アウトブレイク
モドキ
序章【安否確認】
午前十一時を回ったばかりだった。空は不穏に曇っていたが、雨が降る気配はまだなかった。
タイヤが、乾いた砂利道を軋ませる。静かな郊外。手入れの行き届いた庭。マイクは周囲を見渡した。短く整えられたブロンドの髪と髭。シワ一つない紺色の制服。その顔は穏やかで、誠実さが感じられる。
「いくぞ」
「おう」
デイビッドは短く返した。スキンヘッドにサングラス。捲られた袖。彼はマイクの同僚で警察アカデミーの同期である。性格は陽気で向こう見ず。慎重で穏やかなマイクとは正反対だ。
──祖父母と数日連絡が取れない。電話も通じない。様子を見てきてほしい。
二人が郊外の民家を訪れたきっかけは一本の電話だった。通報者は州外に住む孫娘で、週に一度は電話で話す習慣があるらしい。夫妻から数日経っても電話もメッセージも返ってこないため、不安になって警察に連絡したという。
二人は車から降りると、ゆっくりと家の玄関に向かって歩いた。マイクのホルスターに納まっているのは市警制式採用の9mm拳銃、それに対してデイビッドは50口径の大型拳銃を腰にぶら下げている。これが職場以外で銃に触れない2児の父親と、銃砲店通いのガンスリンガーの違いだ。
ドアベルを押す音が、やけに大きく響いた。返事はない。
「ウィーゼル市警です! ベンソンさん、いたら返事してください!」
マイクはドアを叩きながら声を掛ける。
だが、応答はなかった。
「ベンソンさん!! ウィーゼル市警です!」
荒々しくドアを叩くデイビッド。
「4-B-12。ベンソン宅に到着。声掛けを行うも住民からの反応はなし」
肩に掛けられた無線機に顔を近づけて報告を行うマイク。
ノイズ混じりの応答が玄関先に響く中、デイビッドはドアから離れ、裏へと歩き出す。
家の脇を回りながら、デイビッドは足元に視線を落とした。芝は乾ききっており、靴底で押しつぶされるたびに軽く音を立てた。地面には足跡のような窪みがいくつか残っていたが、どれも日にちが経っており、判別はつかない。
裏手に出ると、そこには小さなウッドデッキと、網戸越しの裏口があった。
ドアは開いている。
扉は数センチの隙間を残して半端に開かれている。中は不気味なほど暗く静かだ。
デイビッドの全身から、皮膚の奥をなぞるような冷たい感覚が走る。気温は高くない。だが、汗が背中に張りつくように流れ出た。
そして、何かが鼻を突いた。
腐敗した空気。
濃密で、生ぬるく、胃の奥を揺さぶるような悪臭。
扉に近づいた瞬間、デイビッドは顔をしかめ、二歩ほど後ずさった。
目に沁みるような刺激臭。まるで肉の腐った汁を煮詰めたような、鼻腔を内側から焼きただすような匂いだ。
デイビッドは無意識に鼻を袖で覆いながら、もう一歩、扉に近づいた。
その臭いは、間違いなかった。
モルグ(死体安置所)で何度も吐き、何度も死体のある現場に立ち会ってきた男の直感が告げていた。これは死臭だと。
彼は無線の送信ボタンを押した。
「マイク、来てくれ。裏庭だ」
無線の応答はなかったが、数秒後、足音が砂利を踏んで近づいてくる。
マイクだった。
「いきなり消えるなよ」
「悪い。だが、これを見てくれ」
デイビッドは裏口を指さした。
開いている扉。マイクは咄嗟に眉をひそめた。
「そうだ。あの臭いさ。分かるか?」
「ああ」マイクは後ずさった後、無線機に顔を向ける。「4-B-12。裏口の扉が開かれていて中から異臭がする。これより侵入します」
『了解』
二人は鼻にメンソールを塗った。
「よし、いくぞ」
マイクが先に一歩踏み出し、デイビッドがその後ろに続く。
ドアを押すと、長年油を差されていない金属のような軋みを上げて、わずかに開いた。
重い空気が、部屋の奥から押し寄せてきた。
そこはキッチンだった。家具は古く、壁紙はところどころ剥がれている。床には食器が散乱しており、牛乳か何かがこぼれて乾いた白い痕が汚れのように広がっていた。腐った果物の皮が、テーブルの上で乾ききり、灰色に変色している。
「うわ……」
デイビッドが低く唸るように声を漏らした。
マイクも無言で頷くしかなかった。異臭はメンソールでも誤魔化しきれない程に濃かった。まるで部屋そのものが死を孕んでいるかのようだ。
キッチンに足を踏み入れてすぐ、二人は死体を発見する。
うつ伏せに倒れた遺体はパーカーを羽織っていて頭がなかった。赤黒い血痕が遺体の周りと壁に塗りたくられている。ベンソン夫人かベンソンか? 損傷が激しく判別できない。
「ひでぇや……」
「指令、ベンソン宅にて遺体を発見。年齢、性別共に不明」
静かなキッチンにマイクと雑音交じりの声が木霊する。
デイビッドは遺体が着ているパーカーを見て眉をしかめた。ウィッチャー・ザ・ロックは若者に人気なロックバンドだ。八十近くの老人には似つかわしくない。履いているスニーカーも若者に有名なブランドだ。
「……ウィッチャー・ザ・ロック?」
マイクもデイビッドと同じ感想を抱いたようだった。
「……老夫婦がこんな──」
「チャラい格好はしないはずだ」
マイクは自分の言葉を代弁したデイビッドに頷いた。
「俺もそう思うよ、マイク。老夫婦が好むバンドとは思えないね」デイビッドは言った。「もし俺の親がファンだったら軽く引くレベルの“ナウい”バンドだ」
「コカイン、セックス……彼女達の歌詞はナンセンスだよ。ジェームスとリサには絶対に聴かせたくないね」
「ああ、リズムはいいがな」デイビッドはため息をついた。「他の部屋も捜索するぞ」
◇
「ウィーゼル市警です! ベンソンさん?」
「いたら返事してしてください! レイヴン市警です!」
二人は声を出しながら家内の捜索を続けた。
一階のリビングは家具が倒れ、絨毯がめくれていたが、遺体はなかった。
一階の捜索を終えた二人はゆっくりと二階へと上がった。段差ごとに嫌なきしみ音が響き、建物全体が静寂の中に溶け込んでいるようだった。
途中でマイクは立ち止まり、階段脇の壁に残された何かに目を留めた。
「……これ、血だな」
指で触れると、乾ききった血痕がかさぶたのように剥がれ落ちた。派手に飛び散った形跡ではなく、すうっとなぞるように指を滑らせたような細長い痕。誰かが這いながら登ったのかもしれない。
「ヤバい空気しかしねぇな……」デイビッドが低く言った。
二階に出た瞬間、息をのむような光景が目に飛び込んできた。
──そこは地獄だった。
廊下に転がる複数の死体。壁には弾痕。床には赤黒い血が池のように広がり、ショットガンの赤い薬莢が散らばっていた。
「……くそ……まじかよ」
思わず口元を手で覆うデイビッド。
遺体は部分的に損壊していた。腹部が裂け、臓器が引きずり出されたような死体。上半身と下半身が切断され、原型をとどめていないもの。そして、どの死体も頭を破壊されている。
二人は廊下の突き当たりにある扉の前で足を止めた。
この扉だけが施錠されている。
マイクは耳を当てた。
気配はない。だが、なにかが違う。異様な静けさ。建物全体が呼吸を止めているようだった。
「……いくぞ」
デイビッドが言うと、マイクが黙って頷いた。重たい息を吐く。
次の瞬間、デイビッドは一歩下がり、ドアを蹴りつけた。重い音とともに、錠がもげるように砕け、扉が内側へ倒れるように開いた。
寝室は薄暗く、遮光カーテンの隙間からわずかに光が差し込んでいた。
そこには──静けさがあった。
ベッドの上。シーツの上に横たわる老婦人。頭部はなく、肩に包帯が巻かれていた。彼女の横には小さな救急キットが転がっており、その中身は中途半端に散乱していた。
そしてベッドの側の椅子に座るようにして死んでいる男。
床に置かれたショットガンと壁に張り付いた肉片。顎から上がない。腕には犬か何かに噛みつかれた跡がある。
ショットガンの側にはしわくちゃな写真が落ちていた。
背の高い初老の男性と穏やかな顔の女性が小さな女の子を挟んで立っている。撮られた時期は不明だが、写っているのはベンソン夫妻と通報者である孫娘で間違いないだろう。
「……これが、ベンソン夫妻か」
マイクの声は低く、空気に溶けた。
「間違いねぇだろうな」
デイビッドが答えた。声の調子は普段の軽さからかけ離れていた。
「一体ここで何が……」
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