私の婚約者は龍でした
杏樹
ふつつか者ではございますが
「お前の婚約者だ」
久しぶりに父が戸を開けて話しかけてくれたと思ったら、紙を投げ捨てられた。
地面に落ちた紙を拾おうとした姿を見て父は私の頬を叩いた。
「そんなはしたない女を貰ってくれる男がこの世にいるなんて信じられないな」
勢いよく戸を閉めて、父はいなくなってしまった。
頬がジンジンと痛む。
視界が歪みながら、私は紙を全て拾った。
ポロポロと落ちる涙で文字が歪んでしまった。
「天龍家…」
私でも知っているその名前に息を飲んだ。
田舎にある大きな屋敷に住んでいる主はなんでも特別な力を持っていると言う噂だ。
今まで嫁いだ子が行方不明になったり、事故にあったりと災いが起きている。
そのため、天龍家に嫁がせる家は減った。
ただ、天龍家は神様の血筋とも言われており街のために生贄になれと言われる子も少なくはない。
実際に生贄に効果があるかどうかは分からないが、何もしないよりはましなのだろう。
私は誰にも愛されず、要らない子。
もし天龍家に嫁いで死んだとしても別にどうでもよかった。
次の日、母に普段よりも綺麗な着物を準備してもらった。
「妻として旦那様を精一杯もてなすのよ」
母は私と目を合わせてくれない。
もう一人誰かいるのかと思うくらい違う場所を見て私と話す。
最低限、清潔感が出るように髪の毛を結った。
手入れなどほとんどしたことのない髪は千切れ、見苦しいものだった。
「失敗したら帰る場所は無いと思え」
出発の時、父が玄関に顔を出した。
小さく頷いて父の目を見ると唾をかけられた。
「これでお前の顔を見なくて済む」
初めて乗る牛車に緊張しながらも、小さく一人の空間は少しだけ安心した。
凸凹した道で揺れが気になったが、同時に眠気が襲ってきた。
「お嬢さん、着きましたよ」
外を見渡すと、森のような場所で家は無かった。
「この後、私はどうしたらいいのですか?」
一気に不安に襲われた。
父が私を捨てるために牛車を用意し、ここで死ぬのを待たなくてはいけないのかもしれないという可能性が頭をよぎった。
「私はここに連れてくるよう頼まれただけなんだ。料金も前払いだし、悪いけどここで降りてくれ」
優しい声だが、面倒だと言っているのがひしひしと伝わる。
小さな荷物を抱えて、私は立ち尽くすことしか出来なかった。
日が暮れて、少し肌寒くなってきた。
着物はこれ一枚しか持っていない。
少ない荷物の中に、寒さをしのげるようなものは何もなかった。
ぽつりぽつりと小さな雨粒が空から降って来た。
どんどん体温が奪われていくのが分かる。
帰る場所も行く場所もない私は、ただここで立ち尽くすことしか出来なかった。
せっかく結った髪も、綺麗な着物も台無しだ。
「もう…いいや」
全てを諦めた私はぐちゃぐちゃな地面に座り込んだ。
下半身が一気に冷えていくのが分かる。
「お主、このままでは死ぬぞ?」
人の声が聞こえた。
振り返ると、若い男の人が一人立っていた。
目を逸らし、地面を見つめた。
水たまりに映る自分の姿を惨めだと感じた。
「なぜ帰らぬ?」
足音を立てながらゆっくりと近づいてくるその人は一体何者なのだろうか。
「私に帰る場所などありません。もちろん行く場所も」
水たまりに映る惨めな自分を消すかのように波紋が広がる。
太陽も完全に沈み、本格的に死を予期した。
もし次に生まれるときは今よりも少しだけでいいから温かい家族に恵まれたい。
「…眠れ」
その人に従うかのように私は瞼を閉じた。
次に目を覚ますと見知らぬ天井に混乱した。
「起きたか」
声のする方を見ると、昨日の男の人があぐらをかいて私を見つめていた。
「天龍咲夜。お主の名は?」
少し離れた場所から低い声が聞こえるこの空間に新鮮さを感じた。
「白鷺琴乃と申します」
必死に声を出したが返事がないので少し心配になった。
「お主はなぜあんなにも早くからあそこにいた?到着は夜の予定だっただろう?」
眠る前の事を思い出した私は『天龍』という言葉に驚いた。
「無礼を承知で申し上げますが…あなたは私の婚約者の天龍家の方ですか?」
その人はゆっくりと首を縦に振った。
「いかにも。我がお主の婚約者、天龍咲夜だ」
頭が真っ白になった。
「も、申し訳ございません。どうかお許しください」
私は今に至るまで無礼な態度をとりすぎた。
叱責されてもおかしくない程に、失態を犯してしまった。
重たい体を無理やり起こし、正座をした。
そして勢いよく頭を床につけた。
このままでは本当に捨てられてしまうと思った私は誠心誠意を込めて謝罪をした。
無言の天龍さんに心臓の音が鳴りやまない。
「すまぬが何に謝っておるのか分からぬ。まずは顔を上げろ」
ゆっくりと顔を上げると、さっきと変わらない顔で私を見つめていた。
「結婚の条件、お主は聞かされたか?」
もしかしたらあの紙に書いてあったのかもしれないが、涙のせいで文字が滲んでしまい所々、読めない箇所があった。
私が何も返事しないでいると、天龍さんは立ち上がってこちらに来た。
近づいてくることで大きくなる体に、私は全身の震えが止まらなかった。
「夜、我が部屋にいる時に戸を開けるな。入って来るな。それだけ守ってくれればよい。あとはお主の好きにしてくれて構わない」
近くで見ると、顔立ちが綺麗なことを知った。
きめ細かな肌にサラサラな髪。
「好きにとはどういう?何をすればいいのでしょうか?」
ここに嫁ぐとき、妻としての立ち振る舞いを教えてもらった。
旦那様の要望にだけ応え、尽くす。
それが妻として最大限出来ることだと教わった。
「好きなことをすれば良い。読書や料理。散歩も良いのではないか?」
私の好きなことをすれば旦那様は喜んでくれるのだろうか。
なんだかとても不思議な人だと思った。
「好きなことですか…承知いたしました」
私にはよく分からないがそれが旦那様からの要望であれば応えなくてはならない。
「旦那様は普段、どのようなお食事をされていますか?」
私に出来ることなら何だってしようと思った。
「食事か…適当だ」
少し考えた旦那様は不思議そうに私を見た。
「我の食事など聞いてどうする?」
「えっと…もし嫌でなければ作ろうかと。…烏滸がましいでしょうか?」
私のような醜い人間が作った食事を旦那様は食べてくれるのだろうか。
一気に冷や汗をかいた。
「お主が作ってくれるのか?」
驚いた顔をして私を見る旦那様に私まで驚いた。
「妻というのはそういうものでは無いのでしょうか?旦那様に尽くすと教えられました」
きょとんとする旦那様に私は焦ってしまった。
「さぁ?今まで嫁いできた者は少なくともしなかった。故に興味がある」
手招きをしながら歩く姿勢はとても綺麗だった。
その背中に見惚れながら、私は足を進めた。
「好きなように使え」
台所に案内された私は周りを見渡した。
「旦那様はどうかおくつろぎ下さい。お部屋に持って行きます」
私が料理を作ろうと動く間、旦那様は一歩も動かなかった。
「気にするでない。我の意思だ」
お米を炊いて、梅干の種を抜いた。
その間に味噌汁を作った。
じっと見られている私は戸惑いながら、料理を作り終えた。
旦那様の食事を運ぼうとお盆を持つと止められた。
「自分で持とう。お主はお主の分を持て」
私が持っていたお盆を取り上げてそう言った。
「私も一緒に食べるのですか?」
旦那様の発言に驚いた私の顔を見て不思議そうな顔をしていた。
自分の分のご飯を持って歩くのはこれが初めてだった。
旦那様が食べ始めるのを待っていると、『なぜ食べ始めぬ』と聞かれた。
「毒でも入っておるのか?」
軽く笑いながら、食事を見つめる旦那様。
「そ、そんな!絶対にそんなことしていません。ただ、食事というのは旦那様が先に召し上がるのが普通かと…」
納得してもらえたようで、旦那様は箸を持って味噌汁を口にした。
「これでお主も食べられるのだろう?」
小さな声で『いただきます』と言って手を合わせた。
誰かと一緒に食事をしたのはこれが初めてだった。
「お主らの作法とやらは分らぬがそんなに気を張らずともよい。気楽にせよ」
噂とは誰かが感じたことを誰かに話し、原形を留めていないことが多い。
今回のこの一件でそれを実感した。
「この度、政にて天龍様の元へ嫁ぎ参りました、白鷺と申します。右も左もわからぬ身ではございますがどうかお導きの程宜しくお願い申し上げます。…ふつつか者ではございますが、どうか…よろしくお願いいたします」
こんなにも優しいお方の側にいられるとは私は幸せ者だ。
私と目を見て話してくれる人は旦那様が初めてだった。
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