生き延びることの、異常な手触り
自分の痛み耐性が平均以下なのは、ずっと自覚していた。
だからこそ、手術だけは避けたいと思っていた。
手術を回避できたと思った矢先のことだった。
結局、緊急手術になった。
痛みで、この世が理不尽だと本気で思った。
担架で運ばれながら、天井を見ていた。
病院の天井は、あんなにも無機質だっただろうか。
いつも見慣れているはずのものなのに、
見上げる視点が違うだけで、世界はこんなにも変わって見える。
通路。
エレベーター。
廊下の蛍光灯。
全部が、どこか別世界のものになっていた。
手術台に乗せられる。
ドラマでよく見るやつと、同じ。
でもいざその上に寝かされると、
まるで自分が“試される側”に回った気がした。
ここからは、自分が祭壇の上に捧げられた生贄のようだ──
そんな感覚が、自然に頭をよぎった。
カテーテルを入れられたときの衝撃。
背中から麻酔を打たれるときの戦慄と、押し込まれる感覚。
もう、どこが痛いのかもわからなくなっていた。
麻酔ってのは、信用ならない。
保冷剤を当てられて「冷たいですか」と聞かれ、
もう感覚なんてなかったのに、
反射的に「はい、冷たいですね」と答えてしまう。
“もう効いてる”のに、“まだ大丈夫”と嘘をつく。
どちらがほんとうかわからないまま、
身体だけが勝手に正解を選んでしまう。
手術中、痛みはないのに感覚はあった。
はらわたに他人の手がつっこまれる感覚。
体内に風景が逆流してくるようで、吐きそうになった。
気づけばいつのまにか手術は終わり、
地獄はやっと過ぎた。
──生還、とでも言おうか。
でも、ほんとうの地獄は手術後だということを、このとき初めて理解した。
麻酔──あれは、得体の知れない寒さで身体が勝手に震える。
効いている間は、世界の輪郭が白く曇っている。
やがて切ったことをじわじわ知らせてくる、時限爆弾だった。
「尿量が少ないから点滴増やすね」
そりゃそうだよ、と思った。
痛みで汗がすごいんだから。
「点滴抜いてもらっていいですか」と、心のなかで唱える。
針を刺されたままって、気が狂いそうだ。
寝返りして折れたらどうすんの?
いや、そもそも寝返りできないけど。
「水分取ってね」って、わかってる。
わかってるってば。
でも飲んだら最後、内臓が動いて、
表面の傷の痛みと内側からの襲撃。
ギュルって動くたび、意識が飛びかける。
──そして始まる、地獄の歩行訓練。
普段、身近な存在である重力が猛威を振るい、
体内で無数の刃物が暴れ回るようだった。
自分の体のはずなのに、コントロールがきかない。
動作不良のように思考も、肉体も全停止。
制御不可能。ああ、死にそう。
なんかもう、人間って、痛みが限度を超えると笑ってしまうらしい。
笑ったら激痛なんだけど。
つまり、地獄の無限周回。どんな回遊魚だよ。
腹を切ったのに、生きていること自体が不思議だと思った。
……まあ手術だからなんだけど。
それでも、あの蛍光灯の光は、
この世の煉獄の照明みたいに思えた。
これは私個人の解釈にすぎないけれど──
あの日々、あの手術室は、ほんとうに煉獄だったと思う。
そして、友人に「お前だけじゃね……?」って言われたことは、
そっと胸にしまっておく。
──ただ、これは強調しておきたい。
あの現場で働く医師も看護師も、みんな淡々としていたけれど、その“淡々”こそが救いだった。
自分が震えていても、笑っていても、まともじゃなくても、誰も揺らがない。
あの人たちの冷静さに、自分の命は預けられていた。
尊敬と感謝しかない。
もし煉獄に見えたとしても、その中で自分を生かしてくれたのは間違いなく彼らだった。
でもきっと、あの白い光の下で横たわった誰かには、
同じ温度の煉獄が、きっとあったと思っている。
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