第三京浜編・5・旧い美学

 彼は悔しげに呟いた。

「あの男……って?」陽介が尋ねる。

「たぶん知ってるやつだ。かつてこの日本で、時速307.69km/hという常識外れの速度を叩き出した男だ。彼は国産車に限界を感じ、イタリアのデトマソ・パンテーラにアメリカンV8エンジンを積んで『最高速』に挑んだ。そして、その数日後に事故死した。奴は、今も『速さ』と『破滅』に囚われているのだ」

 朽木の言葉に、陽介は驚愕した。スピードに固執する走り屋の怨念が、現代の高速道路を暴走していると。

「奴は、エコ重視の時代、そして『魂のない走り』を強いる現代の車文化に反感を募らせている。自動運転だの、安全装備だの、車が勝手に走る。ドライバーはただ座っているだけ。そんなものは、奴からすれば『走り』ですらないのだ」

 朽木は、羅刹輪の心情を代弁するように続けた。

「奴は特にEVを狙う。バッテリーの力で惰性で走るような車は、奴にとって最も軽蔑すべき存在なのだろう。そして、自分と同じ狂気を求める。だから、公道レースを挑み、破滅へと誘うのだ」

 陽介は、羅刹輪の怨念が、単なるスピード狂ではなく、現代社会への明確なアンチテーゼを抱いていることに気づき、戦慄しつぶやく。

「時代にそぐわない魂が現代に抗がってるってことか。」

 夜織は朽木の顔をじっと見つめ、静かに言った。

「それで、どうするんだい? あの化物と、またその車で勝負するのかい?」

 朽木は首を横に振った。

「いや……このプリウスでは、限界がある。奴の土俵で勝つためには、こちらも『本物』を出さねばなるまい」


 プリウスは奇跡的にエンジンがかかった。

 朽木は、二人を自身の自宅ガレージへと誘った。

 ガレージのシャッターが開き、その奥に眠っていたのは、埃を被りながらも、ただならぬオーラを放つ一台の車だった。

 それは、オレンジ色の車体に黒いオーバーフェンダー、そしてまるで生き物のように禍々しい吸気口が覗く、マツダ・サバンナRX-3だった。無骨なその車は、まるで眠れる獅子のように静かに佇んでいた。

「渋い……朽木さんの愛車なんですか!?」陽介が驚きの声を上げた。

「ああ。私の青春の全てを注ぎ込み、物理の限界を超えようとした相棒だ。ユーノスコスモの20B型3ローターエンジンを無理やり押し込み、物理的なチューニングで理論値で七百馬力オーバーを叩き出すよう、改造を施した」※

 朽木が淡々と説明する。その言葉には、ただならぬ執念と、メカニックとしてのDQNな美学が詰まっていた。

「当時、あいつはフェアレディZに限界を感じデトマソパンテーラを選んだ。だが、私は国産ロータリーの可能性を信じた。そして、その先の境地を見た」

 朽木の視線は、RX-3のエンジンルームへと注がれた。そこには汗と油、そして狂気とも言える情熱が凝縮されているようだった。

「だが……」

 朽木の表情に、一抹の寂しさが浮かんだ。彼はゆっくりと、自身の義手である右手をRX-3のステアリングへと伸ばす。

「もう、この体では、こいつを完全に乗りこなすことはできない。あの時の、狂気的な速度域での制御は、義手と義足では……」

 朽木は、愛車に触れる寸前で手を止め、静かに下ろした。その表情には、深い諦めと、未練が滲んでいた。

「だから、陽介。頼みがある」

 朽木は陽介を真っ直ぐに見つめた。

「私の代わりに、このRX-3を駆ってくれないか。そして、あの羅刹輪と『卦術に頼らぬ勝負』をして、奴を昇華させてやってほしい」

 朽木は続けた。

「羅刹輪は、霊的な存在だが、その根源は『速さ』という物理的な執着にある。だからこそ、理屈を超えた『純粋な速さ』で奴を打ち破ることが、何よりの浄化となるだろう」

 陽介は、朽木の真剣な眼差しを受け止め、RX-3を見つめた。その車は、ただの鉄の塊ではない。朽木の人生と、日本のチューニングカーの歴史が詰まった、生きた伝説だった。

「でも、おれ、バイクの中免しか持ってないっすよ」

 少し考え、朽木が笑う。

「どうせ道交法違反の速度域の戦いになる」

 車の運転を教えてもらえるんなら、それでもいいか。陽介はそんな開き直りをする。

「……分かりました。やります」

 陽介は覚悟を決め、力強く頷いた。


 数日後の夜。国道1号線。

 朽木のRX-3が、低く唸るようなエキゾーストノートを響かせながら、陽介の運転で環状8号線にむかう。助手席には朽木、そして夜織は陽介のバイクRZ250Rに跨り追走する。

 朽木の指示で、夜織は糸によるサポートに徹する。これは、あくまで「物理の極致」と「純粋な速さ」の勝負なのだ。


 環状8号線の玉川インターチェンジから第三京浜に乗る。「彼」が見つからなければ、何往復でも繰り返す心づもりだ。

 だが、FUMが数キロ先に強力な歪みを見出す。

 川崎市の南武線の線路と交差するあたりで、RX-3が法定速度の倍の速度で追いつく。

 再びEV車を狙っていたのだろう。先行するテスラ・モデルSに羅刹輪が後方から迫る。

「来たぞ、陽介! 奴の狙いはあのEVだ! 止めろ!」

 朽木の声が響く。

「バリバリバリバリィィィッ!!」

 陽介はアクセルを床まで踏み込んだ。七百馬力オーバーの20Bロータリーエンジンが咆哮を上げる。RX-3は、その小さな車体からは想像もできない加速力で、羅刹輪を追い抜く。タービンが唸り、ロータリー特有の甲高いスクリームが高速道路に響き渡る。

 朽木は想子力場に渾身の念を込めて、羅刹輪に、あいつに呼びかける。

(おれは!おれたちは、ここにいるぞ!)

 羅刹輪はその呼びかけに答えるように、小さなRX-3の後ろを追いはじめた。

「来た。挑発に乗って、来てくれたようだ。」

 羅刹林は後方から左右に煽り立てる。精神干渉が、RX-3の車内にも押し寄せる。

(速度を上げろ、もっと、もっとだ)

 車を速度追求の手段としか認識していない怨念が、陽介の精神を直接揺さぶる。だが、朽木さんの隣で、その「狂気」を受け止めるように、ステアリングを握りしめた。

「朽木さん!始めるよ!」

 陽介がアクセルを踏み込んだ。羅刹輪を数十メートル突き放す。

 朽木の指示したタイミングで、陽介がギアチェンジを行う。

 羅刹輪は、自らと同次元の怪物が現れるとは思っていなかったのだろう。その動きに、僅かな動揺が見て取れる。

 「彼」自身が「見限った」国産車が、しかも自身のパンテーラに匹敵するパワーで立ちはだかることに、強い驚きを感じているようだった。

 (ロータリー20Bは、お前が逝ってから十年後のエンジンだ。)

 RX-3は羅刹輪を追走させたまま、港北ICを過ぎ、小机城も越え、保土ヶ谷料金所にさしかかる。

 速度を落とし、ETCを通過するRX-3を、羅刹輪は睨むように待っていた。


 ジャンクションに入る。細い側道から横浜新道本線に入ったところでレースが始まった。

 直線では羅刹輪の絶対的な最高速度が牙を剥く。しかし、コーナーではRX-3の軽量なボディと、朽木さんが施した完璧な足回りのチューニングが活きる。

 他の車両を避けながらRX-3は羅刹輪と互角の勝負をしていた。

 陽介は、朽木の指示を仰ぎながら、車体の限界を超えたドライビングで羅刹輪を追い詰める。

 朽木は、陽介の走りを隣で見ながら、若き日の自分を重ねていた。そして、時折、羅刹輪の動きから「走り」の癖を見抜き、陽介にアドバイスを送る。


 夜織はRZ-250Rでレースを追走していた。

 そのエンジンは今日に備え、朽木の入手した350ccのものに換装されており、時速200kmを叩き出す。

 絶対速度では追いつかないものの時に糸を用い、他車をすり抜けることで、なんとかその役割を果たしていた。

 彼女は直接干渉せず、陽介と朽木の「物理の勝負」を見守っていたが、羅刹輪の強い意識が一般車両のドライバーに影響を及ぼしそうになったときに、わずかに糸を放ち、それを掻き消すなど、霊的サポートに徹している。


 その時、後方からけたたましいサイレンの音が近づく。

「やっかいなのが来たねえ!」

 夜織が呟く。高速道路の監視カメラが、この異常なカーチェイスを捉え、通報が入ったのだろう。青と赤の回転灯が夜の闇を切り裂き、白いセダンタイプのパトカーが猛スピードで迫ってくる。

 朽木もそれに気づく。

(夜織、頼む!)

 夜織はニヤリと笑った。

「想定内だね、あいよ!」

 夜織はRZ-250Rを急加速させ、パトカーの前に躍り出た。彼女の背後から、無数の黒い糸がまるで生き物のように伸び、パトカーのフロントガラスやサイドミラーに絡みつく。

「な、なんだ!?」

 パトカーを運転する警官が驚きに声を上げる。糸はまるで幻のようにその視界を塞ぎ、サイドミラーをずらし、パトカーを惑わせる。

 黒い糸はフロントガラス上を生き物のように這いまわり、不気味にかたちを変える。完全に視界を奪うのではなく、絶妙な「見えにくさ」でパトカーの追走を阻むのだ。

「くそっ、視界が……!」

 パトカーは、追いつくことができず、次第にRX-3と羅刹輪の姿が遠ざかっていく。夜織は、追いすがるパトカーを嘲笑うかのように、再び糸を操作し、巧みにその追跡を妨害し続けた。

(……『公務執行妨害』になるんでありんしたっけ?)



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※RX-3に20Bを積んだDQN事例は実在します。

 https://youtu.be/tY9rkZbva1M

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