地下鉄編・5・外側

 陽介は、美琴と翠蓮が消えた改札近辺に駆け寄った。プロトデバイスを取り出し、表示される数値を凝視する。しかし、画面には先ほど確かに見た、空間が歪み、二人が吸い込まれていくあの悍ましい光景とは裏腹に、大きな想子力場の変動は察知できない。プロトデバイスはまるで何もなかったかのように静かな数値を指し示していた。

「くそっ、何も反応がない……!」


 焦燥感が陽介を駆り立てる。

(FUMがあれば……!)


 彼のプロトデバイスは、カメラが撮影できる範囲内でしか想子波の歪みを電磁波として検知できない。だが、FUM(Field Unity Meter)に搭載された観測珠は、原理不明ながら呪術的な技術が用いられ、より広範囲かつ深部の想子波まで検知できる。もし今、ここにそれがあれば、地下のどこに異変が起きているのか、何が潜んでいるのか、もっと正確に把握できたはずなのだ。


 このもどかしさが、陽介を苛む。


 その時、隣にいた夜織が静かに口を開いた。

「ぬしさま。さっき、あちきは翠蓮に妖糸を繋ぎんしたゆえ、気づいてくれれば連絡できるかもしれんせん、やってみんす。」


 夜織の言葉に、陽介はハッと顔を上げた。

「糸? じゃあ、糸の向こうに翠蓮ちゃんはいるってことか?」


 夜織はこくりと頷く。その言葉に、わずかな希望の光が陽介の胸に灯った。


 その時、琴音が突然、顔をしかめてあたりを見回した。

「いくつか、小さな地縛霊がいる……」


 琴音の視線の先には、他の客には見えない、半透明の影がいくつかうろついている。そのうちの一体、小学生にもならないほどに見える、小さな男の子の霊が、怯えたように琴音を見上げ、震える声で語りかけてきた。

「……怖いんだ……。深いところにいる、怖い奴らに、僕らもきっと、吸われていくんだ……。」


 その言葉は、まるで地下の底から響く不気味な警告のようだった。琴音の背筋を冷たいものが這い上がる。美琴と翠蓮が引き込まれた場所の奥底には、彼らが想像する以上の、恐ろしい何かが潜んでいることを示唆していた。


 琴音は少年の霊に、そっと手を差し伸べた。

「ねえ、ここ、もう安全じゃないよ。もっと安全なところに行かない? 比丘尼様なら、優しく迎えてくださるから。」


 少年は、怯えた目をしながらも首を横に振る。

「やだ……ここで、お父さんとお母さんをずっと待つんだ。ここを動いたら、会えなくなるんだもん……。」


 琴音は、少年の瞳に宿る深い悲しみと、場所への強い執着を悟った。


(そうだ、地縛霊……。彼らは、この場所から離れられない、強い『想い』に縛られているんだ……)


 そして、その純粋な想いが、この怪異の根源にある、負の感情を形成する一部になっているのかもしれないと、琴音は胸に重くのしかかる感情を覚えた。


 夜織が、静かに陽介と琴音に向き直った。

「ぬしさま、琴音。翠蓮から返答がありんした。あちきは糸を通じて、意思の疎通ができんすえ。」


 夜織の言葉に、二人の顔に安堵と緊張が入り混じる。半妖同士の、常人には知りえない特殊な繋がり。

「翠蓮ちゃん、いまどこにいるって?」


 琴音が前のめりになる。夜織はわずかに目を閉じ、翠蓮の声に耳を傾けるように集中した。

「新横浜の地下にいるように見えるけれど、実際はそうではありんせん場所、と申しておりんす。そして、どうしても地上には上がれねえ、と……出口を探していると。」


 その報告に、陽介の表情が曇った。「新横浜の地下にいるように見えるけど、そうではない場所」という翠蓮の言葉は、まさに彼らが恐れていた「異次元化」の可能性を強く示唆していた。そして、地上に出られないという事実は、美琴も同様に閉じ込められていることを意味する。


 夜織の妖糸が、彼らを繋ぐ唯一の命綱となっていた。


 琴音が、夜織に切羽詰まった声で頼んだ。

「夜織さん、翠蓮ちゃん以外の人はどうなったか、聞いてください!」


 夜織は再び目を閉じ、妖糸を通じて翠蓮と交信を試みる。数秒後、彼女は静かに目を開き、重い口調で報告した。

「改札から地下に逃げた人々のうち、何人かは『イチダース』に引き込まれたと。イチダースは、手がたくさんある妖怪で、地下街のあちこちに潜んでいるようでありんす。」


 陽介と琴音の顔に、絶望の色が広がった。あの異様な光景が、地下のあちこちで繰り返されているのだ。

「翠蓮は今、幾人かの無事な人々を守りつつ、一緒に脱出を図っていると申しておりんす。」


 夜織の言葉に、わずかな希望が灯る。翠蓮が生き残り、さらに他の人々を守ろうとしている。その事実に、陽介と琴音は、自分たちも一刻も早く行動を起こさなければならないと強く決意した。

「朽木さんに対策を相談しよう。電話、お願いできるかな、琴音さん。」


 陽介は琴音にそう頼むと、次の瞬間、まるで何かを思いついたかのように、ポケットからSUICAを取り出した。異空間の入り口が、特定の電磁波パターンと関連しているなら、その発生源をより近くで、直接観測する必要がある。

「陽介くん、まさか!」


 琴音が声を上げる間もなく、陽介は躊躇なく改札にSUICAをかざし、そのまま地下鉄構内へと足を踏み入れた。


 琴音の心配をよそに、陽介は何の異変もなく、するりとホームにたどり着いた。周囲の乗客も、普段と変わらない様子で行き交っている。しかし、陽介の目は、その「普段通り」の光景の奥に潜む異常を捉えようとしていた。


 陽介はプロトデバイスを起動させ、地下鉄の上り線の暗闇にそのレンズを翳した。画面には、肉眼では見えないはずの電磁波の脈動が、まるで生き物の鼓動のように微かに蠢いているのが見えた。


(やはり、ここに…)


 同じように、下り線にもデバイスを向けて撮影と測定を行う。そこにも、同様の脈動が確認できた。


 一通りの観測を終えた陽介が、何事もなかったかのように改札へと戻ってくると、琴音が大声で叱りつけた。

「バカ! 陽介くんまで取り込まれたらどうすんの!」


 琴音の怒声が構内に響き渡るが、陽介は冷静な表情でプロトデバイスのデータを見つめていた。彼の頭の中では、地下に潜む怪異の正体と、その影響範囲の地図が、少しずつ形を成し始めていた。

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