第18話

 放課後の廊下は、ほとんど人影がなかった。

 湿った空気の中で、私は柱に背を預け、スマホを胸元で隠すように持つ。

 画面の明かりだけが、自分の決意を照らし返していた。



 保存しておいた動画ファイルを再生する。

 机の下で小田嶋がしていたこと、その顔――血走った目、噛みしめた唇。不快な身じろぎ。

 すべてがここに、刻まれている。



 喉の奥から、胃液がせり上がってきた。

 息を止めても、こみ上げる吐き気は止まらない。

 画面を閉じかけた指を、必死に押しとどめる。



 これが証拠だ。

 これでもう、小田嶋は逃げられない。



 震えそうになる手を、ぎゅっと握りしめた。



 しかし、ここから、どうやって告発すればいいのだろうか。

 足がついたら、きっと自分もただでは済まない。



 考えた末に、私は匿名メールを作ることにした。

 適当な名前を入力して、新しいアカウントを作る。

 そのまま送るのは危険かもしれない。

 だから、動画はクラウドにアップロードして、共有リンクを作った。

 リンク先をメール本文に貼りつける。



 あとは、文章。

 でも、私自身が書くと感情が出すぎるかもしれない。

 怒りとか、恐怖とか……読んだ瞬間に「白瀬凛花」だと悟られそうで。



 だから、私はスマホにインストールしていた生成AIのアプリを開いた。

 入力欄に短い指示を打ち込む。



「学校宛に、冷静で事務的な告発文を作って。

 内容は授業中の不適切な行為についてで、日時とクラス名を明記して、学校に調査と対応を求める文章にして」



 数秒後、無機質な文章が生成されていた。

 感情の色はほとんどなく、ただ事実を突きつけるだけの文面。



『こちらの映像は、6月18日 四限、英語の授業中に、1-Cの教室内で撮影されたものです。

 生徒が不適切な行為を行っている記録です。

 教育の場において見過ごせない問題です。

 再発防止を求めます。

 学校として事実を確認し、適切な対応をお願いします。』




 私はそれをコピーして、メール本文に貼りつけた。

 差出人はわからない。

 動画へのリンクは確かに有効。

 送信先は――学校の公式アドレス。



 親指が、送信ボタンの上で止まる。

 背筋を伝う汗が、下着を冷たく濡らす。



 これで……本当に終わるのだろうか。

 小田嶋は、もう――。

 それにこの方法で本当にバレないだろうか。送信元やアクセス痕跡で、私だと特定されないだろうか。


 

 ……いや、ここまで来て考えるのはやめだ。

 私は一気に画面をタップした。



 送信の振動が指先で途切れ、心臓が一拍遅れて追いついた。



 これでもう、私は戻れない。










 翌朝。窓を叩き続ける雨音が、教室のざわめきに溶け込んでいた。

 空気は重く湿って、制服の袖口までじっとりと貼りつく。



 そんな中で、私は休み明けの茜と机を寄せ合い、話をしていた。



「もう体調は大丈夫?」



「うん、もう全然。昨日一日寝てたらスッキリした。でもさ、寝てるときにポカリ倒しちゃって、ベッドがベトベトになっちゃったんだよね」



「え、それ最悪じゃん」



「しかも、夢の中で海で溺れていたから『わ、リアル〜!』って思ったら現実だったの」



 私は吹き出した。



「なにそれ、溺れているって、それもう寝汗の次元じゃないし」



「そうそう〜。でもシーツも雨で干せないから、ドライヤーで乾かしたんだよ? 真夜中に」



「はは、体調悪いのに災難だったね」



 二人で肩を揺らして笑った。



――ふと、私は教室を一瞥いちべつする。

 御子柴の席は空っぽのままで、小田嶋の席も、誰も座っていない。



 小田嶋の件……学校の中で問題になったのだろうか。



――あの動画は、もう先生たちの目に届いているはずだ。

 なら、彼は二度と戻れない。そう思いたい。



 けれど、御子柴は?

 どうして今日も来ていないのだろう。体調不良か、サボりか……それとも――何か。



 背筋に冷たい感覚が忍び込んだ、そのとき。



「ねえねえ、凛花〜!」



 茜が私の袖をつついてくる。

 顔を上げると、彼女はもう次の話題を用意していて、いたずらっぽく口角を上げていた。



「そういえば今日さ、二学期の文化祭でクラスで何やるか決めるんだって! ね、何がいいかな〜?」



 ぱっと両手を広げながら、茜は指を折っていく。



「定番は喫茶店でしょ? あとお化け屋敷とか、演劇とか……。あ、占いとかプリクラ風の写真館とかも楽しそうじゃない?」



 その目は期待でキラキラしていて、まるで文化祭そのものを先取りして味わっているみたいだった。



――あぁ、もうそんな季節か。



 胸の奥でため息が小さく弾ける。

 クラスで盛り上がるのはいいけど、正直、あの喧騒は苦手だ。

 人混みで教室が蒸し暑くなって、知らない生徒や外部の人まで押し寄せてくる。

 精神感応者テレパスの私にとってはうるさくて、落ち着けるはずがない。



「うーん……まあ、何でもいいんじゃない?」




 曖昧に笑って答えると、茜はむっと唇を尖らせた。



「なにそれ〜! 凛花もっとノッてよ〜、せっかくの文化祭なんだから!」



「ごめんごめん」



 私は慌てて手を振った。



「じゃあさ、せっかくだし思い出になることしようよ。

 たとえば――お揃いのカチューシャ付けるとか、髪にラメ入れるとか。

 あ、ちょっとだけおそろメイクとかも楽しそうじゃない?」



 言いながら自分でも苦笑する。

 正直、やりたくはないのだが、茜が喜ぶなら、それくらいならまあいいかと思えた。



「わーい、それ絶対やろう! 私、リボンのカチューシャがいい〜!」



 茜が机に身を乗り出して目を輝かせる。

 その無邪気さに、湿気でべたつく空気が少しだけ軽くなった気がした。



 チャイムが鳴り、教室のざわめきがふっと落ち着く。



 ほどなくしてドアが開き、担任の葛西が入ってきた。

 いつもより背中が丸く、どこか疲れを隠せない様子だった。



「出席を取る。……席につけ」



 その声は、いつものように響き渡るはずなのに、今日はどこかかすれて弱々しかった。

 クラス全体が、何かを察したようにざわつきかけて――すぐに静まる。



 私は椅子を引き、腰を下ろすと同時に、意識をそっと葛西へ向けた。

 心の奥に、重たい泥のような思考が渦を巻いている。



(……小田嶋は、とりあえず停学処分。

 まったく、授業中にあんなこと……バカなガキだ。処分の詳細はまだ言えないが……)



 冷えた息が胸の奥で引きる。

 やはり、小田嶋の件は学校に届いていたようだ。



 だが、葛西の思考はそこで終わらなかった。



(……それに御子柴だ。

 先日、ついに家族が警察に捜索願を出した。どう説明すればいい……?

 行方不明、なんて言ったら、クラスは動揺するに決まってる……)



 御子柴――捜索願?



 頭の奥で、ことんと冷たい石が落ちるような衝撃が走った。

 あいつが、御子柴が、行方不明――?



 脳裏でその言葉が何度も反響する。

 捜索願。つまり、事件か、事故か。

 家出にしても、よほどのことがなければ届は出されないはずだ。

 何が起こったのだろう……?



 葛西は出席簿を閉じると、顔を上げた。

 生徒たちに向ける目は、いつも以上に重く沈んでいる。



「……御子柴の件だが」



 一瞬、空気がぴんと張り詰めた。



「ここ数日、家に帰っていないらしい。詳細は……私からはまだ言えないが。もし何か知っている者がいたら、必ず先生に伝えてほしい」



 ざわざわ、と教室のあちこちで声が上がる。



「え、マジ?」

「なんかやばくね?」



 不安と興味が入り混じった声が、じっとりと広がった。



 茜は小声で「えー、やばいね〜……」と呟きながら、ちらりと私の方へ視線を送ってくる。



 私は唇を噛んで俯いた。視線が痛い。けれど何も言えない。



――そのとき、また葛西の心が、私の胸に突き刺さる。



(小田嶋、御子柴……。次々に問題が出て、もう疲れた……。

 でも……白瀬の顔を見てると……不思議と救われるな。

 ああ、今日も……白瀬を見られただけで……俺はまだやっていける……あぁ、あの大きな胸に顔をうずめていやされたい……)



 ぞわりと寒気が、背筋を這い上がる。

 その甘ったるい執着の気配に、吐き気が喉を突き上げた。



――最低だ。心底、軽蔑する。

 責任の一端は私にあるのだからちょっと気の毒だな、なんて一瞬思ったが、今の心の声を聞いたら、そんな同情なんて跡形もなく消えた。



 喉の奥に冷たいものが張り付いたまま、私は葛西から目を逸らした。



 御子柴がいなくなった。

 一番怪しかったのは彼だった。



 じゃあ、これで事件はもう解決なのだろうか?



 残る容疑者は真壁と葛西。

 けれど、今までの言動を思い返しても……あの二人が「猟奇」と呼べるような趣味を隠しているとは、少し考えにくい。

 だが――油断はできない。人の性癖は表の顔だけではわからない。



 あれこれ考えていると、葛西が、ぱん、と手を叩いた。



「……この話題はここまでだ。

 今日はホームルームを延長して、秋の文化祭の出し物と担当を決める」



 その瞬間、教室の空気がぱっと明るく弾けた。

 まるで御子柴のことなんて、誰一人として覚えていないかのように。

 机を叩く音、椅子を引き寄せる音、ざわざわと声が渦を巻いていく。



「やっぱ文化祭といえば、お化け屋敷じゃね?」

「えー、もう定番すぎ〜! メイド喫茶とかやりたい!」

「それなら食べ物系にしようよ!

クレープとか焼きそば!」

「プリクラ風のブース作って撮影会とか面白そうじゃない?」

「インスタ映え狙いでウォールアートやるのは? 背景描いて、みんなで撮影できるやつ!」

「脱出ゲームとかもアリじゃね?」

「いやいや、演劇でしょ、演劇! 舞台でやったら盛り上がるって!」



 あれやこれやと勝手に案が飛び交い、黒板に書き出されていく。

 まるで小さな選挙前の掲示板だ。



 私は深く息を吐いた。



 正直、一番面倒くさくなくて、うるさくないやつがいい。

 みんなで大騒ぎしたり、知らない人を呼び込んでどんちゃんやるのはごめんだ。

 なるべく静かで、短時間で終わるもの。

 私にとっては、それが一番だった。



「――じゃあ、投票で決めるぞ」



 葛西がペンを構え、黒板の前に立った。

 教室のざわめきが、再びざくざくと波立った。



「じゃあ、まずは投票だな。紙にやりたい出し物を書いて回収する」



 葛西が無造作に紙の束を机の間に回した。

 一枚ずつ手にしては、みんなが好き勝手にペンを走らせる。

 隣からは「メイド喫茶って書こうよ〜」なんて声が聞こえるし、後ろからは「脱出ゲーム一択!」と盛り上がる声。



 私はペン先を紙に落とし、少しだけ考えた。

 結局、頭に浮かんだのは「インスタ映え用のウォールアート」。

 壁に絵を描いて、あとは写真を撮るだけ。喧騒も匂いもないし、当日だって静かにやり過ごせそうだ。



 私は、小さく「ウォールアート」と書き、無言で紙を折った。





 数分後、前の机に集まった紙の山が、葛西の手に渡る。

 彼は無表情のまま、一枚一枚を開きながら黒板に正の字を刻んでいった。

 生徒たちは息をひそめたり、わざと声を張り上げたりして結果を待つ。



 やがて最後の一枚をめくり終えた葛西が、チョークを置いて言った。



「――投票の結果、我々1-Cの出し物は、お化け屋敷になった」



 教室が一気にどよめき、歓声とため息が入り混じった。



 最悪だ、と私は思った。



 暗い、うるさい、人が押し寄せる――。

 考えただけで頭が重くなった。

 けれど決まったものは仕方がない。せめて担当だけでも、楽なところに滑り込みたい。



 葛西は再び黒板に向き直り、チョークを握った。

 ギシ、と板書の音が響く。



「いいか、文化祭でお化け屋敷をやるとなると役割分担が必要だ。大きく分けて……大道具、内装・建具の組み立て。小道具、細かい装飾や仕掛け。運営、受付や案内。それから……肝心のお化け役、だな」



 白い文字が黒板いっぱいに並んでいく。



「他にも、看板やチケット係、宣伝用のポスターも要るな……よし」



 葛西はチョークを置き、生徒たちを見回した。



「じゃあ、それぞれ立候補をつのる。やりたい役がある者は手を挙げろ」



 ざわっと教室が揺れる。誰もが周りの様子をうかがいながら、小声で相談し合いはじめた。



 すっと、前の方で誰かの手が上がった。

 振り返ると、真壁が自信満々に胸を張っていた。



「俺、お化け役やりたい!」



 その一声に教室が一気に盛り上がる。

「いいじゃん!」「似合う〜!」と口々に声が飛び、笑いが広がった。



「よし、じゃあお化け役は真壁に決定だな」



 葛西がチョークを走らせると、黒板に〈お化け役:真壁〉と白く刻まれる。

 そして少し間を置いてから、眉間にしわを寄せて続けた。



「……ただ、教室の規模を考えると、もう一人くらいお化け役が必要だな。

 男女一人ずつの方が、バランスもいい。出来れば女子がいいんじゃないか?」



 途端に、視線が一斉に女子の方へ向かう。

 ざわざわと小声が飛び交う中、真壁がにやりと笑って手を挙げ直した。





「じゃあ、女のお化け役は――白瀬が適任だと思う!」





 教室の空気が一瞬止まった。

 まさか自分の名前が出るとは思ってもいなかった。

 胸の奥が冷たく縮んでいく。



――なんで、私?



 一拍の沈黙のあと、ざわり、と笑い混じりの声が広がった。



「確かに似合いそうじゃん」

「髪長いし、色白だしな」

「白装束とかめっちゃハマりそう」

「この間の叫び方もすごかったしな!」



 半ば茶化すような声と、真剣に頷く声が混じって渦を巻く。

 その流れがに変わっていくのが分かった。



「ちょ、ちょっと待ってよ!」



 茜が机を叩いて立ち上がった。



「なんで凛花なの? 他の人だって――」



 しかし返ってくるのは「いいじゃん」「決まり決まり!」といった軽薄な同調だった。

 茜の声は波にかき消されていく。



 そして極めつけに、葛西が腕を組んで、ゆっくりと重い声を落とした。



「……まあ、確かに白瀬は適任だな」



 その一言で、抵抗の余地は完全に断たれた。

 黒板に〈お化け役:白瀬〉と刻まれた文字が、目に焼き付く。



 私は唇を噛みしめながら、ただ椅子に沈み込むしかなかった。



――最悪だ。

 心臓の奥に重たい鉛が沈んでいく。

 どうして、私ばかり……?



 そのとき、不快なざらつきを帯びた真壁の思念が頭の中に滲み込んできた。



(へへ……これで白瀬と二人きりになれるチャンスだな。お化けの役作りで、良い雰囲気になれば……俺と白瀬は……)



 真壁の脳裏に浮かぶ下卑た期待が、ぞっとするほど生々しい。

 続いて、別の濁流。



(白瀬の白装束……絶対似合う。あの色気……たくさん写真に収めて、あとでゆっくり……)



 葛西の声はねっとりと湿り、背筋を這い上がった。



 机の端を握る手に力がこもる。爪が白くなるほど。

 吐き気を押し殺しながら、奥歯をきしませる。



――ふざけるな。

 勝手な欲望で、面倒くさいことを押し付けて。

 絶対に、許さない。

 真壁、葛西。

 こいつらを――地獄に叩き落としてやる。


 

 胸の芯で、冷たい火が静かに灯った。

 窓を叩く雨はまだ鳴り止まず、その音が決意を刻むように響いていた。

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