名もなき赤い花
ライ。
赤
い
廃墟へと続く山道は、すでに舗装も剥がれ、雑草と小石に覆われていた。
夜の帳が降りた中、懐中電灯の光だけが頼りだ。だが、それすらも頼りない。木々の隙間から覗く月が、まるで彼らを試すかのように、時折薄く地面を照らした。
「マジでやるのかよ……」
後ろをついていた一人がそう呟いた。
誰も返事はしない。ただ、廃墟と化した建物を前にして、言葉が喉の奥に貼りついたまま離れなかった。
そこは、かつて観光ホテルだったとされる場所だった。山の中腹、交通も悪く、いつの間にか廃業し、今では“出る”という噂が囁かれるだけの廃墟。
ネットでも取り上げられ、興味本位で訪れる者は多いが、真偽は定かでない。
ただ、その夜、彼らがここへ来たのは――罰ゲームだった。
「奥の部屋、行って戻ってくるだけだろ? 誰もいねえって。昼間に来てた奴らもいたらしいし」
そう言ったのは、一番軽口を叩いていた奴だった。
だがその言葉にも、どこか強がりが混じっていた。
怖くないわけではない。ただ、それを言えば負けのような空気があった。
くじで負けたのは、無口なやつだった。
喋ると少し舌足らずで、表情も薄い。だが、誰よりも冷静な判断をするタイプだった。
彼は何も言わず、懐中電灯をしっかりと握り、躊躇いなく廃墟の入口をまたいだ。
外から見る限り、建物はまだ“形”を保っていた。
しかし中は荒れ果てており、床は腐り、天井はところどころ崩れていた。
家具も残ってはいるが、埃とカビに塗れて原型を留めていない。
それでも、彼は構わず進んだ。
怖いという感情はあった。だが、それよりも早く終わらせたいという焦りのほうが強かった。
暗がりの中、コンクリートの階段を上り、廊下を進む。
風が吹き抜ける音と、彼の足音だけが響いていた。
心霊現象は――起きない。
物音ひとつしない。
ただの廃墟だ。そう思いたかった。
そして、さらに奥へと進んだときだった。
崩れた天井から、ぽっかりと開いた穴が見えた。
そこから、月光が差し込んでいる。
その光が照らす部屋は、まるで舞台装置のように静かで、奇妙な美しさすら感じられた。
彼はその部屋に足を踏み入れた。
そこで、目にしたもの――
赤い花だった。
それも、一本や二本ではない。
床のあちこちに、まるで誰かが意図して植えたかのように、ぽつぽつと咲いている。
真紅。血のような赤。
こんな朽ちた建物の中に、何故?
花瓶も土もない。ただ、床から咲いているように見えた。
彼は眉をひそめたが、すぐに考えるのをやめた。
不気味だ。だが、それ以上に――もう一部屋、奥がある。
そこまで行けば、終わるのだ。
足を進めた、そのとき。
ぐしゃっ
足元で音がした。
見下ろすと、赤い花が潰れていた。
踏んだ――のか? 無意識に? 注意していたはずなのに。
その瞬間、足元の花から赤い液体がじわりと広がり始めた。
血のように見えた。
いや、本当に――血なのではないか。
ぞくり、と背筋が凍った。
次の瞬間、眩暈のような感覚が頭を支配し、彼はその場に膝をついた。
視界が揺れ、世界がぐにゃりと歪む。
手足に力が入らない。
喉が何かを訴えようとしても、声にならない。
床が近づく――と思った。
だが、それは違った。
自分が、低くなっている。
背が縮んだのではない。
自分の身体が、別のものに変わっていく。
――赤い花。
その姿になっていると、彼は悟った。
――――――――――――――――
月は高く、しかし風は止んでいた。
誰かが喋るたびに、静けさの中にその声だけが妙に大きく響いた。
「なあ、遅くね……?」
口に出したのは、一番小心だった奴だ。
時計を見るふりをしているが、元々この場所に時間を測れるような明かりなどない。
ただ、体感的に、罰ゲームにしては遅すぎた。
「中、見に行った方がいいんじゃないか」
それに同意する者は、すぐには現れなかった。
廃墟の中に入るというのは、今まさにそれを終えたはずの仲間の役割だった。
それがこうも長引くと、不安と想像が膨れ上がってくる。
「ヤバいことになってんじゃね? 落ちて怪我とか……」
「マジで出たとか、さ……」
誰かが冗談交じりに呟いた。
だが誰も笑わない。
結局、相談の末、三人のうち二人が様子を見に行くことになった。
残った一人は、外でライトを持って待機する。
万が一、戻ってくるかもしれないからだ。
埃の匂いが鼻を刺す。
廊下は先ほどの彼が通ったままだ。
誰の気配もない。
ただただ、静かだった。
「ほんとに、こっちで合ってんのか?」
「……足跡、残ってる。こっちで間違いない」
ぼそりと呟きながら、足元に注意を払いながら進む。
やがて、月明かりが射す一室へとたどり着く。
「……ここ……?」
その部屋は、やけに明るかった。
天井の崩落部分から差す月光は、まるで舞台照明のようにスポットライトとなって、赤い花たちを照らしていた。
「なに、これ……?」
二人は声を漏らした。
廃墟の中にあるまじき風景。
それは、あまりにも奇妙で、美しかった。
真紅の花々。
その一つ一つが、床に根を張って咲いているように見える。
どこか湿った匂いが鼻をついた。土の匂いではない。もっと生々しい――鉄のような。
「なんか……気持ち悪いな……」
一人が後ずさる。
だがもう一人は、目を細めていた。
「この中に……いるのか? アイツ」
どこにもいない。
部屋は空っぽだ。
奥に続くドアは半開きで、さらに向こうに部屋があるのがわかる。
「……とりあえず、奥を見ようぜ。下手したら倒れてるとか……」
「お、おう」
少し躊躇いながらも、二人は奥へと歩き出す。
その時だった。
ぐしゃり。
乾いたような、濡れているような。
そんな音が、足元から聞こえた。
もう一人が、その音に息を呑む。
踏んでしまった――そう、彼も気づいていた。
赤い花のひとつが、潰れている。
そこから、ゆっくりと赤い液体がにじみ出していた。
その液体が、まるで足首を這うように広がっていく。
「……おい?」
声をかけた。だが、返事はなかった。
踏んだ友人は、まるで凍りついたかのように立ち尽くしている。
その身体が、わずかに震えていた。
そして次の瞬間、ふらりと膝をつき、顔がゆっくりと沈む。
「おい、しっかりしろって……!」
駆け寄ろうとしたもう一人が、その足を止める。
すぐ傍に、咲いていた。
赤い花。
月明かりが、その花を照らしている。
風はないのに、花びらが揺れていた。
そこにあるはずのない命が、そこに確かに息づいている気がした。
「これって……まさか……」
何かが、脳裏を掠めた。
声にはならない。
いや、してはいけない気がした。
背後で、夜の森がざわめいた気がした。
だが、彼は知らなかった。
すでにその足は――
花の上にあったことを。
ぐしゃり。
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