風と、ミントと、眼球と
あの森にいた日のことは、
なぜか“寒い”という感覚で記憶している。
気温ではなく、空気の質感そのものとして。
夏だった。
虫除けも兼ねて、友人がハッカ油を持ってきていた。
肩掛けバッグから取り出したとき、そのキャップの軽い音がした。
透明で、細くて、頼りないボトルだった。
「出ないな……」
友人がそう言って、ノズルを何度かカチカチしていた。
液が詰まってるのか、霧が細かすぎて見えないのか。
あまりにも出ないから、
自分の手で確かめようとした。
噴出口を、覗き込む。
顔に近づけすぎたのは──いま思えば、完全にミスだった。
でも、そのときの自分にとっては「確認」だった。
親指が、反応よりも早く動いていた。
──カチッ
その瞬間、
視界が爆ぜた。
何が起きたのか理解するより前に、
眼球の奥が凍りついていく。
強烈な清涼感。
というよりは、眩しさの触覚版だった。
目を閉じても、まぶたの裏から光が差し込んでくる。
頭の奥で、白い爆音が鳴っていた。
痛みというより、「違和感の暴走」
身体が、自分の意思とは関係なく防御に入っていくのがわかる。
呼吸が浅くなる。肩が揺れる。視界が反転する。
友人の顔は見ていない。
でも、わかった。
息がうわずっていて、
足が半歩ずつ動いていて、
空気の「音」が違っていた。
肌で、そこにいることを感知した。
たぶん同じように、見ていない自分を、
友人も察していたと思う。
しばらくして、ようやく涙が溢れてきた。
目の中のハッカ油を洗い流していく。
鼻の奥まで透き通る匂いが、
粘膜のすべてに貼りついていくようだった。
やっと目を開けられた──
と思った瞬間、第二波がきた。
風だった。
ちょうど森の切れ間から吹き込んだ風が、
涙で濡れた目に直撃する。
ハッカが揮発し、冷気が刺さる。
さっきよりも、むしろ鋭い。
目の中が、白い雪で満たされたような感覚になる。
あまりに非現実な痛みに、
笑ってしまった。
泣きながら、笑っていた。
笑いながら、涙が止まらなかった。
たぶんあのときのあの清涼感は、
目だけじゃなくて、
記憶の中にも噴射された。
いまでも、夏にミント系の匂いを嗅ぐと、
あの白い風景がふっと再生される。
光と、冷たさと、笑い泣き。
──あれは、私の中で一番純粋な「事故」の記憶だと思う。
でも、ちょっとだけ嬉しいのは、
あの日いっしょにいた友人が、
「出ないな」って言っただけで、何も責めなかったこと。
あの無言の共有が、
実は一番沁みた。
ミントのように、静かに、
でもしばらく消えない記憶だった。
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