中身のない物語集(お馬さんがいっぱい)

ミスターチェン(カクヨムの姿)

第1話 真夏の直線に、誇りは風と舞う

新潟の夏は、熱を孕んだ風が、芝の匂いとともに吹いてくる。

海の香りを含んだその風が、千メートルの芝の直線を駆け抜けるとき、

わたくしの心は、今もあの夏の日へと還っていくのです。

ただまっすぐに、風と並んで――あるいは、風を超えて。

わたくしたちは走りました。


その年、新潟に“新たな挑戦の場”が設けられました。

それは、世界でも稀なる――曲がらない競馬。

コーナーがない。駆け引きも読み合いも通用しない。

ただ、スタートからゴールまで千メートルの一直線。

速さと覚悟だけが問われる、真夏の純粋な一騎打ち。

その直線は、まるで、わたくしのために用意された舞台のようでした。


わたくしは、名のある血統の生まれでございます。

母も祖母も、気品と強さを併せ持った、誇り高き牝馬たち。

ですが、時代は移ろうもの。

いつしかその名も「古き良き」と過去形で語られ、

わたくし自身も、地味な短距離戦を数多くこなす日々を送っておりました。

注目などされない。勝っても話題にはならない。

それでも、わたくしは走っておりました。静かに、誇りを胸に。

けれど――あの日だけは違いました。

「君の脚に、夏の風を託す」

調教師のその言葉に、わたくしの胸は、懐かしい熱で満たされました。

幼いころ、放牧地を駆けていたあの感覚。

風とたわむれ、空を裂くように走った、あの自由なひととき。

わたくしの中に、それはまだ確かに残っていたのです。


ゲートが開いた瞬間、すべての音が消えました。

聴こえるのは、自らの心音と、夏風のささやきだけ。

わたくしは、一歩、また一歩と風を裂きながら、芝を蹴り続けました。

ライバルたちの気配が左右に流れていく。

けれど、視線はただ前だけを見据えておりました。

「わたくしは、わたくしの誇りと走るのです」

その思いだけが、燃えるような陽射しを凌駕し、

一歩ごとに、空気すらも置き去りにしていきました。

最後の100メートルで、わたくしは確信いたしました。

「この風は、わたくしのもの」

そう――いま、わたくしは、風になっていたのです。


その夏の直線レースは、“新しい時代の象徴”として語られました。

わたくしの名も、初めてその舞台で風を制した牝馬として、密やかに記録されました。

時を経て、記録はやがて塗り替えられ、わたくしの名も徐々に風に溶けていくでしょう。

ですが、それで構いません。

わたくしが残したものは、数字ではございません。

「名門の誇りは、まだ生きている」

そう証明した、たった千メートルの軌跡。

それが、わたくしに託された役目であり、使命だったのです。


いまも、新潟の直線には、あのときの風が残っている気がいたします。

後輩たちの軽やかな蹄音が、夏の空に跳ねるたびに、

わたくしはそっと目を細め、こう祈るのです。

「行きなさい。風に乗りなさい。誇りを忘れずに――」

それが、わたくしから受け継ぐ者たちへの、ささやかな贈り物。

真夏の直線には、今も風が吹いております。

かつてわたくしが感じた風と、変わらぬ強さで。

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