第10話 ふたりだけの小さな城①
梅雨に入り、毎日がどんよりと重苦しい。
一回目の定期テストもつつがなく終わった私は、小休止。母の言いなりになるのは癪だが、今後どこか別の大学の推薦を受けるとなったときのために、テスト勉強はそれなりに頑張った。真面目にコツコツは得意だ。
ただでさえ憂鬱な月曜日、しかもテスト明けと来ては、授業中でも気が抜けて、ぼんやりしてしまう。
「こら」
空模様に気を取られていたら、タイミングよく先生の叱責が飛ぶ。慌てて居住まいを直したけれど、先生の標的は私ではなくて、隣の席だった。
「そーとむらー。起きろー? お前、もう古典の時間だ」
日本史の教科書が出しっぱなしの机の上を見て、先生は深く溜息をつく。クラス中の視線やクスクス笑いが突き刺さっても、外村くんはしばらく、ぼんやりしていた。
ようやく目の焦点が合ってきたかと思えば、「あれ? 木村先生? あれ?」と、なぜ自分の記憶にあるのと違う先生が、目の前にいるのかわからないでいる。
二度目の溜息は、諦めを色濃く含んでいた。
「クラスメイトの勉強の邪魔だけはするなよ」
口調はあくまでも優しかったけれど、それは表面的なものだ。本当に外村くんのことを思う先生ならば、もっとガツンと叱っている。
芸能界への道をひたすら突き進む外村くんは、学校の異分子だ。卒業後の多様な進路を謳っていても、結局一番重視されるのは、難関大学への進学実績。
そこに一ミリも貢献しない外村くんを、一部の教師は持て余している節があった。
「はい。すんません」
外村くんがペコリと頭を下げることで、授業はようやく始まった。この時点で、五分以上押している。
日本史の教科書をしまって、古典の準備をし始めた外村くんだったが、ガサゴソと机の中、それから鞄を漁ったが、目当てのものは見つからなかったらしい。私とは逆サイドの男子に小さく声をかけるも、舌打ちひとつ返されて、無視されてしまう。
困った外村くんは、私に向き直った。本当は、男子に見せてもらいたかったのだ。
「教科書、一緒に見てもええ?」
無言で頷いて、自分から机をくっつける。他意はない。そう、他意はないの。
だから、鋭い視線を送らないでくれるかなぁ、綿貫さん……。
昼休みには、彼女と裏庭で待ち合わせている。そのときに、何を言われることか。和解したとはいえ、不用意に外村くんに関わるのは、彼女の逆鱗に触れる。
背後に「ごめんなさい」「何もしていません」「誤解です」など、弁解を書いた紙を貼りつけたい。
教科書を覗き込むついでに、外村くんの横顔も目に入った。
くっきりと二重のラインが刻まれた目蓋は、普段よりも重たそうだ。どうにか目を開けて文字をなぞり、瞬きをする。けれど、どうも頭の中には入っていない様子。
頬杖をついて、彼は頭を右手に預けている。思いのほか長い睫毛に気を取られかけて、その下の青黒く疲労感を押し出す隈に、ハッとする。
コンサートまで、あと二ヶ月。
去年の秋まで関西にいた外村くんのホームグラウンドは、大阪にある小規模の劇場だった。同じウェスタンクルーの仲間たちとともに、演劇やコンサート、事務所主催のステージに立ち続けていた――という話を、綿貫さんから聞いていた。
『あれで大地、関西じゃあ人気があったのよ。だから、なんで東京に来たのかなって』
『そりゃあ、デビュー実績だけ見れば、東京の方が圧倒的に多いけど、関西クルーの雰囲気、よかったから』
アイドルオタクの彼女の分析でも、それなりに順調だった外村くんの移籍の真意はわからなかった。東京は、彼にとってアウェーの地だ。小学生ならいざ知らず、高校生にもなれば、必ずしも親の転勤についていかなければならない、ということもない。
上京は、彼自身の意志だ。
東京所属としては、初めての公演。なじみのあるクルーの名前はない。
私には想像できないプレッシャーがあるに違いない。レッスン量も増え、その合間に学校に来ているようなもの。休み時間はみんなに囲まれているし、気の休まる暇はない。
本当に、大変なんだ。
外村くんが気になり始め、綿貫さんの萌え語りに付き合うようになってから、彼の先輩アイドルがテレビに出ると、今までとはちがった目で見るようになった。
きらびやかな世界で、明るく笑っている彼らもまた、寝る間を惜しんで努力をしてきたのだろう。
外村くんの今後を思うと、胸の奥がぎゅっとなった。
何か、私にできることはないだろうか?
もちろん、コンサートに行ったり掲載されている雑誌を買ったり、ファンとしての行動は当たり前にするけれど、もっと他に何か、学校の友人としての私が、できることは。
せめて、ひとりでゆっくり休息できる場所があればいいのに。
授業そっちのけで頭をフル回転させて、私はひとつの答えを導き出した。
机がくっついている、今のうちだ。
サラサラと教科書に短くメッセージを書きつける。それから、本格的に船をこぎ始めた外村くんの腕を、ツンツンとシャープペンシルの頭でつついて起こす。
「ん……」
声を出さずに、「外村くん」と呼びかけ、教科書を指した。
寝ぼけ眼の彼は、私の指先に書かれた言葉を見て、二度、三度瞬きをした。驚きで眠気はすっきりと覚めたらしい。
『ええの?』
いつもは大きく動く口を、周囲をはばかって彼は控えめに動かした。私は頷く。
『放課後や昼休みに、地学準備室を使って。開け方、わかるよね?』
私の提案した文章の下に、外村くんはさっと書き込みをした。後ろから見ても、不自然にならないように素早くペンを動かし、すぐに離れる。
『ありがとう』
正直、小学生のうちの弟の方がよっぽどきれいな字を書くと思う。「り」は「い」とほとんど同じだ。
初めてまじまじと見た文字は、彼らしい。伸びやかに見えて、けれどどこか、窮屈そうでもあり。
私はそっと、外村くんに気づかれないように、その文字をなぞった。
大学に入っても、社会人になっても、この教科書は一生捨てることはできないだろうと思った。
「ねぇ、さっきの古典の授業中だけど!」
来た。
裏庭に遅れて到着したと思ったら、開口一番、四時間目の授業中のことを尋ねてくる。予想通りだった。
「外村くんが教科書忘れたから、一緒に見てただけです。逆隣の子に、無視されてたから」
準備していた回答を、一息に言った。綿貫さんは、視線を中空にさまよわせて、座席配置を思い出していた。ああ、と納得したのを見て、緊張を解く。
「あのガリ勉相手じゃ、しょうがないか」
そう言う綿貫さんも実は、テストの点数がいい。天は二物を与えないというけれど、彼女の場合は当てはまらなかった。頭もいい、顔もいい、それから運動神経もいい。まさしくスーパーヒロイン。
ただし性格はいいとはいえない。いい性格をしている、なら正解。でも、そういうところも嫌いじゃないと、最近思えるようになってきた。
もっと本性を露わにして生きていっても、いいんじゃないか。
彼女の秘密を共有するようになってから、私はそんな風に感じている。
大好きなアイドルの話をしているときの綿貫さんは、教室ですましているときよりも、よっぽど可愛いのだ。もちろん、勢いとマニアックな知識に引いてしまう人もいるだろうけれど、逆に興味を持って近づいてくる人もいると思う。
知らず、彼女を見る目が生温かいものになっていたのだろう。綿貫さんは、「何よ?」と、変わらず高飛車に胸を張り、私を問い詰めてくる。
彼女のこういう仕草を見ると、どうしてこれまでオタクだと見抜けなかったのか、不思議だ。千里子と同じくらい、大げさな動作なのに。
何でもないと首を振って、「そんなことよりも」と、スマホを取り出し促した。
「結果、一緒に見るんでしょう?」
綿貫さんの顔が、にわかに緊張した。私もまた、似たような顔をしているだろう。ううん、初めてのことだから、もしかしたら彼女以上かもしれない。
今日は、外村くんが出演するコンサートのチケット当落発表日だった。登録したメールアドレスに、昼の十二時に届く。
現在時刻、十二時半過ぎ。
件名とアドレスで、とっくに届いていることは確認済みだが、開封はまだ。綿貫さんが、「一緒に見て!」と、すがりついてきたから。
研修生とはいえ、その人気はデビュー済みの先輩たちに劣らない。特に、綿貫さんイチオシの
彼女の推測によれば、彼がクルーの一員としてステージに立つのは、今年が最後。つまり、デビューのお知らせが今年中にあるということ。絶対的センターとして、クルーを従える瀧口藤馬を見なければならないと、ファンたちは熾烈なチケット争奪戦を繰り広げる。
ファンクラブ先行とはいえ、ゲットできない可能性が高い。そんな脅しを受けていたため、私の手は微かに震えている。
「い、いくわよ」
同時にメールを開封する。深呼吸のせいで、ワンテンポ遅れてしまった。その間に、綿貫さんは「ああああ」と、崩れ落ちる。どっちの反応なのか一瞬わからなかったけれど、スマートフォンを投げ捨てたので、おそらく。
「はずれた!」
やっぱり。
ファンクラブに入って四年あまり経つという彼女の名義でも当たらないのだから、期限ギリギリに入会した私の名義でなんて、無理だろう。
それでも動悸は収まらない。タップして開けたメールを、恐る恐る目を細くして見る。
「どうだった……?」
しゃがみこんだ綿貫さんが、気遣うような視線で見上げてくる。 私は目を瞠ったまま、固まっていた。そして、「あの、これ……」と、彼女に画面を見せる。
「当選、って、書いてある……よね?」
おめでとうございます。第一希望当選です。
ただそれだけの文言が、光って見えた。
綿貫さんは呆けて口を開けていたが、次の瞬間、跳ね上がって私の肩を叩いた。
「おめでとう!」
自分は落選したというのに、彼女は素直に祝福してくれた。その言葉に、じわじわと実感が広がっていく。
そうか。私、ステージに立つ外村くんに、会えるんだ。
いつも隣の席にいる彼とは違う、もうひとりの外村大地。夢に向かって努力する彼の、晴れ舞台だ。
隣の綿貫さんは、「まだまだ復活当選の可能性もあるし、とりあえず、転売屋たちを通報するわよー!」と、意気込みながら、早速拾い上げたスマホを弄っている。
「あの、綿貫さん」
私は当選画面をスクロールして、突きつけた。訳がわからないという顔の彼女に、指で該当箇所を示す。
「わ、私、二枚で申し込んだの。だから……」
二ヶ月前には、まさかこんな風になるなんて思っていなかった。険悪な関係だった彼女を誘うのは、勇気が必要だった。実際、教室の中では堂々と話すことは、いまだにできない。
でも、彼女のアイドルへの情熱は本物だし、私はもっと近づきたいとも思い始めている。
「一緒に、行きませんか?」
自然と右手が前に出るし、頭が下がる。高嶺の花の美女をデートに誘う気分だった。
私なんかと一緒に、会場に入りたくないと言われてしまうかな。
そんな不安は、杞憂だった。
差し出した手に触れられたかと思うと、ぐっと強く引かれた。バランスを崩して倒れかける私を、綿貫さんはハグした。
「心の友よ」
どこかの漫画のキャラクターみたいなことを言って、感謝の気持ちを全身で表してくれるのは嬉しいんだけど、さすがに苦しい。背中を叩いてギブアップの意志を伝えても、彼女はしばらく離してくれなかった。
「あのね、綿貫さん。私、何もかも初めてだから、いろいろ教えて」
「喜んで」
彼女は誰もが認める美しい笑顔を浮かべた。
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