砂漠の幻葬団
白縫いさや
1. 砂鯨
1-1
砂鯨が死んだ。
出会ってから八年間を共にした青年の家族だったが、昨晩、毒蠍に刺されて死んでしまった。幸いなことに、近くの街まではさほど遠くはないので、砂漠の真ん中で野垂れ死にすることはないだろうが、余計なことを考える必要がない分だけ悲しみが募る。青年は地べたに座り、冷たくなりゆくだけの砂鯨を見つめている。死んだ砂鯨とは重力に押しつぶされるために、生前よりも低く平たくなるものであるということを、麻痺した頭で学んだ。
夜が明けて朝日が砂鯨の巨大な体の背後に迫り、輪郭を光で描き出す。麻色の肌の艶やかさはいくらか失われはじめていた。じりじりと日がのぼるにつれて、その全体像が浮かび上がってくる。巨体に比べて著しく小さな瞳は開かれているが、それはもはや結晶のように澄んだ黒色ではなくなっていた。濁り始めた瞳は宙を向いており、そこに青年の姿が映ることは二度とない。
改めて、死んでしまったのだな、と青年は思う。砂鯨はもう泳がない。青年を運んで砂漠を旅することもしない。これからは、青年は自分の足でこの広い砂漠を旅しなければならない。だから、さっさと立ち上がり、荷物をまとめて、とりあえず街まで戻って次の旅の準備をしなければならないのだ。砂鯨の死体は置き去りにすることになるが、一人で弔うには巨大すぎるし、そもそも砂漠で命を落とした生物とは野晒しにされるのが常である。死体はやがて干乾び、砂に埋もれて地に還るだろう。この広い砂漠にはそうやって置き去りにされた死体があふれているものだ。
それでも立ち上がれないのは、それだけ砂鯨が青年にとってかけがえのない家族だったからだ。目を瞑れば脳裏に昨日のことが生々しく蘇る。
青年と砂鯨はあてのない旅をしていた。太陽を目印にひとつの方角を目指して進み、太陽が空の端にかかり始めた頃に、砂鯨は突然大きく震え、青年の視界は突如反転し、地面に放り出された。体を打った痛みよりも、劈くような砂鯨の鳴き声に反応して青年は身を起こし、砂鯨に駆け寄り声をかける。砂鯨は苦しみながらのたうち回り、振り下ろされたひれが青年のすぐ隣を掠めて砂埃を巻き上げた。しかしそれもそう長くは続かず、やがて砂鯨は暴れる体力を失い、力なく倒れた。砂鯨は、時折弱々しく震える以外のことは、もう何もできないようだった。そのような痙攣が二、三時間ほど続き、月が天頂に届く頃に、ついにぴくりとも動かなくなった。夜の冷気は砂鯨の体から残った熱を奪い、岩のように固くさせていく。このように砂鯨が息絶えていく間、青年は何もすることができなかった。仇の毒蠍の行方は知れない。
俺がもっと気を付けていれば、毒蠍なんかに刺されなかった?
もしも時間を遡ることができたならば、と青年は叶いもしない妄想に耽る。
太陽が天頂近くまでやってきた頃、青年を巨大な影が覆った。その少し前から何者かの砂を踏む音は聞こえていたのだが。
「お前はまだ生きているな」
野太く低い声が青年に呼びかける。
「団長、まだ生きているのがいる」
「おう、そうか」
鬱陶しいと思いながら青年が顔を上げて振り返ると、大男の背中と、その大男が顔を向けている先からやってくる別の男が見えた。二人とも熱除けの白いマントとフードを被っていた。
「毒蠍にやられちまったか。運がなかったな、あんた」
団長と呼ばれた男はしゃがんで砂鯨に手を当て、言った。運がなかったな、という言葉にはそれ以上の他意はなかった。
「運がなかった……ああ、そうなんだろうな」
青年は呟いた。今朝からずっと過去をやり直す想像を繰り返してきたが、ついに砂鯨が死を免れる未来は見えなかった。何が悪かったのか? 強いて言うならば、運が悪かった。たまたま砂鯨の進む道の上に毒蠍がいて、毒蠍は自分の身を守るために砂鯨の腹に尾針を刺し、そしてそれを避けられなかった砂鯨は死んでしまった。それ以上でも以下でもない。不幸な事故だ。だからさっさと切り替えて、次の行動を――いや、その前にこの者たちだ。
「で、あんたらは何だ? 俺は金目のものなんか持ってないぞ」
「砂鯨からは色々なものが採れる。肉、皮、骨、肝、髭。無駄なものはほとんどない」
「……それは勘弁してくれ。大事な家族だったんだ」
「しかしもう死んでしまったのだろう」
大男は語尾を上げた。沈黙が流れる。大男の言う通り、砂鯨の体からは金目のものが数多く採れるというのは真実で、有効活用することは悪いことではない。青年は何も言い返せなかった。
沈黙を破ったのは団長と呼ばれた男が大男の脛を蹴る音だった。
「お前は、少しは言い方ってものを考えろ」
「……気を悪くしたのならすまない」
「言い方を取り繕ったところで、あんたたちの目当てがこいつだってところに変わりはないわけだ」
とことん運がないもんだ、と青年は毒づいた。かけがえのない家族を亡くしただけではなく、その死さえも弄ばれようとしているのだから。
「こいつに手を出してみろ。お前ら全員ぶっ殺してやる」
懐のナイフは殺傷を目的としたものではないが、人を殺めるには十分なものだ。しかし一対二ではそもそも分が悪い。せめてどちらか一人とでも刺し違えられれば上々か。それであいつのところへ行けるならば、それも悪くはないのかもしれない。
「ほら話がややこしくなった」
「すまない」
「ま、いいけどさ」
さて、と団長と呼ばれた男が青年に向き直る。敵意がないことを示そうと、軽く両手を挙げている。
「とりあえず、話をしよう。前向きな話だ」
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