山
奥左
1 姥捨山
姨捨駅。8月 夜10時半。
ホームにはひとけがなく、冷たい風が長野盆地の山肌をなでるように吹き抜けていた。
「……こんな時間に、行くの? 一人で?」
駅前のベンチで缶コーヒーを握りしめていた中年の駅員が、声をかけた。
佐藤葵は振り返り、少し戸惑ったように笑った。
「ええ。でも大丈夫。どうしても……あの“田毎の月”が見たくて。」
駅員は顔をしかめた。
「今夜は満月だが……田んぼまで行くなら、長楽寺のほう、道が暗い。熊も出るぞ。」
「ライトは持ってます。カメラも。防犯ブザーも……それに、ちょっと調べ物も兼ねてて。姥捨山の伝説、知ってます?」
「あんた、観光ライターかなんかか?」
「まあ、そんなところです。」
駅員はため息をついた。
「変わった人だ。……気をつけるんだな。あそこ、昔から“戻ってこない人”が、いるって話が絶えない。」
「ありがとうございます。何かあったら……山が呼んでるってことにしておきます。」
軽く笑った彼女の横顔に、駅員はふと、不安を覚えた。
田毎の棚田。近くに小さな池がある。
月光が無数の水田を照らし、空の鏡が幾重にも連なるように光っていた。
水面に揺れるのは月の姿か。無数の蛍がゆっくり光る。
カシャッ。
佐藤葵は三脚を立て、シャッターを切った。
(この光……夜の水田に浮かぶ月……まるで何かが“見てる”みたい。)
ふと、田の畦道の向こうから、ざっ……ざっ……という足音が聞こえた。
人の足音にしては、不規則で、奇妙に重い。
「……誰?」
返事はない。
しかし、確かに、何かが水田の向こう側をゆっくり歩いていた。
(鹿? いや……音の質が違う。)
「冗談……やめてくださいよ?」
もう一度、シャッターを切ろうとしたその瞬間――
背後から、冷たい何かが、そっと彼女の肩に触れた。
「――!」
振り向くと、そこには誰もいなかった。
……いや、水田の奥、棚田の高台――「ボコ抱き岩」のあたりに、白い影が立っていた。
その姿は、腰を折り、髪を垂らした年老いた女。
葵は、言葉にならない声を漏らした。
「や……あれって……本当に……」
月が一瞬、雲に隠れた。
……その直後、彼女の姿は、跡形もなく消えた。
翌朝。
棚田の一角で、農作業をしていた地元の男が、遺体を見つけた。
「おい、これ……足と腕だけだぞ?」
池に浮かぶのは、白いスニーカーの片方。
さらに、少し先の畦に、泥と血にまみれた白いワンピースの布。数匹蝮が絡まっていた。
警察が駆けつけたのは午前8時。
現場の警官が無線で報告する。
「被害者の氏名、佐藤葵。東京都杉並区在住、31歳。昨晩、姨捨駅を下車したという記録あり。スマホは見つかっていません。」
昨日赴任した刑事の遠藤は、手帳を閉じ、棚田を見渡した。
「昨日の夜は満月だったな。」
「ああ、“田毎の月”の日だ。観光客も珍しく来るらしいが……こんな時間まで残るのは変だな。」
遠藤は農民に話しかける。
「この辺、最近おかしなことは?」
「さあ……変なことっちゃ、まあ、いつも“ある”ような場所ですから。」
「たとえば?」
男はしばし黙ったのち、小声で言った。
「……あんたら、本当に信じるかどうか知らんけど……“姥”が、出るって噂があんです。」
「“姥”?」
「はい。白い着物の、腰の曲がった婆さんが、夜の田に立ってるって。昔は“山に棄てられた”て言ってたが……今じゃ、月夜に出て、誰かを呼ぶそうです。」
「誰かを呼ぶ……?」
「“戻れないように”するんだと。ほら……昔、60越えたら山に捨てたでしょう。そういう婆さんの祟りって話です。」
遠藤はふっと鼻で笑ったが、その目は真剣だった。
「迷信にしちゃ、リアルすぎるな。」
「去年も、40人……行方不明になってます。」
「なんだって?」
「ほとんどの登山客が、冠着山の鳥居平コースに入ったまま、戻らなかった。……登山道の途中で、足跡が消えたってさ。今回と違い、何も遺品が無いから事件性も無しにされてます。怠慢ですね。」
遠藤はその場に立ち尽くした。
揺れる月、蛍の光はどこか冷たく、池は底なしのように感じられた。
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