その4

 校長の式辞は続いている。卒業生が人学した時の思い出から語り始めてなかなかの熱弁だ。

 場内は物音一つせず静かだ。暖房がないので、座っているとしんしんと冷えてくる。壇上の来賓席には理事長が座っている。時折り視線を職員の 列に注ぐ。諦三は白分の姿が理事長の目にとまるのを意識する。

 二階の観覧席に目をやると、卒業生の父兄が席の半分ほどを埋めている。母親が殆どだ。和服が多いが、なかに襟の羽毛が頭の高さほどもある黒いコートを着こんだ婦人が居た。その派手な服装を女子高の卒業式らしいと諦三は面日く思った。

 諦三はふと自分の置かれている状況を意識した。今、目前で進行しているのは学校行事の中でも最大のものの一つである卒業式であり、自分は教師の一員としてそれに臨んでいる 。場内は静寂で、物音一つしない 。もしも今、俺がとんでもないことをすればどうなるか。つまり突然大声を出したり、走り出したりすれば。諦三は自分の空想を笑った。そんなことをするはずがない。そんなことをすれば破減だ 。しかし諦三の手 のひらには脂汗がにじんだ。自分が今にも叫び出し、走り出しそう に思えるのだ。諦三は挙を握りしめてその思いに耐えた。

 そんな精神的惑乱が二回ほど、卒業式の間に諦三を襲った。

 式が終り、退場していく卒業生を職員が拍手で送った。歩いてくる半分ほどの生徒が泣いていた。唇を噛みしめ ている者もいた。ふだんと変らない顔の者もいた。教師の側では女教師の多くが目を潤ませていた。日頃テキパキと仕事を片づける男勝りのSが、赤く充血した目にハンカチを当てているのを諦三は 興味深く眺めた。

 理事長や校長も壇上から降りて拍手していた。諦三は卒業生の流れを間にして向き合う位置にい たが、昨日のことが頭にあるために彼らの顔を正視しにくかった。 卒業生が皆出てしまったらどう なるだろうと諦三は思った。校長に、昨日はどうも、と話しかけていくべきだろ うか。いや、それは場違いだ。諦三は落着かない視線を校長と理事長の顔に走らせた。理事長は目を 細めるよう にして手を叩いている。校長はいつもの苦虫を噛みつぶしたような顔に少し笑みを加えて、手を拍っている。やがて卒業生は皆場外に出てしまった。職員の列が動き始める。理事長達はそのままの場所で話を交わしている。諦三は動き出した職員の流れの方向に体を向けた。やがて、歩き出し、外に出た。自分の後ろから理事長達が話しながら歩いてくるのがわかった。理事長に目礼もできなか ったことが心残りだった。

 職員室に人ると十一時過ぎだった。諦三は机に着いて一息ついた。理加子は店に出かけた頃だなと思った。これから半日、あいつは苦痛に耐えなければならない のだという思いが胸をよぎった。

 机の上には折詰めの弁当が置かれている。まだ空腹感はなかった。専任の教諭達は職員室を出たり入ったり忙しそうに動いている。しかし非常勤講師は卒業式が終ると別にすることはなかった。多くが煙草を吹かしたり、雑談し たりしている。諦三の斜め前には 同じ非常勤講師のAが ぽつねんと座っていた。

 Aは二十七才の女性だ。独身だ った。

「先生は涙を流しましたか」

 諦三は思いつくままに言葉をかけた。 「え」とA は大きな目を丸くして諦三を見た。

「泣いた? 卒業式」

「ああ、いやいや、少しジーンとなったけど、涙は出ませんでした。高校生の時はワイワイ泣きましたけどね」

 AはM高校の卒業生だった。

「それで涸れちゃったんじゃないかな」

と笑った。

「しかし、こういう時に出る涙てのは、見ていて悪い 情景じゃないですね」

 Aは瞬きすることで頷いた。話は途切れた。諦三は茶を汲みに立った。

 席に戻っ て茶を一口飲み、煙草に火をつけた。ポンと肩を叩かれ、ふり向くとKが耳もとに顔を寄せていた。

「今日、どうす る。行くか 」

 手で盃を傾けるま ねをする。

「ああ、行きましよう」

 諦三は笑って答えた。K は、うん、うんと頷いて、

「しかし君は酒癖 が悪いからな」

 と笑い顔で言う。

 一週間前、Kと諦三とKの親しいT先生 と三人で酒を飲んだ 。Tは他校の教員 だったが、元はM高校に勤めていた 人物だ。諦三は楽しく飲め るメンバー だったこ とも あり 、少しはし ゃぎ気味だった。最初の焼鳥屋を出てスナックに向う途中、馬鹿話の弾みでKのコートの裾をひっ張り、縫い込みを綻ばせてしまった。さらに帰り際には階段で足をくねらせ、助け起こそうとしたTの腕を振りほどこうとして、Tのメガネを割ったらしい。もっともこれはKが話して聞かせたことで、諦三には記憶がない。階段でこけ、尻もちをついたことは、仰いだ天井の景色、足の痛み、ぶざまだと意識したことによって記憶に残っているが、メガネを割ったこ とや、それ以後どのようにして帰ってきたのかはすべて空白になっている。かなり酔っていたことは確かだ。学校に出てKに会うとKは「酔っぱらい。酒聟の悪い男」と諦三に言った。それ以後K はその言葉で諦三をからかうのだった。

「こららが側でハ ラハラせんといかんしね」

  Kは皮肉な笑いを浮かべながら続けて言った。諦三は頭を掻きながら、「そんなことはないですよ」と苦笑す るほかはなかっ た。Kは諦三がスナックで他の客に喧嘩をふっかけたとも話していた。これも諦三の記憶にはないことで、話を面自おかしくするKらしいつくりごとではないかと思えた。しかしそれに類した事が、以前Kと飲んでいて一度あったので、それと絡ませて言われているようで、諦三は苦笑するはかなかったのだ。

 Kは諦三に話しかけていながら目はAの顔を見つめている。AもKの顔を見上げている。

「ねえ、Aさん、今夜飲みに行こう」

「だめ」

 Aは目をつむって頭を横に振る。

「どうして。デートがあるの。最近きれいになったねえ、Aさん。ねえ、行こう。二人でゆっくり飲んで、いつものホテルに人ろうか。部屋は予約しておくから」

 Aは吹き出して、

「ご遠慮申し上げます」

 Kはいつもこの調子だ。諦三は二人のやりとりを笑って眺めながら今夜の予定について考えていた。とにかくKに借りを返さなければならない。 やはり今夜は飲まなければならないだろう。                     

「先生、行きましよう、今日は僕が持ちますよ」                                                                                                 

 借りを返すことにこだわっている自分が意識され言いにくか っ たが、両手を上にあげて、 背伸びをするような格好をつくって諦三は言った。                                                「うん、安い所をね」                                                                                                     「いや、今日は僕が」                                                                                                     「いい、いい。気にしなくて」                                                                                                      Kはそう言うと、諦三の肩をまたポンと叩いて去っていった。                                                                                      

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