第8話

翌日は土曜日だったので、授業は午前中で終わりだった。


真凜先生の婚約者の博幸という男との待ち合わせは午後の六時からだったので、あたしは一度家に帰ってから私服に着替えた。


グレーのパーカーにジーパンというシンプルで色気のない服装にしたのは、あの男にあたしが誘惑しにきたと勘違いさせないためだった。


今日も希望と花帆は心配して

「やっぱりやめようよ」って言ってくれたけど、あたしは真凜先生を裏切ってるあの男がどうしても許せなかった。


あたしはベットの上のイルカの抱き枕をギュッと抱きしめた。


「よし、行ってくるね、真凜先生」




待ち合わせの場所は、プリンセスホテルの十階の一〇七二号室だった。


オーシャンビューで窓から富士山が見える綺麗な客室で、希望が一度泊まってみたかったという気持ちも分からなくはない。


あたしはフロントで希望の名前でチェックインして、エレベーターを使って十階まで上がり、一〇七二号室のチャイムを鳴らした。


「はい」


といって笑顔でドアを開けた博幸という男は、あたしの顔を見るなり、びっくりして呆気に取られていた。


「あれ?君は確か、希望の友達のまりんちゃん?」


「はい、まりんです。希望の代わりにあなたに話があって来ました。入っていいですか?」


彼はきょとんとした表情であたしの顔を見てたけど、やがてフッと笑って


「どうぞ、お嬢さん」


と言って中に入れてくれた。


小娘だと思って馬鹿にしてニヤけている表情が頭にくる。


「で、僕になんの話かな?」


「よくあたしの名前覚えてましたね?」


「そりゃあね、可愛い子の名前は覚えてるよ」


「もう一人の友達の名前も覚えてます?」


「うーん、もう一人は何だったかな?君の方がタイプだったからたまたま覚えていたんだよ」


白々しくニヤニヤしながら言われて、あたしはゾワッと鳥肌が立った。


「嘘ですよね?同じ名前だから覚えていたんでしょ?あなたの婚約者と」


男の顔色が変わった。


「何を言ってるんだ君は。僕が希望と付き合っているのは知ってるだろ?」


「商社マンの俊輔さん二十六歳って言うのは、嘘ですよね?本名は緒方博幸さん二十八歳、立花高校の教師。佐々木真凜先生の婚約者、違いますか?」


あたしはこの男を睨みつけながら一気にしゃべると、しばらく固まってた彼は再びフッと笑った。


「よく調べたね、君は何者?」


「真凜先生の生徒です」


「ああなるほど、じゃあ希望も白浜女学院だったんだ。まあネットだから、全部本当の事は言わないよね。


で、どうして欲しいの?希望と別れて欲しければ君の言う通りにするよ。僕ももうすぐ結婚するからね。元々割り切った関係だったし構わないよ」


割り切った関係?人の友達を浮気相手にしといてこの男・・


「希望は、バカな事したと思っています。やりたい事も沢山あるし、欲しい物も沢山あるし。割り切った関係とは言え、あなたがそれを叶えてくれたから浮かれてたんだと思います。


でもまだ高校生ですよ。あなたは大人で教師でしょ?十七歳の女の子もて遊んで恥ずかしいと思わないんですか?」


彼はハーッとため息をついて、めんどくさそうに腕組みをしながらあたしを睨みつけてきたけど、怯むつもりは全く無かった。


この男の助手席で嬉しそうに微笑んでた真凜先生、婚約した事を恥ずかしそうに話してた真凜先生の顔が浮かんだから。


「それに真凜先生はこの事知りませんよね?あなたに裏切られている事も知らずに、幸せそうに婚約した事を話してくれました。あんな素敵な女性を裏切るなんて・・


あなたは真凜先生に相応しくありません。あなたみたいなクズ、真凜先生に似合わない!」


あたしは今まで感じた事のないくらい激しい怒りをこの男にぶつけていた。


感情が高ぶり過ぎて呼吸も苦しくなって、立っているのがやっとだった。


それでもこの男は余裕な表情で、ついにアハハと声を出して笑い始めた。


「何がおかしいんですか?」


「いやあ、君真凜の事大好きなんだね?真凜も幸せだね。ここまで生徒に慕われるなんて」


全てを見透かしたようにあたしをジィッと見つめてくるこの男の視線に気持ち悪くなり、限界を感じたあたしは


「もういいです。失礼します」


とその場を去ろうとした。


「ちょっと待ちなさい」

あたしは突然男に腕を掴まれて、リュックを奪われた。


「何するんですか、返して」


彼は、あたしのリュックを漁ってスマホを見つけて


「ふーん、やっぱり」


と言ってスマホをポチポチ操作した。


「ちょっとやめて下さいっ」


あたしはスマホを奪い返して見ると、密かにボイスレコーダーに録音してたデータが削除されていた。


「僕をはめようとしたってそうは行かないよ。君がなんと言おうと僕は来年真凜と結婚する。子供の君には分からないかも知れないけどね、僕たちは愛し合っているんだよ。大人の事情に二度と首を突っ込むんじゃないよ」


悔しくて悔しくて涙が溢れそうなのを必死に堪えた。


こんな男だけど、この人は真凜先生が好きになった男なんだ。これが現実・・


その時、突然部屋の電話が鳴った。


「何だよ」


男がプツプツ言いながら受話器を取ると


「えっ!・・はい、分かりました」


と動揺した様子で受話器を叩きつけるように切って、あたしの方を振り向いて睨んできた。


「お前、やってくれたな?」


「何の事ですか?」


「真凜が今から部屋に来る。お前が呼んだんだろ?」


「えっ??」


あたしは訳がわからなくなってしまったけど、しばらくこの部屋で真凜先生を待つ事にした。




数分後、真凜先生が部屋にやってきた。


「永倉さんっ、大丈夫?」


「真凜先生」


「津田さんから学校に連絡あったの。あなたが無茶な事してるから助けて欲しいって」


希望が?


「博幸、これはどういう事なのか説明して」


「まいったな、じゃあ全部話すよ。俺さ、脅されてたんだよ、真凜の生徒に」


え?何を言い出すの?


「希望って子には、インスタでたまたまリプしたらDMで会おうって言われて、婚約者がいるからって断ったんだけど、一度だけでいいからってしつこくてさ、とりあえず一度だけ会えば気が済むと思って会ったら、自撮りでツーショット写真を撮られて、これをネットにあげるって脅してきて金を請求されて」


「嘘っ、希望がそんな事する訳ない」


「君だって希望とグルだろ?俺が希望にお金を渡した事を知って、俺が真凜の婚約者だって事まで調べて一緒に脅してきたじゃないか?今日だって俺からお金を脅し取ろうとホテルに呼び出したよな?」


よくそこまで嘘が並べられるなと思ったけど、この男が早口でまくし立てるからあたしは何も言い返せなかった。


それに真凜先生は、この男の言う事を信じると思う。


真凜先生にとって、あたしはただの一生徒。


この男は愛する婚約者。


どっちを信じるかなんて明白だ。


あたしが観念して黙ってしまってのを見て、更に男は続けた。


「もうさ、こういうパパ活みたいな事は二度としてはいけないよ。君達のやってる事は犯罪だよ。今回は俺も訴える事はやめるけど、今度また同じ事したら・・」


言い終わらないうちに、真凜先生が一歩二歩とこの男に近づいて、右手を思いっきり振り上げた。


パァンと大きな音がして、男は不意を突かれてよろけた。


えっ?殴った?


真凜先生が婚約者を?


あたしはあまりにもびっくりして、大きな口を開けたまましばらく動きが止まっていた。


「私の生徒を侮辱しないで」


「いや、俺はっ」


あたしはその場でどうしていいか分からなくなっていると、真凜先生があたしの腕を強く掴んで


「帰ろう、送っていくから」


と言った。


「待ってくれ真凜」


「悪いけど、今はあなたの顔を見たくない」


あたしは真凜先生に腕を引かれて、そのままホテルの部屋を出た。


一度だけ振り返ってみたら、あの男が下を向いてがっくりと項垂れている姿が目に入った。




その後はホテルの駐車場に行って、あたしは真凜先生に家まで送ってもらった。


何度もこっそり見ていた真凜先生の白のスポーツカーの助手席に乗せてもらえる事は憧れていたシチュエーションだけど、今回は嬉しいと言うよりどんな顔をしていいか分からなくて、何も話せなかった。


真凜先生も運転中ずっと黙っていた。


ただ真凜先生のハンドル捌きがかっこいいなとぼんやりと見つめていたけど。




家に帰ってから、希望と電話で話をした。


正直希望がどこまで真凜先生に話をしたのかよく分かってなかったけど、全部話していた事を聞いて驚いた。


「だってさ、まりんみたいにあたしのダメな所本気で怒って心配してくれる友達って滅多に出会えないじゃん。そんな大事な友達が、あたしのせいで危ない目にあったらどうしようって思ったら、自分の恥隠している場合じゃないなって」


「希望・・」


あたしは、希望の気持ちが嬉しかった。


「でも真凜先生どうするんだろう?あたしの話どこまで信じてくれたんだろう?やっぱり予定通り結婚するのかな?」


「それは、真凜先生が決める事だよ」


あたしは自分に言い聞かせていた。


もうこれ以上この件に関わってはいけない。


真凜先生の幸せは真凜先生が決める事なんだ。




週明けの月曜日。


あたしはどんな顔をして真凜先生に会っていいのか、気まずい気持ちで登校した。


希望も「なんか気まずいよね」と元気がなかった。


でもチャイムが鳴って教室に入ってきた真凜先生は、いつものように明るい笑顔で


「おはようございます」と挨拶をした。


でもなんか目が腫れている。


昨日あの男と会ってたのかな?


どんな話をしたのかな?


あの男の事で泣いたのかなと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


すると学活が終わった後


「永倉さんと津田さんは、お昼休みに職員室に来て下さい」


と言ったので、あたしと希望は顔を見合わせて


「はい」と答えた。




「どうしよう、怒られるかな?やだなぁ」


希望が不安そうにしていたので


「怒られるの覚悟で行くしかないよ。とにかく謝ろう」


と元気づけながら職員室に行った。


職員室に行くと、真凜先生は「ここじゃ何だから」と言って、あたし達は個室のカウンセリングルームに連れて行かれた。


そこには大きなテーブルとパイプ椅子があって、あたしと希望は先生と向かい合う形で座った。


「昨日博幸と会って問い詰めたんだけどね、全部話してくれたよ」


「えっ、全部って?」


「津田さんの言ってた事、全部本当だった。最初からおかしいと思ってたんだよね。あの人嘘つく時やたら早口になるし、用心深い性格だから、もし永倉さんが博幸からお金奪おうとしてたとしても、ホテルの部屋で二人きりなんて自分に不利になる事しないと思う」


確かに、偽名を使って浮気するのだから、用心深い人なんだろう。


すると真凜先生は吹っ切れたように柔らかい表情で微笑んで静かに口を開いた。


「あの人と別れた」


えっ!まさかの婚約破棄?


でもあたし以上に希望が混乱して「ちょっと待って、嘘でしょ」とパニックになっていた。


「それ、あたしのせいですよね?そうですよね、先生あたしの顔毎日見るなんて拷問ですよね?ごめんなさい、あたしこんなつもりじゃなくて」


希望がとうとう泣き出してしまっていたので、あたしもいたたまれない気持ちになってしまった。


「いえ、希望は何も知らなかったし、元々近いうちに別れるつもりでいたんです。あたしが余計な事しなければ、先生は何も知らずにあの人と結婚してたのに」


「そうだね。何も知らずに結婚してたよね。でもそうだとしてもあの人、きっと結婚後に同じような事をして、私達ダメになっていたと思う。だから結婚前にあの人の本性が分かって良かったんだよ。私の男を見る目がなかったって事で、あなた達のせいじゃない」


確かにそうかも知れないけど、何だか複雑な気分だ。


「津田さんは、この事私に知られたくなかったと思うけど、永倉さんを助けるために言い辛い事をよく打ち明けてくれたね。あなたは友達思いの優しい子だから、今度誰かとお付き合いする時は、自分の事を一番大切にしてくれる男性を選ばないと駄目。


永倉さんは、友達が担任の婚約者の浮気相手にされている事に腹を立てる気持ちは分かるけど、一人で危ない橋を渡るのはもうやめて、今度こう言う事があったら必ず大人の誰かに相談しなさい。


二人とも私の大切な生徒なんだから、傷ついて欲しくないんだ」


真凜先生の優しい言葉に、あたしも希望も何度も頭を下げて「ごめんなさい」と謝った。


「はい、もうこの話はおしまい。私、博幸より良い男見つけるからね」


と最後は爽やかに笑っていた。




学校が終わって帰宅すると、あたしは制服のままベッドに倒れ込んだ。


ここ数日色んな事があって、頭の中がごちゃごちゃだったけど、改めて考えると真凜先生は婚約破棄したから誰のものでもなくなったって事なんだ。


あたしはふとあの男の顔を思い出した。真凜先生に平手打ちされた事、「顔も見たくない」と言われてがっくりと項垂れていた姿を思い返すと、ブハッと笑いが込み上げてきた。


「超うける」と呟いて思い出し笑いしているあたしは、結構性格悪いんだろうな。


でももし真凜先生の婚約者が、あんな浮気男じゃなくて、優しくて真面目で真凜先生を一途に愛してくれる男性だったとしたら、あたしは先生の婚約を喜んでいたのだろうか?


答えはNO、真凜先生を誰にも盗られたくない。


だって先生はあたしの『特別』だから。


あたしはベッドに転がっているイルカの抱き枕をギュッと抱きしめて、口元に軽くキスをした。


「真凜先生、大好き」


イルカのつぶらな瞳を見ていると、真凜先生に見つめられているような錯覚してドキドキしてきた。


あたしは照れ隠しにもう一度イルカを強く抱きしめていたら、そのまま少しウトウトしてしまった。

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まりんと真凜 櫻井ナオ @blossom-nao

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