下宿から出発する時は単独だが途中、名四国道(国道23号線)長島あたりの『スポーツバレー東海』で同じサークルの先輩方と合流し、一時休息したのち鈴鹿サーキットを目指すことになる。スポーツバレー東海集合は5時。現地到着予定時刻は7時。
「もういい加減起きないと…」
俺は誰にも聞かれることのない独り言をつぶやいて、少し慌てて天井の蛍光灯から釣り下がるスイッチ代わりのたれ糸を引っ張って電気を点けた──。
「……っ!」
再び光の暴力が、少しの明るさに慣れた俺の目を襲う。また勝手に瞼が降りて瞳への光の攻撃を遮断する。薄目を開け、瞳が明順応しているのを見計らって少しづつ瞼を開けて行き──蛍光灯の白く見える光の塊がそれなりの明るさになっていく。
一応準備は前の日にはしているが、念のためにもう一度点検しておく。寝床の横には必要な品物が、戦闘機などが積む武器などを滑走路に並べて展示するアーマメントディスプレイのごとく並べてあり、チェックがしやすくなって──
「あ、あれ?」
寝る前にきれいに並べたはずの品物はそこにはなく、寝相が悪いせいか怪獣の攻撃にあった街みたいにあっちにバラバラこっちに散逸しており、軽くチェックどころかもう一度あるかないかの確認をせねばならなくなった。下手すると布団の下に紛れ込んでることも…。
「オイオイ…」
時間はまだ何とか余裕はあるも、寝過ごしから予定が狂った俺は更に焦りが生じ始めていた。とにかく布団を畳んで押し入れに放り込み、散逸した観戦に必要なグッズをもう一度探して、四畳半の下宿のわずかな隙間に並べて心を落ち着かせる。
「えーと、お金…よし。チケット…よし。タオル…よし。ついでにバスタオルも。着ていくTシャツ及び替えの分…よし。履いてくズボンと予備…よし。下着類…よし。靴下及び予備…よし。帽子…よし。デオドラント類…よし。着古した服を入れるビニール袋…よし。お土産などを入れる予備のバッグ…よし。観戦中履いてるサンダル…よし。合羽…よし。折り畳み傘…よし。…と、こんなところか」
指さしをしてそのモノがあるかをキッチリと確認する。起き掛けの半分寝ている頭でも、指差しをすれば間違いは起こしにくい。ましてや寝過ごしたことで眠気が吹き飛んだ頭では。
今日の天気は東海地方は晴れの予想一択。雨が降る余地は見当たらないが…合羽と傘はお守り代わりに持っていくとしよう。
確認後、それをバイクでの移動中背中に背負うデイバッグと、バイクのリアシートにネットで止めておく大きめのツーリング用防水袋に詰め込む。すぐ取り出せるものはデイバッグに、ひょっとして使わない可能性があるものは防水袋へと詰め込む。
余裕はあるかもと思っていたが、意外と一杯になった。その姿は、アメリカのテレビとかで見る太ったコメディアンの様で、丸くなって下宿の畳の上に転がっている。
「早いとこ服着てバイクに取り付けるか」
昨年の鈴鹿8時間に行った時に買った、カワサキのカンパニーカラーであるライムグリーンをあしらったロゴが背中に書かれたTシャツを着こみ、ズボンはデニム地のインディゴブルー。白の靴下を履き、最後に白地にライムグリーンとブルーの差し色が入ったバイクジャケットを羽織る。
「おし、荷物下ろそう」
防水袋とデイバッグを持って下宿の廊下へと出る。昭和の中頃に作られたと思しき古い下宿棟の廊下は、もうすぐ寿命を迎えそうな、明るさが明らかに落ちている蛍光灯で照らされている。あちこちにひびが走り、補修跡はあるが数が多いかお金が足りないか、放ってある方が多いように見える。そこを抜けて所々錆が浮いている階段を静かに降りる。
道路へ出るコンクリートで固められたアプローチ脇に、俺のバイク──カワサキZXR400が出番はまだかと薄暗い中、そのいかつい顔でねめつけている。それを一瞥した俺はまずリアシートに防水袋を置いてネットで落ちないよう取り付け。デイバッグは後で背負うためにシートに置いておく。
踵を返し、再び2階の自分の部屋へと戻り、白地にライムグリーンと青をあしらったカワサキワークスカラーっぽく彩色されたヘルメットと、似たような色のグローブを持ち、窓を閉め、不必要な電源を切り、忘れ物がないかの最終確認を行う。もちろん、指差し確認で。
忘れものが見当たらないことを確認した俺は、部屋の電気を消した。明るさに慣れた目からは、消した瞬間、目の前が真っ黒になった。さっきとは逆だ。しばらくすると、暗順応してきたのか、かすかな光に照らされた自分の部屋の輪郭が浮かび上がってきた。
「さて、もう行くか」
俺はバイク用のシューズを履いて廊下へ出る。そして鍵を掛けた。
戻ってくるのは月曜のこんな時間かなぁ、と思いながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます