水の戯れ

 晴れ渡った小机城址に、夜織よおりの快活な声が響き渡る。


「3分、1ラウンド。ファイト!」


 夜織がその能力で編み出した、縄でできた簡易的なリングの中央で、琴音と翠蓮すいれんが向かい合っていた。琴音は、腹筋が引き締まったへそ出しのボクシングスタイルに、肘と膝にはしっかりと防具を装着している。対する翠蓮は、動きやすさを重視した黒いカンフースーツに身を包んでいた。傍らで、陽介が二人のスパーリングを固唾をのんで見守っている。プロトデバイスを起動させ、翠蓮の妖気の状態を常にチェックしていた。


 ゴングの音と共に、スパーリングが始まった。


 琴音が先制攻撃を仕掛ける。しなやかな体幹から放たれるハイキックが、風を切り裂き鞭のように翠蓮の頭部へと向かう。

(ここだ、この一撃で先手を取る!)

 琴音の脳裏には、陽介の真剣なまなざしがちらつく。

 しかし、翠蓮の瞳はすでに、かつての人間らしい柔和な光ではなく、鋭い猫のそれになっていた。

 予測不能な動きで、翠蓮は琴音のキックを紙一重でかわす。


 次の瞬間、翠蓮は琴音の懐へと瞬時に潜り込んだ。まるで空間を圧縮したかのような、截拳道ジークンドーのワンインチパンチを放つ。空気そのものがミシリと軋む

 琴音は咄嗟にバックステップで距離を取り、寸前でパンチをかわした。そして、前に出てきた翠蓮の顔面に、流れるような動作でサマーソルトキックを繰り出す。

 そのキックに合わせて、翠蓮は空へと高く飛び上がった。まるで重力から解放されたかのように軽々と、華麗なバク宙で琴音の攻撃を回避する。

「ふふ、琴音はまだまだね。陽介君、見ててくれた?」

 翠蓮は陽介に蠱惑的な笑みを投げかける。

 琴音は、翠蓮の着地点を瞬時に予測し、迷うことなく薙ぎ蹴りを放った。


 翠蓮は、着地と同時に足を払われ、体勢を崩して転びそうになる。だが、その体が地面に叩きつけられる寸前、彼女は猫のようにしなやかに四つ足で着地し、再び琴音と向き合った。


 そこからは、目にも止まらぬ攻防が続いた。琴音の重いフックやストレートに対し、翠蓮は中国拳法の細かな連打と、金華猫特有の俊敏なステップで応戦する。互いの拳が空を切り、時には皮膚を掠め、緊迫した空気がリングを包み込む。


 夜織の瞳だけが、その攻防の全てを克明に捉えていた。

(陽介殿は、どちらの強さにご興味がおありなのでありんしょうかねぇ……)


 そして、双方の足が高く宙に舞い、ハイキックの姿勢で動きが止まった、その瞬間。


 ゴングが鳴り響き、スパーリングの終了を告げた。


 スパーリングが終わり、荒い息を整える琴音と翠蓮。二人の視線が、リングサイドの陽介に注がれた。


「陽介くん、どうだった?」

「どうだったのかなぁ?」


 琴音と翠蓮の声が、まるで合唱のように同時に響いた。翠蓮の言葉遣いには、わずかに妖艶な響きが混じっている。


 陽介は、興奮冷めやらぬといった表情で答えた。その額にはびっしょりと汗が滲み、呼吸も荒い。まるで自分が戦っていたかのように全身に熱がこもっていた。

「いやもうなんか二人とも凄すぎて、俺じゃ目で追えないっす!」


 続けて、琴音が夜織に尋ねる。

「夜織さんのジャッジは?」


 夜織は顎に手を当て、少し考えるようにして答えた。

「そうでありんすねぇ……琴音さんの勝ちかねぇ。」

「えー、どうしてー! アーシの方が当ててるでしょう」


 翠蓮は不満そうに、唇を尖らせた。その様子は、どこか普通の少女のようだが、その瞳の奥には、獲物を見定めるような冷静さと、隠しきれない本能的な狡猾さが宿っているのが陽介には見て取れた。


 夜織は、お茶目に人差し指を立てて、その理由を告げる。

「理由を言うでありんす。試合中に陽介さんに目線を送ってたのが、琴音さんが二回、翠蓮さんが三回。勝負は互角でありんすが、減点で翠蓮さんの負け、ということなのでありんす。」


(なんだその超ローカルルール……!)


 陽介は、心の中でツッコミを入れた。琴音は、得意げな顔で翠蓮を見ている。翠蓮は、目を丸くして立ち尽くしていた。夜織の独特なジャッジに、場には一瞬の沈黙が訪れた。


「えー、じゃあもういっかい!今度はリングじゃなくて、森のフィールドでやろう?」


 翠蓮がそう提案すると、その瞳は挑戦的な光を宿していた。小机城址の東に広がる森。木々が生い茂り、複雑な地形が入り組む場所での戦いは、確実に野生の感覚が研ぎ澄まされた翠蓮に有利に働くはずだ。


「え、ほんとうに!?頼める!?それ、潜んでる相手に対するものすごい感覚訓練になりそう!」


 琴音は目を輝かせ、大真面目にその提案に乗ってきた。ムエタイという直線的な格闘スタイルを持つ彼女にとって、不規則なフィールドでの戦いは新たな学びとなるだろう。


「じゃあこれは15分間くらいでいいでありんしょうかね。東の森のエリアから抜けたら失格ということでありんす。」


 夜織は、二人の様子を面白そうに見ながら、楽しげにルールを設定した。その顔には、新たな試みに胸を躍らせるような表情が浮かんでいる。


「よし、じゃあ俺はプロトデバイスで二人の位置をチェックしながら、エリアチェックするよ!」


 陽介もまた、未知の戦いの場に胸を膨らませ、意気揚々とプロトデバイスを起動させた。FUMの応用で、二人の想子力場を追跡するシステムを組んでいるのだろう。

 夜織と翠蓮は、互いに半妖という共通点を持つためか、初対面にもかかわらず、まるで昔からの知り合いであるかのように気兼ねなく会話を交わしていた。言葉の端々に、互いの存在を認め合うようなシンパシーが感じられる。


 陽介は、そんな二人の様子を横目に、新たな戦いの予感に胸を高鳴らせていた。森の中での異種格闘技戦は、一体どのような展開を見せるのだろうか。


 森林フィールドでのスパーリングは、琴音と翠蓮双方にとって大きな収穫があったようだ。二人は四度にわたって森の中での戦いを繰り広げ、結果は翠蓮の三勝、琴音の一勝という結果に終わった。


 琴音は少し悔しそうにしながらも、どこか清々しい表情で翠蓮の能力を素直に称賛した。

「翠蓮ちゃん、ものすごく気配殺すのうまいの。慎重に慎重に探りながらいくと、速攻でやられちゃってさ。」

「でも琴音の最後の一撃はまいったー。読まれててカウンターで五メートルも飛ばされたわ。まさか、あの瞬間に動きを読み切るとはね、さすが琴音だわ」


 翠蓮もまた、琴音の一撃の重さに舌を巻いたように言った。互いの実力を認め合うように、二人の間には以前とは異なる、奇妙な連帯感が生まれていた。それは、武の道を極めんとする者同士にしか分からない、特別な絆の萌芽だった。


 スパーリングを終えると、夜織が密に編んだ大きな布を、森の少し深い窪地に広げた。

 その上に、琴音が用意していた一枚の符を置く。符には、易の「䷭」の卦が刻まれている。陽介は符を使うならと、プロトデバイスを起動させ観測を開始する。

「…水風井すいふうせい

 琴音が唱えると、符から清らかな水がとめどなく現出し、窪地へとみるみるうちに溜まっていく。


「井戸の卦、だいたい一斗、18Lくらいかな。」

 琴音の言葉に、陽介は感心したように呟いた。

「これ、水の分子を空間から直接生成してるのか……?それともどこかの水脈から引っ張ってきてるのか……。どっちにしても、質量保存の法則を無視してるとしか思えない……! そんなのあるんだ。」


 陽介は測定結果をもとに、早速プロトデバイスにスクリプトを組み込み、この符の力を連続で発動できる機能を試みる。

 甚大な想子力を有する夜織が、プロトデバイスを通して…水風井すいふうせいの卦術を行使すると、瞬く間に窪地は水で満たされ、小さなプールのようになった。


「よし、じゃあみんなでひとっ風呂浴びるでありんす!」


 夜織がそう言うと、三人は水着に着替えるため、夜織の能力で出現させた不思議な巣の中へと入っていった。


 巣の中で着替えを始めた翠蓮が、いたずらっぽく陽介に声をかける。

「陽介くーん、見ていいよー。別に琴音ちゃんに言いつけてもいいからね?」


 その言葉に、夜織が応じる。

「あちきは、ぬしさまならば裸でも気にしねえのでありんすけどね。むしろ見て欲しいくらいでありんす」


 夜織の奔放な感覚に、陽介は困惑しつつも、顔が熱くなるのを感じていた。

 心の中では(いやいや、これは眼福どころの騒ぎじゃない、サービス過剰だ……!でも、見たい……!)と、正直な感情がせめぎ合っていた。


「陽介くんのえっちー!」


 着替えを終えた琴音が、咎めるように陽介に声を上げた。その声には非難の色が含まれつつも、どこか焦りが滲んでいるようにも聞こえた。


 三人がそれぞれの水着姿で水に入ると、たちまち水飛沫が上がり、楽しげな声が響き渡った。


 翠蓮は、タンクトップ型のビキニに、青い花柄のフリルのスカートがついた可愛らしいデザイン。先刻のカンフースーツとは全く異なる、柔らかな雰囲気を纏っている。

 夜織さんは、漆黒のワンピース水着を身につけていた。例によって自身で編み上げたものらしいが、そのデザインは驚くほどハイレグで、陽介は(どこでハイレグなんて覚えたんだ!?)と心の中でツッコミを入れた。

 琴音は、健康的なオレンジ色のビキニ姿。

 陽介は(こんな水着持ってたんだー!いや、待て、鍛え抜かれた腹筋、そしてスラリと伸びる脚……健康美ってやつか!)と意外に思いながらも、この三者三様の水着姿を拝めるのは自分だけだと、内心でひそかに喜んでいた。


(陽介くん、私の水着姿、ちゃんと見てくれてるかしら?)

 翠蓮が水の中から、妖艶な笑みを浮かべて陽介を呼ぶ。

「陽介くんも、おいでよー!」

 陽介は、水着を持ってきていないことに気づき、がっくりと肩を落とした。


「ぬしさまの水着もここに用意しんしょうか。」


 そう言って、夜織が糸を紡ぐように、あっという間にトランクスタイプの水着を編み上げてくれた。陽介は(マジ夜織、神!)と心の中で叫び、感謝の念を抱いた。


 出来上がった水着に着替え、陽介も水の中へと入った。冷たい水が肌を包み込み、それまでの熱気がすっと引いていく。

 たちまち水飛沫が上がり、四人で水のかけあいっこが始まった。琴音が力強いフォームで水を飛ばせば、翠蓮は猫のように器用に身をかわし、夜織は透明な水の玉を操るように応戦する。

 陽介はただただ歓声を上げながら、その中心で水を浴び続けた。

 ひとしきり遊び疲れると、水辺に寝そべってまったりとくつろいだ。草の匂いと、冷たい水の感触が心地よい。空には白い雲がゆっくりと流れていき、時間が止まったかのように感じられた。

(生きててよかったー……いや、本当に。こんなにも可愛くて、強くて、不思議な女の子たちに囲まれて、こんな体験ができるなんて。これが俺の日常になっていくのか……?)


  陽介の顔は、抑えきれない喜びでデレデレになっていた。この一時の安らぎが、明日からの戦いへの活力を与えてくれるかのように思えた。非日常へと足を踏み入れたからこそ得られた、かけがえのない宝物のような時間だった。


          ・


 足だけを水に沈めて、空を見ながら寝そべってると、翠蓮が右隣にやってきて、ころんと横になった。こちらに顔を向けて震えた声でおねだりする。

「……ねえ、恋人つなぎして」

 翠蓮は、陽介の右手に、左手の指を一本一本絡めて目を閉じる。その指先から伝わる温もりが、冷え切っていた心の奥底にじんわりと染み渡るようだった。

「あーっつ、翠蓮ちゃん、やりすぎ……え?」

 咎めようとした琴音は、翠蓮の睫毛が濡れているのに気づく。翠蓮は目を固く閉じたまま、涙をこぼしていた。

「今日、すごく楽しいんだ。ついこないだまで、生きてるのが嫌だって思ってたのに……もう二度と、誰かを傷つけずに生きられないんじゃないかって、心細かったのに……こんな気持ちになれるなんて思ってなかったの。夢じゃないんだって。」

 翠蓮の言葉に、琴音の表情が柔和になる。翠蓮は続けて、琴音に手を差し出した。

「琴音も、手、ちょうだい。」

 翠蓮にお願いされて、琴音は陽介の左側に横になり、陽介の腹の上で翠蓮の右手と自分の左手の指を絡める。

「琴音も、ありがとうね、琴音があいつを、追い出してくれたんだもんね。」

 翠蓮は陽介と目を合わせた。陽介は、空いている左手を、少し照れながら琴音に差し伸べた。

 琴音もすこし照れながら陽介と指を絡めた。琴音の指が触れた瞬間、温かい電気が走ったような気がした。

「ふたりとも、ありがとう。」

 翠蓮が震えた声で、感謝を囁くように言った。

 琴音も微笑みながら目を閉じた。

 陽介は、二人の手の温かさに包まれながら、胸の奥からこみ上げてくる、くすぐったいような、それでいてじんわりと温かい感情に浸っていた。この瞬間が、永遠に続けばいいと、心の底から願った。


 気配を感じ陽介が上を見ると、夜織も歩み寄り微笑みながら見下ろす

「妬けんすよ。両手に花でありんすね」

 夜織が陽介の頭を覗き込むようにしゃがみ込み、顔を近づけた。

「ぬしさまは、わかっていないかもしれねえけど、みんなに幸せをくばっているんでありんすよ。」

 夜織のひんやりとした指が、陽介の頬をそっとつつんだ。

「もちろん、あちきにも。……あちきが永い時の中で忘れかけていた、人間らしい温かな感情こころを、ぬしさまは思い出させてくれるでありんす」



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