第3章:看板なき便利屋、ここに開業
老婆の納屋の扉は、蝶番が錆びつき、板が数枚外れかけているという、なかなかの重症だった。私は森で手に入れた硬い木の枝を削って楔を作り、ドレスを引き裂いて作った布で磨き上げた石ころで打ち込んで板を固定。蝶番には、動物の脂を塗って滑りを良くした。完璧とは言えないが、少なくとも以前よりずっとスムーズに開閉するようになった。
「……ほう。大したもんだ」
老婆――名をエマさんというらしい――は、感心したように扉を動かしてみせた。その日の報酬は、またしても温かい食事と、古いが丈夫な麻のズボンだった。高価なドレスよりも、今の私にはずっと価値がある。
この一件は、すぐに村中に広まったらしい。
「あの追放された女、意外と器用らしいぜ」
「エマさんの納屋を直したんだと」
そんな噂話が、私の耳にも入ってくるようになった。そして、私の元には、ぽつりぽつりと小さな依頼が舞い込むようになった。
「うちの椅子の脚がぐらつくんだが、見てもらえないか」
「畑の柵が壊れて、キツネが入って困ってるんだ」
どれも、大した仕事ではない。けれど、私にとっては、自分がこの村で生きていくための糧であり、存在証明でもあった。報酬は、パン一つだったり、野菜数本だったり。物々交換が基本だが、それで十分だった。
そんなある日、私は廃屋の前に、一枚の板を掲げた。森で拾った、比較的平らな木の板だ。そこに、炭でこう書き記した。
『なんでもやります』
看板と呼ぶにはあまりに粗末なそれを見て、私は一人、満足げに頷いた。
「王妃にはなれなかったけど、便利屋にはなれるわ」
前世の記憶が、私にそう囁いていた。そうだ、これが私のやりたかったことだ。肩書きや身分に縛られず、自分の腕一本で誰かの役に立つ。これ以上の喜びがあるだろうか。
アルトレイン公爵令嬢でも、悪役令嬢でもない。ただの「便利屋クラリス」が、この辺境の村ロッカで、ひっそりと開業した瞬間だった。
記念すべき、看板を掲げてからの正式な依頼第一号は、村の少年からだった。年の頃は十歳くらいだろうか。もじもじと私の前にやってきて、こう言った。
「あの……うちのニワトリの世話、お願いできませんか?」
聞けば、彼の両親は隣町まで出稼ぎに行っており、数日間は帰ってこない。その間の、ニワトリの餌やりと卵の回収をしてほしい、という依頼だった。
「報酬は、これしか……」
少年が差し出したのは、銅貨一枚。この村では、貴重な現金だ。
「わかったわ。引き受けましょう。その銅貨は、あなたのおやつ代になさい。報酬は、採れた卵の半分でいいわ」
私がそう言うと、少年はぱあっと顔を輝かせた。
「本当!? ありがとう、クラリスさん!」
初めて「さん」付けで呼ばれた。くすぐったいような、嬉しいような気持ちが胸に広がる。
少年、ティムの家の鶏小屋は、こぢんまりとしていたが、五羽のニワトリが元気に走り回っていた。私は餌の配合を確認し、水の交換、小屋の掃除、そして藁の中から温かい卵を見つけ出す。一つ一つが、愛おしい宝石のように感じられた。
公爵令嬢時代、私は帝王学の一環として、領地経営や家畜の管理についても学んでいた。まさか、それがこんな形で実践されることになるとは、当時の家庭教師も思うまい。
数日後、ティムの両親が帰ってきて、きれいに管理された鶏小屋と、かごに山盛りになった卵を見てたいそう驚き、そして感謝してくれた。
「あんた、本当に貴族だったのか? 働き者だな」
ティムの父親は、ぶっきらぼうながらも私に笑顔を見せた。
「評判通り、いや、それ以上だ。これは礼だ。取っといてくれ」
そう言って、彼は私に銀貨を一枚握らせた。銅貨十枚分の価値がある、大金だ。
この一件で、私の評判はさらに確固たるものになった。
「クラリスに頼めば、何とかしてくれる」
そんな信頼が、少しずつ村に根付き始めていた。最初は私を遠巻きに見ていた村人たちも、今では道で会うと「よう、便利屋」「今日も忙しいな」と声をかけてくれるようになった。
よそ者に冷たかった村は、いつの間にか、私にとって居心地の良い場所に変わりつつあった。
私の廃屋の前には、毎朝のように誰かが立っている。依頼人だ。
私は依頼帳代わりの木の板に、新しい依頼を書き込んでいく。
「水漏れの修理、一件」
「猫探し、一件」
「恋文の代筆、一件……え、恋文?」
思わず二度見してしまったが、依頼は依頼だ。
私はペン代わりの炭を握り直し、にやりと笑った。
便利屋クラリス、今日も元気に営業中。さて、次は何を片付けようか。
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