鳥籠の卵

辻田煙

第1話

 夏休みの昼下がり。八月も下旬だが、いまだ暑さは衰えていない。人一人いない廊下では外からの蝉の声が響き、窓からは日光が床を照りつけて温度を上げている。


 トイレから出てきたばかりの十和田とわだ駿しゅんは、早く空調の利いた教室に戻ろうと、足早に美術室を目指していた。


 彼は気持ちだけでも涼もうと、つい最近描き終えたばかりの絵を頭に思い浮かべる。


 ――碧い絵だ。驚くほど静かな深い海の中、中央に人魚がいる。美しく長い黒髪を漂わせている少女は、肌を晒しているが、胸は髪で隠れている。人魚姫のおとぎ話と同じように、下半身は魚の尾となっており、きらびやかな鱗で覆われていた。背後には様々な生物がおり、彼女が従えている。魚はもちろん、イルカやサメ、蟹までもが配下だ。


 みな見ているのは一点。絵を鑑賞している人間だ。


「駿!」


 後ろからかかった声に振り返ると、クラスメイトの恭二だった。バドミントン部の練習の合間だったのか、練習着姿だ。


 見ているだけで暑そうな彼に、駿は一歩後ろに下がって応えた。


「僕になにか用?」


 駿は恭二に声を掛けられる覚えがなかった。クラスメイトと言っても全員と仲良くしているわけではない。


「用……、というよりも相談したいことがある。今日、俺の家に来てくれないか」


「家に?」


「ああ、相談聞くの得意だろ?」


 別に得意な訳じゃない、と駿は思った。みな勝手に話せる対象として見てくるのだ。駿が意見を出すこともあるが、大半は悩みを明かせことにすっきりし相談事が解決したことになる。


 だが、相談されること自体に不満はない。むしろ好都合だった。


 様々な悩みは絵の種になるからだ。自分一人だけでは想像も出来ない、なにかへのきっかけになる。


「相談を聞くのはいいけど……、なんで家に? 今ここで話してもいいじゃないか。今は時間がないって言うんだったら、あとでファミレスとかでも聞くよ?」


「相談したい事そのものが家にある、というかいるからだ。話をしてからでもいいんだけどさ、直接見てもらった方が早い。頼むよ、駿」


「……分かった。だけど、あんまり期待はしないでよ? 僕に出来ることなんて何もないんだ」


「とにかく見てくれ。見れば分かる」


「そう、それならいいよ」


「助かる」


 恭二はお礼とともに胡散臭いほどに爽やかな笑みを浮かべた。

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