第21話

 あの夜から、まだ数日しか経っていない。

 けれど、教室の空気はすっかり変わってしまっていた。



 私の所属するクラス1-Cは、見えない線で二つに割れている。



「白瀬が被害者だ、真壁は自業自得だ」と私を庇う声と――「真壁があんなことするはずない、められただけじゃないか」と呟く同情派に分かれていた。

 どちらも大声で口にするわけじゃない。

 だけど視線の棘は、毎日私に突き刺さってくる。私の机に、誰かが「ビッチ」と落書きしていた。真壁のファンだろうか。除光液を借りて綺麗にそれを消した。



 茜は、事件の翌日、泣きながら私に抱きついてきた。



「……ごめんね、凛花。わたしがそばにいれば、そんなことにはならなかったのに」



 その声は震えて、湿った手が私の腕を強く掴んでいた。

 ありがたい―― けれど、何かが引っかかる。



 真壁がその後どうなったのか、詳しくは知らない。

 ただ、小田嶋も、御子柴も、そして真壁も――三人揃って学校に姿を見せることはなくなった。

 空席の並ぶ教室には、無理に笑うような沈黙が漂っている。



 葛西をはじめ教師たちは「生徒の安全を第一に」「軽率な噂話は慎むように」と繰り返しアナウンスした。

 だが火消しの言葉は、かえって生徒たちの好奇心を煽るだけだった。

 むしろ「隠されている何かがある」とささやかれるようになり、1-Cは校内で一番目立つクラスになってしまった。



 廊下を歩けば、他クラスの生徒たちがひそひそと振り返る。



「1-Cで大事件があったらしい」

「誰かが退学になったんだって」



 尾ひれのついた噂が校内を駆けめぐり、火種の中心にいるのは、間違いなく私だった。



 そんな噂を耳にしたのか、それとも私を気遣ってくれたのか。

 その日の夜、スマホにメッセージが届いた。差出人は――蒼真先輩。





そうま「ねえ、凛花さん。もし良かったら……今度の日曜日、気分転換にどこか出かけないかな?」





 一瞬、時が止まったように感じた。

 まさか、先輩の方から誘ってくれるなんて――胸の奥が一気に熱を帯び、嬉しさで頬がじんわり赤くなる。



Rinka「は、はい! もちろん……!」



 メッセージを打ち込む指が震えていたけれど、送信ボタンを押した瞬間、心臓は跳ね上がるように高鳴った。

 返ってきたスタンプの照れくさそうな笑顔が、どうしようもなく愛おしかった。



 しばらくしてから、茜からもLINEが届いた。





♡あかね♡「ねえ凛花、今度の休みに一緒に遊ぼうよ! 新大久保に気になるお店が出来たんだ〜♡」





 けれど私はしばらく迷ったあと、指を動かした。





Rinka「ごめん、その日は用事があって……また別の日にしよ?」





 すぐに「そっか! じゃあまた予定合わせよ!!笑」というメッセージと、明るいスタンプが返ってきたけれど、胸の奥に小さな罪悪感が残った。

 それでも――先輩との約束を優先する気持ちの方が、ずっと強かった。





 そして迎えた先輩とのデート当日。

 胸の奥がそわそわと高鳴るのを抑えきれないまま、私は鏡の前で服を直し、何度も深呼吸を繰り返していた。



 待ち合わせは、明桜めいおう高校の最寄り駅。

 そこから二駅先に、先輩が「ずっと行きたかった」と話していた大型書店があるらしい。



 そこは、ただの本屋ではなかった。

 店内にカフェが併設されていて、購入前の本を自由に持ち込んで読める。

 インスタで検索してみると、吹き抜けの天井や木目調のソファが映えていて、デートスポットとして紹介されている投稿も多かった。

 本好きな先輩らしい、落ち着いたセレクト。少し大人びたその選び方が、ますます胸を高鳴らせた。





 改札前。

 早めに着いていた私の前に、少し遅れて蒼真先輩が現れた。

 いつもよりカジュアルな服装で、それでも整った雰囲気は隠しきれない。

 けれど、どちらから声をかけるべきか迷って、数秒の沈黙が生まれる。



「あ……」

「……あの」



 ほぼ同時に口を開き、顔を見合わせて気まずく笑う。

 ぎこちない空気の中、それでも心臓だけは嬉しさで跳ね回っていた。



「じゃ、じゃあ……行こうか」

「はい……」



 隣に並んで歩き出す。

 わずかな距離。手を繋ぐには遠すぎて、それでいて近すぎる距離。



(……うぅ、女の子とデートだなんて初めてだから緊張するな。ちゃんと楽しませられるかな。変にガツガツしたと思われたら……いやでも今日しかチャンスないかもだし……!)



 蒼真先輩の内心が、いつもより乱れて聞こえてきて、思わず口元が緩みそうになる。

 そのくせ顔は落ち着いて見えるから、余計に胸がくすぐったい。



 改札を抜け、自然に歩調を合わせると、彼はさりげなく「こっち」と手で示し、私を先に電車へと誘導した。

 周囲の人波に押されないよう、肩で庇うようにしてくれる――そんなささいな仕草が、胸を満たしていく。



(いいなぁ……あの子、可愛い。彼氏さんイケメンだし)

(まじで青春だな……あー羨ましい)



 乗客たちの心のざわめきが、ひそやかな合唱みたいに押し寄せる。

 羨望と少しの妬み。

 それが全部、私と先輩のことを指している。それだけで、頬がじんわりと熱を帯びた。










 やがて着いたのは、先輩が言っていた大型書店。

 ガラス張りの外観から、すでに洗練された雰囲気が漂っている。

 中へ足を踏み入れると、天井まで届く本棚が幾何学模様のように並び、間には観葉植物や柔らかなランプが点在していた。

 紙の匂いと、焙煎ばいせんコーヒーの香りが静かに混ざり合い、まるで知識と安らぎが共存する小さな街のようだった。



 足音が自然と吸い込まれていくほど、店内は静謐せいひつだった。

 ページをめくる音だけが、あちこちからかすかに響いている。



 思わず胸に手を当てる。

 この空気に包まれるだけで、心臓がゆっくりと整っていく気がした。



 すごい……こんな場所があるんだ。

 小さな感嘆が、声にならず唇から漏れた。



 蒼真先輩と並んで、静かな書棚の間を歩く。

 彼は文庫の棚の前でふっと足を止め、迷いなく一冊を抜き出した。



「これ……中学生のときに夢中で読んだんだ。今でも一番好きな本かもしれない」



 差し出されたのは、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』。

 開かれた扉の前に、青年と猫が立っている表紙。どこかノスタルジックで、未来と過去の両方を覗き込むような雰囲気が漂っていた。



「SF……なんですね」



「うん。でも難しいだけじゃなくて、希望とか、人との絆とか……そういうのがちゃんと描かれててさ。読んだあと、すごく前向きになれるんだ」



 彼の指先が、愛おしそうに表紙をなぞる。

 その横顔を見て、胸の奥がふっと熱くなった。



「……先輩に勧められたら、読んでみたくなっちゃいます」



「本当に? 嬉しいな」



 少し照れくさそうに笑う先輩に、心臓が跳ね上がる。

 その勢いで、私も勇気を出して手を伸ばした。



「じゃあ、私からも一冊……」



 掴んだのは、辻村深月つじむらみづきの『スロウハイツの神様』。

 夜空と家が描かれた、白と黒のシンプルな装丁が目を引く文庫本の上下巻だった。



「創作に関わる人たちの話なんです。悩んだり、嫉妬したり、それでも何かを作り続けようとする姿がすごくリアルで……。先輩も小説を書いてるから、きっと響く部分があるんじゃないかなって」



 自分でも少し恥ずかしいくらい真剣に言葉がこぼれる。

 でも蒼真先輩は驚いたように目を瞬き、それからゆっくり頷いた。



「……ありがとう。そんなふうに思って渡してくれるの、すごく嬉しい。絶対読んでみるよ」



 小説フロアを抜けて、料理や旅行の棚にも足を伸ばした。

 先輩が立ち止まったのは料理コーナー。平積みされているレシピ本をめくりながら、私はつい首を傾げる。



「……先輩、料理するんですか?」



「うん、たまにね。こういう『10分で作れるパスタ集』とか、『ひとり鍋レシピ』とか。簡単なのばっかりだけど」



「え、すご……。私なんて、カップ麺と冷凍食品が主食ですよ」



「はは、それはそれで学生っぽいじゃん」



 からかうような笑みに、思わず笑みが零れる。

 蒼真先輩が真剣に「自炊」を語るのが、妙に大人びて見えて胸がくすぐったい。



 次に足を止めたのは旅行コーナーだった。

 蒼真先輩が手に取ったのは『アジア横断バックパッカー紀行』というガイドブック。

 写真には、見たこともない市場や、乾いた砂の大地を行く長距離バスが映っている。



「ここ、いつかバックパックで回ってみたいんだ。ベトナムとかラオスとか、電車じゃなくて、安いバスを乗り継いでさ」



「……そんな夢があったんですね。ちょっと意外だったかも」



「ははは。凛花さんだって、最初ホラー小説読むって聞いたときは意外だったよ」



 続いて私が手に取ったのは『恋する街角スイーツ散歩』という雑誌。色とりどりのケーキが並んだ見開きを見ているだけで、自然と頬が緩んでしまう。



「……わ、完全に女子力本だね」



「う、うるさいです」



 互いの知らなかった面が、少しずつ開かれていく。

 そのたびに距離が近づいていくのを、肌で感じていた。



 やがて二人とも、それぞれ気に入った本を手に取った。

 蒼真先輩は『スロウハイツの神様』、私は『夏への扉』と、つい可愛らしいスイーツ特集の雑誌まで抱えてしまった。

 そのまま併設されたカフェスペースへ移動し、並んで席に座る。



 ガラス越しに柔らかな午後の光が差し込み、コーヒーの香りが漂う。

 紙袋から取り出した本を前に置きながら、私たちはお互いにからかったり、真剣に語ったり、たわいもないことで笑い合った。



「凛花さんって、笑うと目尻がちょっと下がるんだね」



「えっ……そ、そんなの気にしてませんよ!」



「いや、ごめん。可愛いなって思っただけだよ」



 言葉にドキリと胸が跳ね、熱が頬を染める。

 カフェスペースで過ごした時間は楽しくて、気がつけば窓の外は橙色に染まり始めていた。










 店を出ると、近くの河川敷へと足を向けた。

 川面は夕暮れを映して、揺れる波の一つひとつが金色に輝いている。

 遠くで犬を散歩させる人の影が小さく見え、風に草の匂いが混じって流れてきた。



「……もう少し、話そうか」

「はい」



 蒼真先輩が持ってきていたタオルを広げ、土手の斜面に腰を下ろす。

 並んで座ると、夕日が真正面から差し込み、彼の横顔が柔らかい光に縁取られて見えた。

 その景色があまりに綺麗で、胸がいっぱいになり、言葉がうまく出てこなかった。



 しばらく、二人して沈黙のまま川面を眺めていた。

 風が揺らす草の音や、遠くの子供の笑い声ばかりが耳に入る。



「……なんか、不思議だな」



 蒼真先輩がぽつりと呟く。



「こうして凛花さんと並んでると、時間があっという間に過ぎていく」



 胸がきゅっと締めつけられる。

 でも私は「そうですね」と相槌を打つのが精一杯だった。



 また沈黙。

 でもその沈黙は、心地よいのに、同時に張り詰めたようでもあった。

 彼の視線が、何度もこちらに向かっているのを感じる。



(……言わなきゃ。今日しかない。ずっと胸にしまってきた想いを、今こそ伝えなきゃ――! でも、もし断られたら……いや、怖がってる場合じゃない。行け……!)



 もしかして……告白しようとしてる? いや、そんな……でも……嬉しい。



 心臓の鼓動が、夕焼けよりも熱く響く。



「凛花さん、その……」



 蒼真先輩の声が少し震えていた。



「僕……前から、ずっと……」



 言葉は喉で途切れ、彼は視線を落とす。

 そのとき、不意にそっと私の手を取った。

 温かくて、けれど指先はわずかに汗ばんでいて――彼がどれだけ勇気を振り絞っているのかが伝わってくる。



 私は唇を噛んだあと、少しだけ微笑んで、その手を握り返しながら、彼の言葉をそっと押し出すように口を開いた。



「……私も、先輩といると楽しいです。だから――教えてください。今の先輩の気持ちを……」



 彼の目が大きく開かれる。

 そして、深呼吸のあと、はっきりと告げられた。



「……白瀬凛花さん。好きです。僕と……付き合ってほしい」



 その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 待っていた言葉。夢みたいな告白。

 気がつけば私は、涙がにじむのを誤魔化すように、笑顔で頷いていた。



「……はい。私も、先輩が好きです」



 夕暮れの川辺に、静かで確かな約束が結ばれた。



 その言葉を交わしたあと、沈黙が落ちる。

 けれど、それは重いものじゃなくて、互いの胸の鼓動がしっかり聞こえてしまいそうな、甘く張り詰めた間だった。



 私は繋いだ手をそっと引き寄せ、ほんの少し体を傾ける。

 蒼真先輩の瞳が驚いたように揺れる。

 でも、拒まれることはなかった。



「……先輩」



 そう呼んで、自分から唇を重ねていた。



 その刹那――。

 眩しい光が脳裏を駆け抜け、世界が反転するような感覚に包まれた。

 走馬灯みたいに、映像が次々と流れ込んでくる。



 幼い頃、両親と手を繋いで公園を歩いた記憶。

 転校して、初めて知らない教室に入った時の不安と期待が入り混じった心細さ。

 小説を書き始めて、何度も挫けそうになりながらも、言葉を綴り続けてきた夜。



――それらの映像は全部、蒼真先輩の人生だった。

 彼が積み重ねてきた記憶の欠片。



 な、なに……これ……?

 キスをしたら……その人の記憶が見える? これって、精神感応テレパスの新しい力……?



 心臓が早鐘のように打ちながらも、私はその流れを必死に受け止めた。

 どれもが、派手じゃない。だけど素朴で誠実な人生。

 その温もりに、思わず胸が締めつけられる。



 唇が離れたあと、私は息を整える間もなく、彼を強く抱きしめた。

 彼もまた、迷わず腕を回してくれる。

 その優しい力に包まれて、私はしばらく余韻に浸った。



――ふと、前方に目を向ける。

 河川敷の道の向こう、こちらを見ている人影があった。

 肩まで届く黒髪の女性。逆光のせいで顔ははっきり見えない。



「茜……?」



 心臓が一瞬、凍りつく。

 目を凝らそうとした瞬間、その人物はふいに踵を返し、静かに立ち去っていった。

 残されたのは、淡い夕暮れの色と、胸のざわめきだけだった。










 夜になり、帰りの電車に揺られていた。

 窓の外は真っ暗で、時折すれ違う電車の光が反射する。



 蒼真先輩と私は、並んで座り、指先をそっと絡め合っていた。

 まだぎこちないけれど、それでも確かな温もりが手のひらに宿っている。



「あそこのケーキ、美味しかったですよね」

「だよね。あれなら毎日でも食べられるなぁ」



 他愛のない会話を交わしながら、私はふと昼間の光景を思い出していた。

 河川敷で見た黒髪の人影――茜のように見えたあの背中。

 けれど、スマホを開いてみても彼女からの連絡は何も来ていない。



 ……気のせい、だったのだろうか。



 少しだけ胸の奥にざらつきを残しつつ、私はなんとなくニュースアプリを開いた。

 画面には「関東近郊の海で男子高校生の遺体発見」という見出しが並んでいる。



 無意識に親指が画面をタップする。

 表示された記事には、白黒の見出し文字が冷たく並んでいた。



「関東沿岸の防波堤近くで30日夕方、地元の漁師により男子高校生の遺体が発見された。

 身元は市内在住の高校一年生、御子柴匠馬みこしばたくまさん(16)と判明。

 遺体には明確な外傷は確認されていないが、事件と事故の両面から警察が調べを進めている」



 心臓がひやりと凍りつく。

 指先から血の気が引いていくのを、はっきりと感じた。



「……御子柴が……死んだ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る