ユメイロ・フォーカス

猫印

第1話

 今日、私の幼馴染が飛行機に乗って、外国へ飛び立つ。

 私は空港の展望デッキに立ち、ゆっくりと動き出す機体を見送っていた。


 空はまだ青く、でも地平線のあたりには少しだけオレンジが滲む。

 夕暮れの入り口。

 昼と夜の狭間にあるこの時間が、彼女の旅立ちに丁度よく思えた。


 アナウンスが遠くで響く。

 風がスカートの裾をかすめて、ほんの少し肌寒い。

 私は手すりにもたれながら、彼女のことを思う。


 小さいころから、彼女とはいつも一緒だった。

 公園でも、雨の日でも──彼女がいれば、日常は少し色づいて見えた。


 あの時間が、ずっと続くと思っていた。

 明日もまた一緒に笑っていられると、疑いもせずに。


 だけど、そんな時間は、思ったよりもあっけなく終わってしまった。


 季節が過ぎ、制服に袖を通すようになったころ。

 いつの間にか私たちは、少しずつ違う方を向いて歩き始めていたのかもしれない。


 ──中学生になったある日。


「私、ダンサーになりたいんだ」


 そう言った彼女の表情は、まっすぐに私を貫いた。


 それは、ただの憧れや気まぐれなんかじゃない。


 きっと彼女は、自分の中にある“やりたいこと”。

 これからの人生を懸けても叶えたい、本気の願いをもう見つけていたのだ。


 彼女は、気持ちを言葉よりも身体で伝えるのが得意だった。

 小さいころからダンスを習っていて、運動神経も抜群。

 そんな彼女の事は、もちろん私もよく知っていた。


 でも、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にざわりと風が吹いた気がした。


 私は、小さいころから、そんな彼女をいつもカメラのファインダー越しに追いかけていた。

 親から借りた、少し重たいカメラを肩にかけて。

 どこへ行くときも、彼女の笑顔や仕草を切り取るように、シャッターを押していた。


 それは、遊びのようでいて、私にとっては大切な時間だったのだと思う。


 そんな彼女が、今、私に向かって真剣な眼差しで決意を語ってくれている。

 まっすぐに。でも、少しだけ不安も混じったような目で。


「頑張ってね!」


 精一杯、笑って言ったつもりだった。

 だけど彼女は、すこしだけ目を伏せて、言いづらそうに続けた。


「レッスンが前よりも増えるし……ごめん。だから、今までみたいに遊ぶ時間はなくなっちゃうの」


 ──ああ、そういう事か。


 彼女の夢を追う日々のなかで、私は少しずつ遠くなっていったのだろう。

 それほどまでに、彼女は本気で未来と向き合おうとしているのだ。


「そっか。私も応援してる! でも、たまには私とも遊んでね?」


 冗談まじりに言ってみせた。

 けれど、目の前にいる彼女がどうしてか眩しくて、声が少しだけ震えた。


 夢を追うって、どういう事なんだろう。

 あの時の私は、まだそれがどれほど大きな事なのか、わかっていなかった。


 私の言葉に、彼女はにこりと笑って、そっと頷いた。


「私、頑張るから! 話聞いてくれてありがとう! レッスン行ってくるね!」


 彼女はそう言って、手を振りながら走り出した。


 遠ざかっていく背中を見送りながら、ふと気づいた。

 ──もう、彼女の隣にいるだけの私じゃないんだ。


 私は、はじめて“見送る側”になったのだ。


 それから、放課後になると、彼女はすぐにレッスンへ向かうようになった。

 一緒に遊んだのが、いつの事だったか──もう思い出せない。


 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。


 私は、いつものように一人で、学校の帰り道を歩いていた。


 そもそも私は、人と仲良くなるのがあまり得意じゃない。

 彼女と話すとき以外は、どうしても表情が硬くなってしまう。


「笑ったほうが可愛いよ?」


 彼女は、そんなふうに言って、私の顔を覗き込んで笑ってくれていた。

 でも、そんな彼女は──もう私の隣にはいない。


 会えば他愛のない話をして、笑い合っていた日々は、いつの間にか、思い出の奥にしまわれてしまった。


 ──そして、中学三年の夏。


 彼女から、ふいに連絡があった。


『結構大きな大会なんだけど、応援に来てほしいんだ。あと……いつもみたいに、写真を撮ってくれると嬉しいな。なんか、それだけで頑張れる気がする』


 久しぶりに交わす言葉だった。

 画面越しの文字なのに、どこか恥ずかしそうな彼女の声が聞こえるような気がした。


 彼女が踊っている姿を見た事はあった。

 けれど、大会のような本格的な会場で踊るのを見るのは、これが初めてだった。


 ──そして、大会当日。


 ざわついた空気の中、フロアの中心に立つ彼女の姿が見えた瞬間、私は思わず息を呑んだ。


 観客たちが円を描くように立ち、彼女を取り囲んでいる。


 これまで見たことのない、緊張と気迫に満ちた表情。

 まるで誰か別人のようだった。


 私はそっと、カメラを構える。


 ライトが彼女を照らし、激しい音楽が鳴り始める。

 その瞬間、彼女の身体が動き出す。


 激しい足さばき。

 腰をなめらかにくねらせて、観客の視線を引き寄せる。

 柔らかく、鋭く。

 一つ一つの動きが、音と完全に合わさっていた。


 途中、彼女がこちらを見た気がした。

 ほんの一瞬、私にだけ向けたような笑顔。


 そして、そのまま笑顔を浮かべながら、踊り続けた。


 観客の視線が、彼女一人に集中していくのがわかった。

 彼女のダンスが、観客も審査員の心も掴んでいる──そんな確信があった。


「やっぱり、すごいなぁ……」


 思わず、言葉がこぼれた。


 カシャッ。


 シャッターの音が静かに響く。


 飛び散る汗。

 笑顔とライトに照らされて、それは宝石のように輝いていた。

 今この一瞬、無数の視線と注目が、すべて彼女に向けられている。


 ──彼女が主役だ。


 そのとき、ぼんやりと思った。

 きっと、彼女は遠くへ行ってしまうんだ、と。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

 でも、それがきっと正しい。そんなふうに思えてしまった。


 気づけば、涙が頬を伝っていた。


 そっとぬぐいながら、私は音楽が鳴りやむまで、無心でファインダー越しに彼女を追い続けた。


 結果、彼女はその大会で優勝した。


 表彰台の上でメダルを掲げる彼女は、満面の笑みで観客に手を振っていた。

 まるで花が咲き誇るように、眩しい笑顔だった。


 でも、表彰が終わると──

 彼女はさっきまでフロアで輝いていたダンサーではなく、私の知っている幼馴染に戻っていた。


 どうだった?と、言葉ではなく目で問いかけてくる。


 私は、その日の写真を印刷して、彼女にそっと手渡す。


「わぁー!! やっぱり頼んでよかった!! 私の写真だったら一番うまいんだもん!!」


 優勝したときより嬉しそうに、写真を受け取ってくれた。


 その笑顔が、今も心の奥に焼きついている。


 ──いま、視線の先。

 そんな彼女が、飛行機に乗って、空の向こうへ旅立っていく。


 けれど、私の胸には、不思議と寂しさはなかった。

 あの時、彼女が私の写真を見て、あんなにも嬉しそうに笑ってくれたから。


 その瞬間、胸の奥にすとんと落ちる何かがあった。


 きっと彼女も、同じような瞬間を経験したのだろう。

「これだ」って。

「これじゃなきゃダメだ」って。

「絶対にこれがしたい」って。


 私も、ようやく気づいた。


 これが、私の夢なんだ。


 誰かの何かに触れる瞬間を切り取って、それを喜んでもらえる。

 そんなふうに、人と繋がれる仕事。


 きっと私は、小さいころから彼女を通して──

 やりたい事に、ずっと触れていたのだ。


 私は、飛んでいく飛行機に向かって両手でL字を作る。

 空をフレームに収め、そっとピントを合わせてみる。


 私は、カメラマンになりたい。

 誰かの一瞬を残し、最高の笑顔を引き出せるような──そんなカメラマンに。


 夢に焦点を合わせると、それ以外のものは少しずつぼやけていく。

 けれど、それでいい。

 いまの私に必要なのは、その一点だけだから。


 彼女がそうしてきたように、私も、世界を写しながら、自分の未来を見つめる。


 いつか、世界で輝くダンサーになった彼女の、最高の笑顔を撮りたい。


「やっぱり、私を撮るのはあなただよね!」


 ──そんなふうに言ってもらえるくらいの、立派なカメラマンに。


 片目を閉じて、指で作ったフレームを覗き込む。


「カシャ……なんてね」


 そう呟いて、私はゆっくりと手を下ろした。


 次に会うときは、カメラを肩にかけて。

 彼女に会いに行こう。


 時間を確認しようとスマホを開く。

 そこには、 『行ってきます!』のメッセージが、スマホに表示されていた。


 私は「行ってらっしゃい」と小さくこぼしスマホを閉じる。


 その背景には──さっき撮った、私たち二人の写真が映っていた。

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