サイケデロスサーガ ―異世界で目覚める無色の力―

黒ノ壱号

第1話 「居酒屋の夜、そして……」

 ――雨が降っている。


 だというのに、街は燃えていた。


 焼け焦げた匂いと、濡れた石畳から立ち上る蒸気が、鼻を突く。




 「……ああ、俺はこのまま死ぬんだろうな。」




 体が、もう動かない。


 握っていた警棒は手から滑り落ち、泥に沈む。


 目の前には聖王国の兵士たち――精鋭部隊だろう。


 鋭い槍の穂先が、無力な俺に向けられていた。




 終わりだ。




 そう思った、その瞬間。




 ――ゴオンッ!




 大地を割るような雷鳴が轟いた。


 目の前の兵士たちが、一瞬にして黒焦げとなり、次々と地に倒れ伏す。




 何が起きた? 理解が追いつかない。




 そして。




 「……やっと見つけたよ――父さん。」




 ゆっくりと歩み寄ってきたのは、一人の男。


 黒髪の長い髪が雨に濡れ、紅の瞳が炎の光を映している。


 その男は俺を見下ろしながら、静かに微笑んだ。




 ――魔王イチ。




 俺は、そのとき初めて、自分がどれほど取り返しのつかない世界に足を踏み入れたのかを知った。




 ***




 そして話は――1年前に遡る。




 「お前さ、本当に一生独身でいくつもりなのか?」


 「それにお前の後輩、ショウちゃんだっていい歳だし、あの子お前のこと好きだろ?」


 「あんな凄い美人で出来た後輩が近くに居て、恋愛にならない訳?」




 唐突にそう言い放ったのは、向かいでグラスを片手にしているユウだった。


 切れ長の目に整った顔立ち。酔っているのか――いや、こいつはいつもこんな調子だ。




 「ほっとけよ。」


 イサムは面倒くさそうに答え、グラスのビールを一気に流し込む。




 「ほっとけるかよ。もう三十七だぞ? 刑事って肩書きで婚活パーティー出たら、引く手あまただろ。なにやってんだよ。」


 「俺はそういうのいいんだよ。」


 「はーあ、もったいねぇ。」




 隣でカジが、苦笑いしながら唐揚げを箸でつまんでいる。


 スキンヘッドにサングラスという威圧感のある風貌だが、口を開けば大抵大人しい。




 「まあまあ、ユウさん。イサムさんはそういう人っすから。」


 「カジ、お前も言えよ。こいつこのままじゃ孤独死だぞ?」


 「でも俺、独身も悪くないと思いますけどね。気楽だし。」


 「……お前までイサム派かよ。」




 くだらない会話。だが、イサムにとってはこういう夜が心地良かった。


 刑事として張り詰めた日々の中で、肩の力を抜ける数少ない時間――。




 「そういやユウは?」イサムが話題を変えるように言った。「お前だって結婚とか考えてないのか?」


 「俺? 俺はまだまだゲームで食ってけるし。結婚なんて縛りプレイだろ。」


 「お前の方がよっぽど自由人だな。」




 そんな時――。




 「……あのさ。」




 ふいに、背後から声がした。




 振り向くと、少し離れた席で後輩のショウが立っていた。


 長い黒髪を後ろでまとめ、スーツ姿のまま。彼女は少しばつが悪そうに笑って、こちらのテーブルを指さした。




 「お疲れさまです。偶然ですね、先輩方。」


 「おう、ショウか! お前も飲んでけよ。」ユウが軽口を叩く。


 「いえ、私は……」




 言いながらも、彼女の視線はイサムに向けられていた。


 何か言いたげに唇が動いたが、結局言葉にはならなかった。




 ――その瞬間だった。




 轟音。


 まるで世界が破裂したかのような衝撃。




 視界が真っ白に弾け、全身が宙に浮く。


 熱い。息ができない。誰かの悲鳴。




 何が起きたのか理解する間もなく、イサムの意識は闇に飲み込まれた。




 冷たい風が、頬を撫でた。


 鼻を刺すのは、湿った土と獣の匂い。


 耳に届くのは、木々のざわめきと遠くで鳴く不気味な鳥の声。


 足元の地面は柔らかく、まるで何か生き物の上に立っているかのような不快さがあった。




 目を開けると、そこは居酒屋ではなかった。


 緑に覆われた大地。見たこともない巨大な木々が鬱蒼と茂り、遠くで異形の獣が咆哮を上げている。


 空はどこまでも重く曇り、淡く光るひとつの月が雲間から覗いていた。




 ――夢じゃない。


 瞬時に、そう理解した。




 「ユウ! カジ!」


 イサムは周囲を見渡す。倒れ伏す二つの影が目に入った。


 土を蹴って駆け寄り、肩を揺する。


 「おい、起きろ!」


 ユウがうめき声をあげ、ゆっくりと目を開ける。カジも呻きながら体を起こした。


 「……ここ、どこだ……?」ユウが息を整えながら呟く。


 「わからん……でも立て。とにかく、動けるか?」


 二人が頷くのを確認した。




 その時――。




 「来るぞッ!」




 低く唸るような声と同時に、茂みが揺れる。


 巨大な影が飛び出した。




 反射的に、俺たちは逆方向へ駆け出した。




 枝が頬を裂き、泥が跳ねる。


 どれだけ走ったのかもわからない。酒のせいで肺が焼けるように痛む。




 「やべ……もう限界だ。」ユウが息を切らし足を止める。


 「俺も……っす……」カジも前かがみになり肩で息をしていた。




 その瞬間――奴が現れた。




 大蛇。


 いや、大蛇というにはあまりにも異形だった。


 体は樹木の幹ほども太く、黒光りする鱗が連なっている。


 頭部には角が二本。黄色く濁った眼が、俺たちを嘲笑うように見下ろしていた。


 そして――腐臭。胃の奥がひっくり返るような悪臭が鼻を突いた。




 「嘘だろ……こんな化け物……!」




 イサムは咄嗟に腰のホルスターから警棒を抜き、構えた。


 心臓が暴れ馬のように暴れ、手の汗でグリップが滑る。


 刑事として何度も命のやり取りをしてきたが――こんな相手は初めてだ。




 「イサム、下がれ!」ユウが叫ぶ。


 カジが勇敢にも飛び出し、怪物の注意を引く。




 だが――。




 「ぐあっ!」




 鋭い牙がカジの肩を裂き、肉が裂ける鈍い音とともに鮮血が飛ぶ。


 「カジッ!!」


 イサムは渾身の力で警棒を振るって怪物の頭を殴った。


 骨が砕ける感触が手に伝わる――だが、致命傷には程遠い。




 「くそっ、効かねぇ……!」




 大蛇が振り向き、細い舌を出し入れしながら黄色い眼がイサムを捉える。


 次の瞬間、鋭い牙が迫る。




 ――死ぬ。


 そう思った、その時。




 「下がれぇぇぇッ!!!」




 耳をつんざく怒号。


 同時に、閃光とともに巨大な斧が振り下ろされ、怪物の首が吹き飛んだ。




 息を切らしながらイサムが振り返ると、そこには――。




 獣耳を持つ亜人たちの戦士が数人。


 先頭には、カエルの顔を持つ異形の男が立っていた。




 「……人間か。珍しいな。」




 そのカエルの男は、低く笑った。




※続く


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