第15話
放課後のチャイムが鳴り終わると同時に、茜は鞄を肩にかけた。
「今日はバイトだから、先に行くね。またね」
そう言って笑う顔は、いつも通りの優しさに見えた。
私は軽く手を振って見送り、昇降口へ向かう茜の背中が校門の外に消えるまで、窓から目で追った。
――今日は、自由だ。
その小さな解放感と、これから会う先輩のことを思う期待とが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
階段を下り、廊下を歩く。
すれ違う数人のクラスメイトが、私の方をちらりと見ては、口元を寄せ合って何かを囁く。
昼間のような露骨さはないけれど、その視線の温度はまだ少し冷たい。
足音だけが妙に響き、ひとりきりで歩いていることを改めて思い知らされる。
図書室の前に立ち、深呼吸をひとつ。
ドアを押すと、廊下のざわめきがすっと背後に遠のいた。
ふわりと漂う紙の匂いと、乾いた木の香り。
空気の密度が変わる――そんな感覚に包まれる。
視線を奥へ向けると、窓際の席で本を開いている人影があった。
柔らかな午後の光を背に、少し伏せた横顔。
髪の輪郭が光に縁取られ、指先にかかる影がやけにきれいだった。
その姿を見た瞬間、胸の中で何かがひどく静かになった。
さっきまでまとわりついていたざらつきが、紙の上に落ちた埃みたいに、そっと消えていく。
「やあ、凛花さん。待ってたよ」
顔を上げた先輩は、どこか緊張したような面持ちで微笑んだ。
私もなぜか胸が少しきゅっとして、「こんにちは」と短く返す。
言葉を交わしたあと、なぜか二人とも黙り込んでしまった。
机の上のノートの角を、私が指でなぞる音だけがやけに大きく感じられる。
先輩も、視線を本の背表紙へ泳がせたり、ペンを指先でくるくる回したりと、落ち着かない様子だ。
(凛花さん……近くで見ると、やっぱり可愛いな)
不意に流れ込んできた先輩の心の声に、胸がきゅっと縮む。
いつもなら、男の心の声なんて、気持ち悪いだけなのに――先輩のそれは、不思議と胸の奥にあたたかく溶けていく。
視線を落としたままなのに、耳の奥がほんのり熱くなるのを止められなかった。
「あ、あの……今日はね」
先輩は一度、喉を軽く鳴らしてから、たどたどしい口調で続けた。
「凛花さんに、図書室の蔵書で読んでもらいたい本をおすすめしたいなって。
実は今度、図書委員でビブリオバトルをやることになって」
「……ビブリオバトル?」
「うん。本の紹介プレゼン大会みたいなものだよ。参加者がそれぞれ好きな本を持ってきて、決められた時間でその魅力を語るんだ。そのあと、みんなで一番読みたくなった本に投票して、チャンプ本を決めるイベントだよ」
言葉を選ぶような話し方と、時々私の様子をうかがう視線が、妙にくすぐったくて――呼吸が少し浅くなるのを感じた。
「……面白そうなイベントですね」
「うん、だから……」
先輩は少し視線を落とし、言葉を探すように間を置いた。
「是非、凛花さんに……僕の練習に付き合ってもらえたら、嬉しいんだけど……いいかな?」
その声は、お願いというよりも、遠慮がちに
その一生懸命さが、なぜだか胸の奥をやわらかく撫でていく気がして、思わず口元がゆるむ。
「もちろん、私で良ければ」
そう答えると、先輩の表情がふっとほどけ、肩の力が抜けるのが見て取れた。
その変化が、胸の真ん中に小さな火をつけられたみたいだった。
「ありがとう。じゃあ……あそこの席で聞いてもらおうかな」
促されるまま、私たちは並んで図書室の奥の席へ向かう。
窓際の机には、すでに何冊もの本が山のように積まれていた。
背表紙の色や厚みがばらばらで、それぞれの本が静かに存在を主張している。
席に腰を下ろすと、ほんのりと紙の匂いが漂い、外の光が本の角を柔らかく照らしていた。
先輩は一冊を手に取り、軽くページを開いて見せる。
「まずはこれ……
逃走劇のテンポが最高でね、何度読んでもハラハラするんだ」
ひとしきりプレゼンされたあと、次に差し出されたのは、
「泣ける話ってわかってても、ラストでやられるんだよ」
そのあとも、
海外文芸では、オースティンの『高慢と偏見』や、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』、ドストエフスキーの『罪と罰』まで。
ジャンルも時代も飛び越えて、タイトルごとに語る先輩の声が、静かな図書室に心地よく響いていく。
そのたびに胸がふわりと踊った。
物語の世界が次々と開かれていく感覚と、ページをめくるたびにふっと香る紙の匂い。
視線を落とす先輩の横顔は、淡い光に縁どられていて、指先が紙をつまむたびに、細くしなやかな動きが生まれる。
低く穏やかな声は、物語の登場人物よりも、今はその声の主に心を奪われていることを、私に自覚させた。
やがて、机の上の本の山がすべて紹介し終えられた。
気がつけば窓の外は淡い橙色に染まり、図書室の空気がゆっくりと夕暮れ色に沈んでいく。
長く伸びた影が本棚の間を横切り、静寂がより濃くなっていた。
ふと周りを見渡すと、いつの間にか他の生徒の姿はなく、部屋には私と先輩だけが残っていた。
「……どうだったかな、僕のプレゼンは?」
隣の席から、少しだけ照れた笑み。
「とても良かったです。紹介された作品、どれも本当に面白そうで……先輩なら優勝できると思います」
言いながら、自分でも頬が少し緩んでいるのを感じた。
「今日、何冊か借りていこうかなって思っちゃいました。たとえば……『ゴールデンスランバー』とか、『夜は短し歩けよ乙女』とか」
「じゃあ、せっかくだったら是非借りていってよ」
その言葉に軽く頷き、とりあえず『ゴールデンスランバー』を手に取った。
厚みのある文庫の背表紙が、指先に心地よく馴染む。
「さて、残りの本は棚に戻さないと」
「手伝います」
「ありがとう」
そんな短いやり取りさえも、なぜか胸の奥をふっと温める。
本を手にして立ち上がった先輩の背中を追いながら、私はその温かさがどこから来るのか考えていた。
「じゃあ、手分けして棚に戻しましょう」
そう言うと、先輩は小さく笑って「ありがとう」と返した。
硬くも柔らかくもない、ちょうどいい温度の声。
その響きが、棚に本を差し込む指先にまで沁みこんでくる気がする。
――私、この人のこと、少しずつ好きになり始めてる?
そんな馬鹿な、とすぐ打ち消す。
どうせそのうち、他の男と同じように、幻滅させる一面を見せるに決まってる。
そう自分に言い聞かせながらも、心のどこかで、その「いつか」が来ないことを願っていた。
ふと、手元の山から一冊の本を取り上げる。
緑の装丁に、赤の明朝体で刻まれたタイトル――『ノルウェイの森』。
静かな日常と、そこに潜む喪失や恋の痛みを描いた物語。
ページの奥から漂ってくる空気が、なぜか先輩といる今の空気と重なるような気がして、指先にぬくもりが残った。
けれど、背表紙のラベルが薄れていて、どこの棚に戻せばいいのか分からない。
私はその本を持ったまま、先輩の方へ歩み寄った。
「先輩、この本って……どこに戻せばいいですか?」
「ああ、これね。これは文庫本じゃなくて単行本だから、別の場所にあるんだ。こっちだよ」
先輩が柔らかく言い、片手で本の背を支えたまま、背の高い棚の方へ歩き出す。
私もつられるようにその後をついていき、隣の段に空いた隙間を見つけた。
背伸びをして、指先で背表紙の端をつまむ。紙のざらりとした感触が、皮膚の薄い部分に伝わってくる。
「……よいしょ」
差し込もうとした瞬間――先輩の肘が、ほんのかすかに私の手の甲に触れた。
「あ……ごめん」
「いえっ……」
びくりと肩が揺れ、反射的に距離を取ろうとして伸ばした腕が、今度は先輩の胸に当たる。
服越しに感じる、思っていたよりもしっかりした温もり。
「わっ……」
その拍子に、先輩の身体がわずかに後ろへ傾く。
支えようとした私もバランスを崩し、ふたり同時に、ゆっくりと重力に引き寄せられていった。
背中が硬い木目の床に軽くぶつかり、その冷たさが薄い制服越しに伝わってくる。
背後で文庫が一冊、ぱさりとずれる音がした。
「……っ」
気づけば、先輩の顔が至近距離にあった。
呼吸の温かさが頬をかすめ、わずかに乾いた繊維の匂いが混ざった空気が鼻をくすぐる。
夕暮れの光が棚の隙間から差し込み、先輩の横顔の輪郭を淡く縁どっていた。
(凛花さん……綺麗だな)
不意に流れ込んできた心の声に、胸の奥がきゅっと縮む。
この距離は危険――そう思うのに、まぶたも視線も動いてくれない。
互いの吐息が混ざるのが分かるほど、距離は近いのに。
「ご……ごめんっ、大丈夫?」
先輩が小さく笑いながら声をかけてくる。
その笑みは照れと気遣いがないまぜになっていて、ほんの一瞬、胸の奥が波立った。
息が少しだけ浅くなるのを、私はごまかすようにうなずいた。
「は、はい。ごめんなさい……っ」
そう言いながら、私は起き上がろうとして手をつく。
先輩がすぐに片手を差し伸べてきて、その指先に軽く触れると、温もりがじわりと伝わってきた。
立ち上がると、先輩は何気ない動作で私のスカートの裾をそっと確認し、持っていた本も抱え直してくれる。
(怪我はなさそうだ――良かった)
安堵するような先輩の心の声を拾った瞬間、こめかみに小さなきしみが走る。
……本当に、ただ気づかってくれてるだけなんだ。
そこに、下心や濁った欲望の影はひとつもない。
それを感じ取った瞬間、胸の奥が静かに熱を帯びていくのを、私は止められなかった。
本を棚に戻し終えたころには、図書室はすっかり静まり返っていた。
棚の間から差し込む夕暮れの光が、先輩の横顔と、本の背表紙の金箔をちらつかせる。
「はい、これ」
先輩が『ゴールデンスランバー』を手渡してくれる。
受け取ろうと伸ばした指先が、ほんのわずかに彼の指に触れた。
その瞬間、これまでの温かさや安心感、ときめき――全部が一気につながっていく。
それは満たされた安堵ではなく、もっと近づきたいと自然に湧き上がる、静かで確かな欲求へと変わっていった。
――あ、やっぱり私、この人のこと。
「……時間、けっこう経っちゃったね」
先輩が壁の時計に目をやって、少し照れたように笑う。
「また今度も、練習……付き合ってもらっていい?」
「……はい」
気づけば、頷きながら答えていた。自分の声が、思っていたより柔らかい。
立ち上がって本を抱え直したとき、ポケットの中でスマホが小さく震えた。
画面には一行だけ。
♡あかね♡「バイト、マジひまー。凛花、何してるー?」
一瞬だけ親指が止まり、私はそっと画面を閉じてポケットに戻した。
返事は――今じゃない。
「じゃあ、また」
「はい。また」
ちょうどそのとき、壁の時計の針が十二を越え、校内放送の短いチャイムが一度だけ鳴った。
十八時。図書室の静けさが、きれいに一区切りついた。
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