降ってきたものは、いまも隣にいる
あのカエルと暮らしはじめたのは、学生時代だった。
外国産で、色は深い緑とすこしの金属光沢。
名前は──ある。
でもここでは、恥ずかしいから伏せておく。
最初は、手のひらにのるくらいの大きさだった。
毎日水を替え、餌をやり、成長を見守った。
成長は、嬉しかった。
でも、少し──胸騒ぎがした。
ケージのロック部分に、何度も前足をかけていた。
無言のまま、力を測っているように見えた。
日に日に、その足の筋肉が張りを増していくのが分かった。
ジャンプ力も、壁への吸着力も、明らかに強くなっていた。
そのたびに「まあ大丈夫だろう」と思いつつ、
どこかで「いつか抜ける気がする」とも思っていた。
そして、その“いつか”は──ある休日の朝にやってきた。
部屋のドアが唐突に開いた。
母だった。
ノックをする余裕もないほど慌ただしく、
言葉にもなっていない息のまま、転がり込んできた。
そして口だけが、繰り返している。
「降ってきた……降ってきた……」
意味がわからなかった。
でも、ただ事ではないことだけは伝わった。
リビングに行くと、窓ガラスにそれは張り付いていた。
そう、あのカエルだった。
ケージの蓋が、少し開いていた。
ロックが甘かったのか、こじ開けたのか、定かではない。
脱走したらしい。
朝、母がカーテンを開けたとき、
天井付近のカーテンレールに、何かがいたのだという。
それが重力に従って、真下に“降ってきた”。
あまりにも正確に、あまりにも無言で。
見上げた先から、まっすぐ降下してきたそれが、
床に着地するより早く、「カエル」と認識されたとき──母の動きは完全に止まったらしい。
けれどあの日は、叫ばずに、転がるように私の部屋に来た。
逃げるんじゃなくて、“託しに”来たようだった。
私はすぐにカエルを捕まえて、戻した。
いつものケージに、少しだけ重く感じる体で収めた。
それで騒動は終わった。
でも、たぶんそれ以降、
母はあの窓の前で、少しだけ慎重になった気がする。
あれから10年以上が経った。
私は実家を出て、カエルも一緒に連れてきた。
いまも、そばにいる。
あの日と同じ顔をして、
でも体はずいぶん、大きくなった。
名前は呼ばない。
でも、気配はいつも感じている。
あの降ってきた日から、
このカエルはただの「飼っている生きもの」じゃなくなった気がする。
重力を受け入れながら、
静かにこちらの生活に降りてきた存在。
それを受け止める手が、
たまたま自分の手だっただけだ。
生きものって、ときどき、そういう入り方をしてくる。
空から降ってきて、人生の真ん中に棲みつく。
──いまも、窓のそばでこちらを見ている。
跳ばずに、降らずに、ただ、そこにいてくれている。
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