伊勢崎町編・5・修復

 琴音と陽介は、即座に伊勢佐木町に向かった。今度は、翠蓮を探すためではない。金華猫チンホヮーマオとなった翠蓮を誘き出し、止めるためだ。

「陽介、大丈夫? 危ないよ。」


 琴音は、心配そうに陽介を見上げた。陽介は、昨夜の翠蓮の誘惑を思い出し、まだ少し顔が引きつっていたが、決意の表情で頷いた。

「大丈夫だ。あいつの手口は体験済みだし、プロトデバイスで妖気は感知できる。それに、琴音もいるしな。」


 陽介は、翠蓮が好んで獲物を誘惑するような、少し裏寂れた、しかし人通りが皆無ではない路地を選んで歩き始めた。目的は、金華猫となった翠蓮の注意を引くこと。


 数時間、伊勢佐木町内を回ったが、翠蓮の姿はどこにもなく、途方に暮れる。


 夜の闇が深まり、満月が空に妖しく静かに輝き始める。陽介のプロトデバイスが、微弱ながらも明確な妖気を捉えた。

「……そうか、金華猫は、月の精を吸う……!」


 翠蓮が、陽介の前に姿を現した。昨日と同じ、妖艶な笑みを浮かべ、ゆっくりと陽介に近づいてくる。

「……今日もきたんだ。素直になって、ふたりで時をすごしたくなったのかしら?」


 翠蓮の甘い声が、陽介の耳元で囁かれる。魔性の誘いに理性が揺らぎそうになるのを必死に堪える。


 その時、空を流れていたはぐれ雲が、煌々と輝く満月をふと覆い隠した。


 刹那、金華猫チンホヮーマオの妖しき気配が、すうっと薄れていく。それに代わるように、翠蓮自身の意識が、表層へと浮かび上がった。先ほどまでの冷酷な光は消え失せ、彼女の瞳には、言いようのない悲しみが宿っている。


「……琴音の、カレシ?……だよね?」


 翠蓮の声は、まるで遠い記憶を探るように、か細く響いた。


(彼氏……!?)

 陽介は驚き、咄嗟に否定しようとする。

「いや、俺はまだ琴音の彼氏じゃ、その……」


 翠蓮は、自嘲するように微笑んだ。

「そっか……。琴音は、そういうのも、ちゃんとGETできるんだね。アーシは……こんなことになっちゃって。琴音には、こんなとこでも勝てないんだ……。」


 彼女の顔に、諦めと絶望の色が浮かんだ。

「もう、ムリだよ……。人の命吸わないと、生きていけないなんて。元の場所には、戻れない。生きていたくないよ……。」


 その言葉に、陽介は慌てて言葉を返した。

「そんなことない! まだ、まだ大丈夫だよ! お父さんがすごく心配してたぞ! あんたは、翠林苑の、あのおっちゃんの娘だろ! みんな、あんたが帰ってくるのを待ってる! きっと、元の場所に戻れる! 俺たちが、なんとかするから!」


 陽介の必死な言葉に、翠蓮の瞳に、かすかな光が宿った。

「……優しいね、陽介君……琴音、うらやましいな。」


 翠蓮は、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、琴音から転送してもらった写真にあった、かつての純粋な少女のそれだった。


 刹那、夜空を覆っていたはぐれ雲が、意志を持つかのようにすうっと流れ去った。黒いベールが剥がれるように、満月が煌々と、その妖しい光を地上へと投げかける。


 陽介のプロトデバイスが、警鐘のように赤い光を激しく明滅させる。それに呼応するように、翠蓮の瞳が、再び縦長の禍々しい輝きを放ち始めた。 表情が険しく変わり、その声は低く沈む。


「…………ああ、ダメ。やっぱ、お腹、空いちゃった……」


 金華猫の、食欲旺盛な意識が、再び翠蓮の身体を支配したのだ。翠蓮の妖気が一気に膨れ上がり、周囲の空気が重く澱む。


 その変化に、物陰に隠れていた琴音が、一気に飛び出した。


「翠蓮! もう逃がさない!」


 琴音の登場に、翠蓮の表情が再び凍り付く。


「……しつけーよ、琴音。」


 翠蓮は、周囲を見回した。伊勢佐木町の裏路地とはいえ、まだ人目につく可能性はある。金華猫は、獲物を密室で確実に仕留めることを好む。


「ここじゃ、また邪魔入るじゃん。……場所変えよっか。琴音。」


 翠蓮は、そう言い放つと、一気に走り出した。向かう先は、横浜港方面。人影もまばらな、広大な倉庫街だ。


「待って! 翠蓮!」


 琴音は、陽介と共に翠蓮を追った。バイクで倉庫街へと急ぐ。


 やがて、二人が辿り着いたのは、薄暗い港の倉庫の一角だった。錆びついたシャッターが並び、潮の匂いが漂う。そこには、すでに翠蓮が待ち構えていた。


「ここなら、誰にも邪魔されないじゃん。……さあ、始めよっか、琴音。アーシを連れて帰れるもんなら、ね。」


 翠蓮の瞳は、完全に獣のそれになっていた。その口元には、鋭い牙が覗く。


「翠蓮……!」


 琴音は、悲しみを押し殺し、迎撃の構えを取った。陽介も、プロトデバイスを構え、いつでも琴音をサポートできるよう準備を整える。


          ・


 陽介のプロトデバイスから観測できる、翠蓮の想子力場は人間の放つレベルではなくなっていた。

 翠蓮自身の意志こころも徐々に薄れ、妖怪・金華猫チンホヮーマオの野生に覆われつつあった。


 倉庫内で二人が激突する。金華猫は、小柄な体格からは信じられないほどの俊敏さで琴音の攻撃をかわし、流れるような動きと、野生の予測不能な跳躍で琴音を翻弄する。時折、鋭い爪を立てた手が琴音の肌を掠め、僅かな傷を刻んでいく。

 かつての翠蓮の技が、憑いたあやかしによって非人間的なまでに加速され、洗練されたものとなっていた。


 緒戦は互角。琴音のパワーと真っ直ぐな攻撃に対し、金華猫はスピードと精密さで対抗する。しかし、金華猫にあるのは単なる肉体的な戦闘能力だけではなかった。


「琴音……まだ、本気じゃないの? 」


 金華猫が翠蓮の声で、琴音の耳元に囁く。彼女は、琴音の攻撃を避けながら、挑発するように言葉を投げかける。


「アンタは、いつもそうだった。才能あるのに、どこか本気出さないじゃん。だから、アーシ……アンタ超えたかったのに…!」


 翠蓮の声色で、琴音の心の隙間を突くように、さらに言葉を畳みかける。それは、金華猫が獲物の精神を揺さぶための心理戦だった。琴音の脳裏に、道場を辞める時の翠蓮の涙と、悔しそうな顔がフラッシュバックする。

 動揺した琴音の動きが、さらに鈍る。


 翠蓮の中の記憶を逆手に取った言葉で、琴音に小さな隙が現れる、金華猫はにやりと笑う。


 ザクッ!


 鋭い爪を立てた手が、琴音の脇腹を深く切り裂いた。

 金華猫の動きは既に、野生の獣のそれに変わっていた。


「ぐっ…!」


 琴音は血を吐き、膝をついた。

 陽介は、その光景に焦り、プロトデバイスを食い入るように見つめた。


(……ミスった、バカだった。直してさえいれば!)


 昨夕の『離為火』テスト発動で、プロトデバイスの紫外線LEDは破損していた。その修繕の為に部品を購入し、ポケットに忍ばせていた。しかし事態の収拾に追われ、精神的な動揺と、目の前の緊急事態に、修理作業のことなど頭から完全に抜け落ちていたのだ。


 制服のポケットに手を当てる。昨日買ったままのシンコー電機の袋の感触が、そこで初めて陽介の意識に上った。

 袋を取り出し引き裂く、コンクリートの路面にパーツが散らばる。

 震える指先で、彼は決死の思いでコネクタ、抵抗、そして紫外線LEDを拾い集める。時間がない。一秒でも早く。

 急ぎ3ピンのコネクタをプロトデバイスの端子につなぎ、コネクタの逆側電極にパーツのリード線を挟み込み、抵抗を介して紫外線LEDをはめ込んだ。ハンダづけもなんにもない、まさに力業の応急処置だった。



「いけるか?!」


 プロトデバイスの卦符アプリを起動。

 琴音が過去使った卦の測定記録から仕込んだスクリプトがある。テストはしていない。ぶっつけだが誤りがなければ、再生できるはず。

 新たに開発した、アプリの連続発火モードを選択。

 夜織を復活させた際の、簡易デバイスが記録した情報データをもとにした卦の発動。


 傷ついた琴音に向け、身体の『復活』と生命力『バフ』のための卦術『地雷復』『風山漸』をフルパワーを念じ、連続発動した。

「地雷復!」「風山漸!」

 大声で叫ぶ。


 バン、バン、バン、バン、バン、バン!

 プロトデバイスが咆哮する度に、陽介の視界が歪み、耳の奥で金属が軋むような高音が響いた。全身の血が逆流するような感覚に襲われる。胃の奥からこみ上げる吐き気。足元から急速に力が抜けていく。次の瞬間、膝ががくりと折れ、彼は為す術もなく地面にへたり込んだ。

 紫外線LEDのPN接合がふたたび破壊され、けたたましい発動音が唐突に途絶えた。

 ──失敗したのか。

 絶望が陽介の胸をよぎった、その刹那。 プロトデバイスの画面に、琴音の想子力場が赤く輝き、その数値が跳ね上がっていくのが表示されるのを見て取る。

「……やった……っ」

 乾いた声が、陽介の喉から辛うじて絞り出された。


 温かく、しかし強烈なエネルギーが、琴音に流れ込み、全身を駆け巡る。

 肉体の痛みも、心の迷いも、そのエネルギーによって吹き飛ばされていく。

 細胞分裂が活性化し、傷がふさがり、流血が止まる。


「……陽介…!」


 琴音の瞳に、再び強い光が戻った。彼女の全身から、先ほどとは比べ物にならないほどの、圧倒的な闘気が噴き出す。それは、金華猫の妖気を凌駕するほどの、純粋な「力」の奔流だった。

 琴音は、立ち上がった。その拳には、赤く燃えるような想子力が宿っている。

 琴音の強化された空間認識は、金華猫の攻撃をことごとく紙一重でかわし

 金華猫の回避の及ばぬ速度で攻撃を加える。

 琴音の攻撃は、金華猫を圧倒し始めた。

 ムエタイの重い打撃が、金華猫の俊敏な動きを捉え、その硬質化した肉体に鈍い衝撃を与える。

 金華猫は、琴音の猛攻に防戦一方となり、次第に追い詰められていく。


「ぎにゃああぁぁぁぁぁ……!」


 金華猫は信じられないといった表情で、野生の叫びを上げて怯える。


 大いなる迷いの中、大船の庵で聞いた、比丘尼師匠の言葉を思い出す。

「あんさんの『しばく』は、単なる暴力やない。苦しみを終わらせ、安寧をもたらすための『浄化の一撃』となるんや」


 琴音は、あの日、大船の本堂で刻んだ「䷦」の符を取り出す。安寧をもたらす『浄化』。そのために刻んだ符だった。

「……雷水解」静かに唱えた。邪を祓い、解放する卦である


 琴音の拳に、清浄な力が込もる。


 陽介は、プロトデバイスで翠蓮の妖力と、その奥にわずかに残る翠蓮自身の想子力場を解析していた。

(金華猫の核は、翠蓮の心臓の近くに…! そして、翠蓮自身の意識は、まだ完全に消えていない!)


「琴音! 心臓の少し上!そこに金華猫の核がある!」


 翠蓮の顔を見た。その瞳の奥に、一瞬だけ、かつての翠蓮の悲しげな表情が垣間見えた気がした。

 琴音は、強く、強く、拳を握りしめた。


「これで、元に戻れるよ、翠蓮」


 琴音の、感覚が圧縮された時間軸で、金華猫の胸元めがけて、浄化の拳を当てた。


 鈍い音と共に、金華猫の体が大きく弾き飛ばされる。その瞬間、黒い煙のような妖気が噴き出し、苦悶の叫びを上げながら、金華猫は、翠蓮の肉体から引き剥がされていく。それは、金色の瞳を持つ、巨大な黒猫の姿をしていた。


「キィィィィィィ……!」


 金華猫は、断末魔の叫びを上げながら、倉庫の立ち並ぶ港の夜空へと溶けて消えていった。


 金華猫が去った後、翠蓮は力なくその場に倒れ込んだ。琴音は、急いで翠蓮に駆け寄る。

 翠蓮の瞳は、元の優しい色に戻っていた。しかし、その肌は青白く、呼吸も浅い。

「翠蓮……!」


 琴音は、翠蓮の体を抱き起こした。翠蓮は、かすかに目を開け、琴音の顔を見つめた。

「……あ、琴音だ」


 翠蓮の意識が遠のく。琴音がポケットから符を出す

「地雷復。」

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