おもちゃ

志に異議アリ

第1話 プロローグ




「それで、最近は……眠れていないと?」




 芦田千早は、やわらかく微笑んだ。

 その声はぬるま湯のように静かで、冷たくも熱くもない。


 彼女の視線は、こちらをじっと見つめている。

 だが、そこには評価も感情もなかった。まるで鏡のように、ただ“映しているだけ”。


 男の喉が、ごくんと鳴る。うまく唾を飲み込めなかったようだ。

 彼は、しぼんだような声で返した。


> 「……はい。あの、夜が……夜が怖くて。」




 言葉の端が震えていた。声を落ち着けようと、何度か咳払いするが、上ずった調子は治らない。

 指先がソファの縁をつまみ、無意識にほつれた糸をいじっている。


> 「なんというか……布団に入ると、昔のことが全部、頭の中で動き出すんです。あのとき言えばよかった、とか、あんなふうにしなければとか……」




 芦田は静かにうなずいた。


 その動きは、まるで水面の揺れのように自然で、波立ちがない。

 彼女が何かを判断している気配は一切ない。ただ、淡々と“聞いている”。


> 「……だから、起きてるんです。夜が明けるまでずっと。眠ったら……明日がくるでしょ。」




 最後のひとことを口にした瞬間、男の喉が詰まった。

 思わず顔をそむけ、ぎゅっと目をつむる。


 涙が、もうすぐこぼれそうだった。


「眠れないのは、あなたが“終わり”を望んでいないからです。」


> 「えっ……?」




 言葉の意味が掴めなかったのか、男は顔を戻して彼女を見た。

 その視線は怯えに満ちていた。まるで、今にも逃げ出したい動物のように。


「人は、本当に“終わり”を望んだときにしか眠れません。……お薬で無理やり眠るのも、ひとつの“終わらせ方”ですけれど。」


 彼女の声は一切変わらない。

 まるで“機械の子守唄”。でもそこには、確かな安心感があった。


> 「……もう、がんばれないんです。」




 それは、男の“降伏”だった。

 しぼむようなその声に、彼女はわずかに目を細めて、微笑んだ。

 まるで、祈りが通じたときのように。


「じゃあ、“それ”にしておきましょうか。」


> 「“それ”……?」




「……あなたの“希望”です。」


 机の引き出しから、芦田は無地の白い封筒を取り出す。

 静かにペンを走らせ、一枚の紙を滑らせて中へ入れた。


 パタン、と封が閉じられたその瞬間、

 何かが、もう二度と戻ってこない音がした。



---


数日後。

都内、JRの高架下にて、一人の男性が飛び降り自殺を遂げた。

遺体のポケットには、血の滲んだ白い封筒が入っていた。


封筒の中には、たったひとこと。


> 「明日がこないように願ってるの、あなたじゃないの?」





---




これが芦田千早の**最初の“処方”**だった。








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