第8話 毎朝8時42分の絶望
「やばいやばいやばい!」
私、山田美咲は通学路を全力で走っていた。
時計を見る。8時42分。
「あと3分で遅刻!」
なぜこんなことになったのか。原因は今朝の朝食だった。
母が作ってくれた目玉焼き。その黄身をいつ割るべきかで悩んでしまったのだ。
「黄身を割るタイミングが人生に与える影響について、もっと深く考察すべきだったのでは...」
考えているうちに時間が過ぎて、結局30分も悩んでしまった。
そして今、私は学校まであと200メートルの横断歩道の前に立っている。
赤信号。
「なんで今赤なの!?お願い、青になって!」
私は信号を見上げて必死に手を合わせた。
その時だった。
「またお前かよ!」
突然、めちゃくちゃドスの利いた声が響いた。
「え?」
「昨日も同じこと言ってたろ!『お願い青になって』って!」
信号機の赤いライトが激しく点滅しながら怒鳴っている。
「え?え?信号機が...喋ってる?昨日って...」
「当たり前だ!お前、もう一週間連続で遅刻してるじゃねぇか!」
信号機全体がガタガタと震え始めた。
「月曜日はパンにバターを塗る厚さで悩んで遅刻!火曜日は靴下を履く順番で悩んで遅刻!水曜日は髪ゴムの色で悩んで遅刻!」
「あ...」
記憶が蘇ってくる。確かに毎日何かしらで悩んで遅刻していた。
「木曜日は歯磨き粉の量で悩んで遅刻!金曜日は制服のボタンを留める順番で悩んで遅刻!そして今日は目玉焼きだと?」
「すみません...」
「すみませんじゃねぇ!学習能力ねぇのかお前は!」
信号機の怒声で近くの鳩が一斉に飛び立った。
「でも...でも今日の目玉焼きは特に重要な問題だったんです!黄身を最初に割ると白身と混ざり合いますが、黄身の純粋性が失われます。しかし最後まで保持すると...」
「黙れええええ!」
信号機の赤いライトが爆発寸前の明るさで光った。
「お前な、俺の前で毎朝毎朝くだらないことで悩みやがって!俺だって大変なんだぞ!」
「え?」
信号機の声が急に沈んだ。
「実はな...俺も昔は迷いまくってたんだ」
「え?信号機さんが?」
「ああ...青になるタイミングで3日悩んだことがある」
私は目を見開いた。
「3日?」
「そうだ。設置されたばかりの頃、俺は考えすぎちまったんだ。『本当に今青になっていいのか?歩行者は安全に渡れるのか?車の流れは大丈夫か?』って」
信号機の声に哀愁が漂う。
「3日間ずっと赤のまま...大渋滞が起きて、歩行者は誰も渡れなくて...」
「そんな...」
「工事の人が来て『故障か?』って首をかしげてるし、みんな困ってるし...」
信号機が深いため息をついた。
「でもな、そん時に気づいたんだ」
「何を?」
「完璧なタイミングなんて存在しないって。大切なのは決断することなんだ」
私は静かに信号機の話を聞いていた。
「青になれば車は止まるし、歩行者は渡れる。赤になれば車は進むし、歩行者は待つ。それだけのことなんだ」
「でも...」
「お前の目玉焼きも同じだろ?どう食べたって、腹に入れば一緒だ」
「そんな身も蓋もない...」
「身も蓋もないじゃねぇよ!現実を見ろ!」
信号機が再び怒り始めた。
「お前が30分悩んでる間に、俺の前を何人通ったと思ってるんだ!みんなちゃんと時間守って学校行ってるんだぞ!」
「でも私は完璧な選択をしたくて...」
「完璧だと?」
信号機がさらに震える。
「俺に言わせりゃ、30分悩んで結論出ないのが一番不完璧だ!」
「ぐ...」
確かにその通りだった。
「それに、お前毎日同じパターンじゃねぇか!悩んで、遅刻して、俺に八つ当たりして!」
「八つ当たりじゃありません!」
「八つ当たりだろ!『早く青になれ』って、俺のせいにしやがって!」
私は黙り込んだ。完全に図星だった。
「でもな」
信号機の声が急に優しくなった。
「お前みたいに毎日悩みながらも、ちゃんと学校に向かう姿は...嫌いじゃないぞ」
「え?」
「俺、42年間この交差点にいるけど、毎日違うことで悩む奴なんて珍しいよ」
信号機が小さく笑った。
「月曜日から金曜日まで、全部違う悩みで遅刻するって、ある意味才能だろ」
「才能...ですか?」
「ああ。でもな、もう少し効率よく悩めよ」
「効率よく?」
「3分で結論出せ。3分あれば十分だろ」
その時、信号機の赤いライトが消えて、青いライトが点灯した。
「あ、青になった」
「そうだな。でももう遅刻確定だろ?今日で6日連続だぞ」
時計を見る。8時47分。
「完璧に遅刻です...」
「まあ、明日はどんなことで悩む予定だ?」
「え?」
「制服のスカートの丈について哲学的考察でもするのか?」
私は考え込んだ。
「あ...パンにジャムを塗る量について...」
「またかよ!」
信号機が呆れた声を出した。
「いいか、明日はジャムのことで3分以上悩むな!そして7時半には家を出ろ!」
「はい...」
「それから、もし悩みそうになったら俺のことを思い出せ。3日悩んでた馬鹿な信号機のことを」
私は笑ってしまった。
「はい、思い出します」
私は横断歩道を渡り始めた。
「あ、そうそう」
振り返ると、信号機が最後に言った。
「明日も遅刻したら、説教のレベル上げるからな。覚悟しとけよ」
「え?レベルって...」
「企業秘密だ。早く行け」
私は慌てて走った。
8時50分、完全に遅刻で教室に入る。
「山田さん、今日で6日連続遅刻ですね」
「すみません、目玉焼きで悩んで、信号機に説教されてました」
「...毎日理由が違うのね。明日は気をつけなさい」
席に座りながら、窓の外を見る。
遠くに、あの信号機が見える。今も規則正しく、赤と青を繰り返している。
ありがとう、元悩みすぎ信号機さん。
明日はジャムで3分以上悩まないようにします。
そして7時半に家を出ます。
明日はきっと時間通りに行こう。
---
**翌朝7時30分。**
「よし!今日は信号機さんとの約束を守る!」
私は意気揚々と家を出た。
「時間もばっちり!今日こそ遅刻しない!」
台所で母が朝食の準備をしている。パンにジャムを塗ったものが用意されていた。
「あれ...でもこのジャムの量...本当にこれでいいのかな...」
私は立ち止まった。
「少し薄すぎる気がする...でも厚すぎるとパンの味が消えてしまう...ジャムとパンの黄金比について考察する必要が...」
気がつくと、8時42分。
また同じ信号機の前に立っていた。
赤信号。
「あああああああああ!」
信号機の絶叫が交差点に響き渡った。
「お前ェェェェェ!!!約束は何だったんだよォォォ!!!」
信号機全体が怒りで真っ赤に染まりながら激しく震えている。
「7時半に出たじゃないですか!約束は守りました!」
「ジャムで1時間12分悩んでんじゃねぇよ!!!」
「でもジャムとパンの最適な比率について深く考察する必要が...」
「うわああああああ!こいつ本当にダメだ!根本的にダメすぎる!!!」
信号機が泣きながら怒っている。
私は困り果てて小さくなった。
「あの...すみません...」
「明日はハムの厚さで悩むんだろ!?その次はマヨネーズの分量だろ!?もう分かってるんだよ!!!」
図星すぎて何も言えなかった。
信号機が天を仰いだ。
「神様...この子をどうにかしてください...お願いします...」
私は今日も遅刻確定で、信号機さんに心の底から同情された。
明日こそは...明日こそは時間通りに...
でも、ハムの厚さって確かに重要な問題かもしれない。
信号機の嘆きが朝の空に響き続けていた。
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