第三京浜編・3・妖と人

 国道1号の原宿交差点を左に曲がる。

 朽木は大船でモノノフの師である比丘尼師匠に事件の意見を伺うつもりであった、また復帰の報告も兼ねている。


 大船観音の小庵には、比丘尼師匠が静かに座していた。その存在感は、周囲の空気をすら変えるかのようだ。

 その眼前に琴音が正座している。

「卦符が全く刻められへんくなったちゅうのんどすなぁ、そら困ったこっとす」

 琴音はひとり大船の庵に訪れていた。

 あのとき、役禍角やくかかくの問いに勢いで反論したが、己が言葉に矛盾を感じていた。人だけのために戦うということが正しいのかと。人のために管狐くだぎつねを何も悼まず、残酷に焼き殺した。それは正しかったのか。

あやかしにも、生きてきた理由や、何かを求める心があるのなら、それを力ずくで打ち消してしまうことが、本当に正しいことなのか、分からなくなってしまって……」

 琴音の声には、深い迷いが滲んでいた。

あやかしをしばくのんが辛なったちゅうのんどすなぁ……」


 陽介が朽木の車椅子を押し、庵の外から近づく。

 気づいた比丘尼師匠はゆっくりと立ち上がり、引き戸を開いた。

「朽木さん、陽介くん……」

 驚く琴音。

 庵の中の琴音に気づき、陽介も少し驚いた顔をする。朽木は静かに琴音の様子を見守る。


「朽木はん。久しぶりどすなぁ」

「師匠……お変わりなく」

 朽木は、右手の義手を組み、左足の義肢が収まる車椅子の上で深々と頭を下げた。師匠は、彼の義肢に視線を向けたが、何も言わず、ただ静かに頷いた。

「あんたの霊力は、以前にも増して澄んでる。苦難を乗り越え、より高みへと至ったか」

 師匠の言葉に、朽木の表情が僅かに緩む。


 比丘尼師匠が、琴音に向き直り、慈愛に満ちた眼差しを向ける。

「さて、琴音はん。あんさんの優しい心は、モノノフとして尊いもんや。けどな、『しばく』ことだけが、解決やないちゅうこと、わかってはるやろ?」

 琴音は顔を上げる。

「はい……でも、どうすれば……」

「そうや。あんさんが迷うんは、相手の『心』を見ようとしてるからや。見えへんもんに手を差し伸べようとする優しさが、あんさんの強みや」

 師匠は優しく語りかける。

「けどな、あやかしっちゅうもんは、人の歪んだ想いから生まれることもあれば、自然の摂理から外れて暴走することもある。そんで、その存在が、周りのもんを苦しめてる時は、どうする?」


 そこで朽木が口を開く。彼の声は、静かだが力強かった。

「琴音、お前の迷いは理解できる。だがな、我々モノノフの役目は、ただ怪異を『消す』ことだけじゃない。世界の『理』が歪み、多くのものが苦しむ時、それを元の正しい状態に戻すことだ」

 朽木は、琴音の目を見据える。

「怪異の中には、既に理性も、求める心も失い、ただ歪んだ現象と化したものがいる。あるいは、自らの存在によって周囲を無差別に害してしまうものもな。そのような時、お前の『一撃』は、その存在を消滅させるのではなく、歪んだ『理』を正し、苦しむ魂を解放し、あるいはその怪異によって苦しめられている者たちを救うためのものとなる」

「歪みを、ただ放置することは、お前の言う『優しさ』とは違うだろう。お前の『拳』は、時に病巣をえぐり出す外科医のメスのようなものだ。痛みを伴っても、それが必要な救済となる場合がある」


 比丘尼師匠が、朽木の言葉に続く。

「そうや。あんさんが、相手の心を慮ることは、大切なことや。せやけど、その慈悲の心があるからこそ、本当に救うべきは何か、どこまでが許されて、どこからが止めるべき歪みなのか、あんさんには見極められるはずや」

「その見極めができた時、あんさんの『しばく』は、単なる暴力やない。苦しみを終わらせ、安寧をもたらすための『浄化の一撃』となるんや」

 琴音は、二人の言葉をゆっくりと噛みしめるように聞いていた。比丘尼師匠の慈愛と、朽木の厳しくも深い「理」の言葉が、彼女の胸のモヤを晴らしていくようだった。

「浄化の……一撃……」

 琴音は小さく呟き、顔を上げた。その目に宿る迷いは消え、新たな決意の光が灯っていた。

「ありがとうございます、本堂をお借りしてよろしいでしょうか、いまなら、卦符を刻めそう。」

 琴音は陽介にも微笑んで、本堂のほうにゆっくりと歩いて行った。

 琴音は本堂の静寂の中で、墨を磨り、筆を執った。迷いは消えたはずだったが、手が止まる。

(「浄化」……)

 彼女の脳裏に、管狐を焼き殺した時の光景がよぎる。あの時とは違う。今度は、誰かの苦しみを終わらせるための一撃。

(私は、誰かを傷つけるために戦うのではない。世界を、そして彼らの魂を、正しい「理」へと導くために……)

 琴音は深く息を吸い込み、心を落ち着かせた。筆先から放たれる霊力が、清らかな光となって符に吸い込まれていく。彼女の刻む卦符は、これまでとは比べ物にならないほど澄み渡り、強い輝きを放っていた。


「縁あって、二人のサポートをすることになりました」

 朽木が報告すると、比丘尼師匠は微笑む。

 さらに第三京浜で発生している連続事故について報告する。

「なるほど……あの道には、求不得苦もとむるもえられずの強い執着を持つ影が潜んでます。早急に鎮めるのんがよいとおもう」

 比丘尼師匠は、既に今回の事件の異変を感じ取っていたようだった。


 そこへ、ヘルメットを脱いだ夜織がやってくる。

「なんとも神聖で清浄な空気が満ちていることでありんすね」

 夜織の廓言葉が響き渡る。比丘尼師匠の視線が、夜織に向けられた。その瞳が、一瞬、大きく見開かれた。

「……おお。なんとも、まあ、生きて。あの時の娘、こないな姿に……」

 師匠の言葉に、夜織の表情が固まる。彼女もまた、師匠の顔を見て、記憶の糸を手繰り寄せる。

 夜織は比丘尼師匠を真っ直ぐに見つめた。

「……あんたは、あの時のままさね」

 比丘尼師匠は静かに頷いた。

「あなたの想いは、まだあの者と共に、あるんどすか」

 師匠の問いかけに、夜織は何も答えず、ただ静かに目を伏せた。

「あなたは、人と妖のあいさに立つ者として、進むべき道を見つけるのんがええ思う」

 師匠の言葉は、三百年前と同じように、夜織の心に深く響いた。

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