思考過多少女の哲学的日常

ヨンドメ

第1話 運命の120円

「行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい。あ、そうそう、美咲」


母が振り返る。


「今日は暑くなるから、水分補給忘れないでね」

「はい」


普通の、本当に普通の朝の会話だった。


---


そして私、山田美咲は今、自動販売機の前に立っている。


手の中の120円硬貨が、まるで地球の重力を一身に背負ったかのように重い。


「水分補給忘れないで...」


母の言葉が脳内で反響する。単なる気遣いの言葉。そう、誰もがそう思うだろう。しかし待て。母の表情を思い出してみろ。あの時、一瞬だが眉がピクリと動いた。あれは...心配の色だったのか?


「今日は暑くなるから」


気象予報を確認していたのか?いや、母は毎朝必ずニュースを見る。天気予報も当然チェックしているはずだ。だが、なぜわざわざ私に?


コーラを見つめる。黒い液体が缶の向こうで静かに待っている。


「カフェイン...利尿作用がある。水分補給と言いながら、実は体内の水分を奪う悪魔の飲み物なのでは?母はそれを知っていて、遠回しに『コーラを飲むな』と...」


いや、考えすぎだ。落ち着け。


オレンジジュースに視線を移す。オレンジ色が朝の太陽のように輝いている。


「水分...ビタミンC...でも糖分も多い。母の意図は純粋な水分補給だったのでは?だとすれば...まあ、水という選択肢もあるが...」


時計を見る。8時33分。


「あと12分で登校時間。12...1と2...3...素数だ。いや、12は素数ではない。12は3と4の倍数...つまり調和の数字。これは運命のサインか?」


背後で足音が聞こえる。振り返ると同級生の佐藤さんが近づいてくる。


「やばい、見られている。私がこんなに真剣に自販機と向き合っている姿を...彼女は何を思うだろう?『また美咲が変なことで悩んでる』と?それとも『美咲は健康意識が高い』と好意的に?」


佐藤さんが私の2メートル後ろで止まる。彼女も自販機を使いたいのだ。プレッシャーが高まる。


「この選択は私だけの問題ではない。佐藤さんの時間を奪っている。社会的責任を背負っている。しかし急いで選んで後悔したら?一生この選択を引きずることになったら?就職活動の面接で『あなたの人生最大の後悔は?』と聞かれて『自販機でコーラを選んだことです』と答えるのか?」


考えがまとまらない。私は思わず自販機に額をゴンと押し当てた。


「冷たい...この冷たさが私の熱くなった脳を冷やしてくれる...」


手の中の120円が汗で湿ってくる。私はその120円を天高く掲げた。


「この硬貨に込められた使命とは...!母の想い、私の未来、全てがこの円形の金属に託されている!」


通りがかりの人が振り返るが、私には関係ない。


母の顔が浮かぶ。あの優しい笑顔。そして言葉。「水分補給忘れないで」


「そうだ...やはり水だ!」


私の頭の中で稲妻が走った。さっき軽く考えていた水という選択肢が、突然絶対的な確信に変わった瞬間だった。


「水分補給なら水!ミネラルウォーター!母の真意はここにあったのだ!」


私は決然と水のボタンに向かう。120円を投入し、ボタンを押す。


「ガタン」


...出てこない。


「売り切れ」の赤いランプが点滅している。


「そんな...」


私の壮大な思考の旅路が、あっけなく現実の壁にぶつかった。あまりのショックに、私は自販機の前にペタンと座り込んでしまった。そのまま正座の姿勢になり、目を閉じる。


「瞑想...そうだ、瞑想で答えを見つけよう...」


「む...無...」


佐藤さんの視線を感じるが、もはや恥ずかしさなど超越していた。


再び自販機の前で立ち尽くす私。振り返ると...


佐藤さんが、ぼんやりと私を見ている。


特に何も考えているわけでもなさそうな、雲でも眺めているような、とても平和な表情で。手には自分の鞄を持って、ただ待っている。


「やばい...どれくらい待たせてしまったんだろう...」


私は慌てて自販機に向き直る。水は売り切れ。となると...


「コーラかオレンジジュースか...振り出しに戻った」


時計を見る。8時35分。あと10分。


「でも待て、もう一度考え直そう。水が売り切れということは、この自販機の運命は既に決まっていたということなのか?水を選ぼうとした私の判断は正しかったが、宇宙がそれを阻止した。つまり、私には別の使命があるということなのでは?」


後ろの佐藤さんの視線を背中に感じながら、私は再び深い思考の海に沈んでいった。


「コーラの黒...それは未知への扉。オレンジの橙...それは太陽への讃美。母の言葉を思い出せ。『水分補給忘れないで』...水がダメなら、次に水分補給効果が高いのは...」


その時、私の脳内で稲妻が再び走った。


「待て...なぜ私は二者択一で考えているのか?黒と橙...この二つの色を混ぜたら何色になる?」


私は頭の中で絵の具パレットを想像する。黒と橙を混ぜていく...


「茶色だ!」


頭の中で烏龍茶のイメージが浮かぶ。


「烏龍茶...そうか、お茶という選択肢が!母の『水分補給』という言葉の真意...水の次善策として、体に優しい茶類があるではないか?烏龍茶...中国古来からの健康飲料。カフェインは含まれているがコーヒーほど強くない。糖分もゼロ。これこそ調和の精神!」


私の手が120円を握り直す。


「コーラとオレンジジュースの対立を乗り越えた、第三の選択...」


後ろの佐藤さんは相変わらずぼんやりと待っている。


私は期待に満ちた表情で自販機を見つめた。


烏龍茶の場所を探す。上段...中段...下段...


「ない」


「え?ない?そんなはずは...」


私は自販機のガラス面に顔を近づけ、必死に烏龍茶を探した。コーラ、オレンジジュース、りんごジュース、コーヒー...


「烏龍茶がない!この自販機には烏龍茶が入っていない!」


絶望のあまり、私は再び自販機にゴンと額を当てた。


「教えて...自販機よ...私は何を選べばいいの...」


額に汗が浮かぶ。朝の太陽が容赦なく照りつけて、私の制服のブラウスに汗染みを作っていく。


「どうしよう、どうしよう...」


時計を見る。8時37分。あと8分しかない。


「水もダメ、烏龍茶もない。母の期待を裏切ることになる。でも時間がない。どうすれば...」


私は立ち上がり、120円を両手で包み込むように握りしめ、再び天に向かって掲げた。


「母よ...宇宙よ...この迷える子羊に道しるべを...!」


慌てて振り返る。


佐藤さんがいない。


「え?佐藤さん?」


辺りを見回すが、彼女の姿はもうない。いつの間にか諦めて学校に向かったのだろう。


「ひとりぼっち...」


太陽の熱で朦朧とする頭。汗でべっとりになる髪。迫る登校時間。そして私はまだ、たった一本の飲み物も買えずにいる。


その時、遠くから聞こえてきた。


「キーンコーンカーンコーン」


学校のチャイム。


8時45分。


私、山田美咲は自販機の前で、120円を握りしめたまま立ち尽くしていた。

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