第3話
あれから、二日後のことだった。
マーチ・ラビットに、アヤネが現れたのは。 金欠のアヤネは最近、店の定休日である火曜日以外、ほとんど毎日、開店から閉店までシフトに入っていた。その彼女が、昨日、急病を理由に休んだのだ。その連絡を受けた時から、キョーコの胸中には、まるで腐ったものを無理やり飲み込まされたような、どろりとした不快感が渦巻いていた。
だから、店の扉が開いて、そこにアヤネの姿を見つけた時、キョーコは思わず大きな声を上げていた。
「アヤネ!」
カウンターを飛び出し、アヤネに駆け寄る。その姿は、心なしか、雨に打たれた野良猫のように薄汚れて見えた。いつも整えられているはずの茶色いボブカットは乱れ、目の下には隈が深く刻まれている。
「……キョーコさん……。昨日は、急に休んですいませんでした……」
アヤネは、キョーコから目を逸らし、伏し目がちに謝罪した。その声は、か細く震えている。
「あんた……大丈夫なの? ……ジョージマの件?」
他のキャストに聞こえないよう、声を潜めてキョーコは尋ねた。 その名前がキョーコの口から出た途端、アヤネの身体から、ふっと力が抜けた。糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。
「アヤネちゃん、大丈夫!?」 「店長ー!」
店内にいた他のキャストたちが、驚きの声を上げて駆け寄ってくる。 キョーコは崩れ落ちたアヤネの肩を抱いて体を支えながら、年長のバイトに鋭く告げた。 「ちょっと裏行くから、開店準備、進めといて」
バックヤードは、キャストたちの休憩室と在庫置き場を兼ねていた。あちこちに積まれた段ボール箱。棚には、それぞれの私物が雑然と置かれている。 キョーコはアヤネをパイプ椅子に座らせると、自身は壁に背を預けた。そして、慣れた手つきでメンソールのタバコに火をつけ、深い、深い溜め息とともに、紫煙を吐き出した。
「……その様子じゃあ……まあ、聞かなくても結果はわかるけどな」
キョーコの声には、呆れと、そしてどうしようもない怒りが滲んでいた。その怒りは、ただひたすらに、アヤネをここまで追い詰めた男、ジョージマに向けられていた。
「あたし、ほんと……ダメだ、あたし……」
アヤネは、壊れたように笑っていた。しかし、その瞳には、もう堪えきれないほどの涙が、膜を張っている。
「昨日、急に休むって連絡あったからさ。あんた、アイツにボコられたんじゃないかって、マジで心配したんだぞ」 あ、休むこと自体は別にいいんだよ、とキョーコは付け加える。 「あんたの身体、もうとっくに限界なんだから」
昨日休んだ、という言葉に触れられ、アヤネの顔が一層、暗く曇った。その変化を見逃さず、キョーコは問う。 「何か、あったんだろ。昨日」
「……もう少しで成功が見えてるから、支えてくれって……でも、もう、お金も本当にないよって、言ったら……」
そこまで聞いて、キョーコの胸中に渦巻いていた不快な予感が、確信に変わっていく。
「アヤネは、可愛いから……」 アヤネの声が、途切れ途切れになる。 「ソープなら……二人で暮らしていくくらい……なんてこと、ないだろって……」
壊れたように。笑いながら、アヤネは泣いた。 その言葉を聞いた瞬間、キョーコは、灰皿が置かれた古びたバーテーブルを、拳で力任せに叩きつけた。ガシャン、とけたたましい音が響き、灰皿が床に落ちて砕ける。
「……あんた、昨日休んだのは……」
先程まで胸の奥に滞っていた嫌な予感が、熱い嘔吐物となって喉元まで込み上げてくる。キョーコはこの不快極まりない現実に、吐き気を堪えることができなかった。
「えへへ……面接に、店の前まで、行ったけど……」
「……」
「あたし、無理でした……」
そう言って、力なく笑うアヤネ。 その言葉に、キョーコは安堵の息をひとつ吐くと、次の瞬間には、アヤネの頭を強く、しかし優しく抱きしめていた。
「……アホ」
キョーコの口から、そんな言葉が漏れる。
「それで、いいんだよ……」
それでいい。お前は、なにも間違っちゃいない。 キョーコは、震えるアヤネの背中を、ただ黙ってさすり続けた。
やがてアヤネが泣き止み、フロアに出るために鏡に向かって化粧を直し始める。その小さな背中を見ながら、キョーコは音を立てずに舌打ちをした。
最近のアイドルは、そのほとんどが地下での活動からファンを増やし、徐々に表の世界へと這い上がっていく。だからこそ、プロダクションは「売れた時の事」を考える。トラブルやスキャンダルの種がないか、事務所は興信所や探偵を使い、「売れる前」に身辺を徹底的に調査するのだ。ソープで働いたという事実は、その調査の過程で必ず暴かれる。そうなれば、もうお終いだ。どんなに才能があっても、そんな爆弾を抱えた娘と契約する事務所など、あるはずがない。つまり、アヤネがソープで働くということは、完全に夢を諦めることを意味していた。
キョーコの怒りは、沸点を超えていた。イライラのあまり、新しいタバコを求めてポケットを探るが、マルボロの箱はもう空だった。くしゃりと握り潰して床に叩きつけ、代わりに親指の爪を、ガジガジと音を立てて噛み始める。
「クソが……マジで、ショーキじゃねえな……」
恋人を風俗に堕としてまで叶えたい夢。そこに、もはや愛などという感傷が存在するはずもなかった。 「正気じゃない」、そのキョーコの呟きに、アヤネがはっとしたように顔を上げた。そして、思い出したように自分のポシェットを漁り始める。中から出てきたのは、あの、黒い紙切れだった。
「……キョーコさん、これ……」
アヤネの震える指が、それをテーブルの上に置く。 執念を無理やり形にしたような、何十、何百と重ねて描かれた黒い渦巻き。バックヤードのオレンジ色の裸電球の下で、それはズルリ、と蠢いたように見えた。
「うわっ、キッモ……。なに、これ……」
キョーコは思わず顔をしかめる。じっと見つめようとしても、脳が拒絶するような、生理的な嫌悪感を覚える紙だった。
「ジョージマ君が……この紙に、というか、多分『渦巻き』に、すごく執着してて……」 家に置いておくのが嫌で、外で捨てようと思って持ってきたのだと、アヤネは言った。
「……何だか解んねえけど……」 キョーコは、その黒い渦巻きを睨みつけながら、確信に近い強い口調で言った。
「アイツが、マトモじゃねえことだけは、よく判った」
昼までのシフトを終えた後、二人は着替える時間も惜しんで、メイド服のままジョージマのバイト先であるライブハウス『コア』へと向かった。
ジョージマが本当に狂ってしまったのなら、その痕跡は、必ずやバイト先にも残されているはずだ。 『コア』の前に着くと、アヤネはスマホを取り出し、誰かにLINEを送り始めた。相手は、この店の雇われ店長であり、ジョージマの元バンド仲間でもあるキムラという男だった。ジョージマが頻繁にバイトを休み始めた頃、心配してアパートまで様子を見に来てくれたことがある。その際に「念のため」と交換した連絡先が、早速役に立ったわけだ。
「キムラさん、もうお店の中にいるって」 アヤネの言葉に、キョーコはタバコを吸いたいのを必死で我慢しているのか、苛立たしげに何度も踵でアスファルトを鳴らした。
「うし……行くか」
メイド服には不釣り合いな勇ましい足取りで、二人は『コア』の入口を潜った。カビと埃の匂いが混じった空気が、半地下へと続く階段から吹き上げてくる。階段を下りきると、薄暗い受付があり、その奥にステージのあるフロアが見えた。
「やあ、アヤネさん。お久しぶり」
受付カウンターから、相撲取りのように大柄な男が顔を出した。汗で湿ったタオルで首筋を拭いながら、アヤネに向かって片手を上げる。
「こんにちは、キムラさん。いつもジョージマがお世話になってます」 アヤネが深々と頭を下げると、キムラは「いやいや、こちらこそだよ。どうしようもない友人が、いつも世話を掛けて申し訳ない……」と、大きな身体を縮こませるようにして頭を下げた。
そして、キムラの視線が、アヤネの隣に立つもう一人のメイド服、キョーコへと移る。 「こちらは……後輩ちゃん?」
その言葉に、キョーコの顔が露骨にむっと歪んだ。 すらりと背の高いアヤネと並ぶと、キョーコは身長が低く、フォルムも少し丸みを帯びて見える。おまけに童顔だ。アヤネより年下に見られても無理はなかった。
「……あたしは、この子のバイト先の『店長』だ」
店長、という部分を強調し、地を這うような低い声でキョーコが言うと、キムラはただでさえ汗まみれの顔に、さらに脂汗を噴き出させた。
「あ……っ、それは、大変申し訳ない! ごめんなさい……!」
キムラは、再び深々と頭を下げた。その姿は、まるで叱られた巨大な子供のようだった。
キムラは二人を、ステージ袖にある音響ブースへと招き入れた。様々な機材が詰め込まれた狭い空間は、男の汗と機械油の匂いが混じり合って、息苦しいほどだった。
「早速なんだけど。アヤネちゃん、ジョージマの奴が、なんかおかしいって?」 パイプ椅子を勧めながら、キムラは心配そうに眉を寄せた。 キョーコが目配せすると、アヤネは、まるで汚染物にでも触れるかのように、恐る恐るポシェットから例の紙切れを取り出し、キムラの眼前に差し出した。
「なんだい? これ……」 キムラはそう言って紙を覗き込む。その瞬間、彼の顔色が変わった。「うっ」と、喉の奥で何かがこみ上げるような呻き声が漏れる。
「……これ……ジョージマが、書いたのか……?」 明らかに気分が悪そうな、絞り出すような声だった。
「二日前に見せられて……これ見ながら、『声が聴こえる……天辺目指せって言ってる』って……」 異常な恋人の姿を思い出し、アヤネの顔が苦痛に歪む。キョーコがその肩を、優しく、しかし力強く抱いた。
アヤネが持ってきた紙切れを見下ろしながら、キムラの表情は酷く神妙だった。その顔を見て、キョーコが口を開く。 「なんか知ってんなら、教えて頂戴。あんたのダチも、この子も、もうとっくに限界よ」
キムラは深く、重い息をつくと、観念したように話し始めた。 「アヤネちゃんは、ジョージマから『サエキ』って名前、聞いたことあるかい?」
サエキ。その名前に、アヤネは記憶の底を探った。去年のいつ頃だったか。ジョージマが、コップに注いだ酒と、一枚のギターピックをテーブルに置き、静かに手を合わせていた。何してるの、と聞くと、『亡くなったバンド仲間の命日なんだ』と、寂しそうに笑っていた。 アヤネがそのことを呟くと、キムラは重々しく頷いた。 「そう。それがサエキだ」
「サエキは……凄いギターボーカルでね。ギターも、歌も、天才だった。俺たちのバンドは、正直、あいつ一人で保ってたと言っても過言じゃない。ジョージマも、それは痛いほど解ってたと思うぜ」 少しだけ、キムラの目つきが優しくなる。 「だからこそ、辛かった。あいつが死んだ時……事故でね。あまりにも、突然だった。俺たち、事務所から声も掛かってたんだ。メジャーデビュー、目前だった。でも、サエキが死んだってなったら、当たり前のように、その話は無かったことにされた」
キムラの視線は、アヤネとキョーコを通り抜け、遠い過去の、眩しかったステージを見つめているようだった。 「俺もジョージマも、もう三十手前だったしね。最後のチャンスだって、本気で思ってた。一緒に夢を追ってきたサエキが死んだのは、もちろん悲しかったけど……それ以上に、目の前が、真っ暗になったよ」 キムラは自嘲するように笑い、その視線が、ようやく現在に戻ってきた。
「それで?」 キョーコが、核心を突くように追い打ちをかける。 「さっき、この紙見て吐きそうな声出してたのは、そのサエキって男と、何の関係があんだよ」
「……ああ……そうだな……」 キムラの視線が、言い難そうに斜め下を泳ぐ。 「思い出したんだよ……」 ごくり、とキムラの喉仏が大きく動いた。
「サエキの奴……ダンプに轢かれて……最初、遺体が見つからないって、大騒ぎになってな。で、警察が最終的に、遺体を見つけたのは……」
キムラは、まるで口の中に苦い砂でも詰め込まれたかのような、何とも言えない顔を二人に向ける。
「サエキの身体は……ダンプの後輪の車軸に、綺麗に、巻き付いてたんだ……」
「……え……」
「グルグル巻きに、さ……」
タイヤは、血と、彼の臓物の破片で、赤黒く汚れていたらしい。キムラは、見てきたかのような口調で、そう付け加えた。 恐ろしい光景を想像してしまい、アヤネもキョーコも、顔面が凍りついたように固まっている。
「サエキも、夢を逃して死んじまうのが嫌で、必死に、しがみついて……ああなっちまったのかなあ……」
あの何重にも、何百回も書き殴られた黒い渦巻きの『闇』を見て、キムラは、友人の、そのおぞましい最期を思い出してしまったのだと、そう言った。
しばしの沈黙が、重く、息苦しく、音響ブースに満ちた。 静寂を破ったのは、キョーコだった。ニコチンが切れて苛立っているのか、右足を激しく貧乏ゆすりさせながら、吐き捨てるように言う。 「つまり……キムラさんは、ジョージマがそのサエキって奴に取り憑かれたとでも、言いたいわけ?」 その声には、苛立ちと、そして信じたくないという響きが混じっていた。
「いやいやいや! 俺は霊能者でもなんでもないから、解らないけどさ……」 キョーコの剣幕に、キムラは慌てて両手を振った。 「丁度、数週間前に、サエキの命日だったしな。あの時の絶望とか、今のどうしようもない毎日とか……ごちゃ混ぜになっちまって、アイツ、おかしくなっちまったんかなあって……」
数週間前。その言葉に、アヤネは思い出す。そういえば、あの夜、ジョージマは小さなコップに酒を注いで、例のギターピックに、何かを語りかけていた。キムラの推理は、あながち間違ってはいないのかもしれない。
「……しかし、それにつけても……」 キムラは、ふう、と一つ大きなため息をついた。 「変な声が聴こえるって言ってるんだろ? アイツ、かなりヤバいんじゃないか……」
「事務所入りの話が消えた後、俺は先輩ミュージシャンのツテで、このライブハウスを任せてもらえる話が舞い込んできてな。一緒にやろうぜって、ジョージマを誘って、この街に越してきたんだけど……」 それは、おそらくアヤネがジョージマと知り合う、少し前の話だった。
「この街はさあ……新宿まで、電車一本だろ。夢に破れた奴らが、自然と集まってくる。まるで、墓場みてえな場所だなって、時々、感じるんだよ……」 キムラの視線は、壁に貼られた、名前も知らない、売れそうもないバンドマンたちのライブのチラシに注がれていた。
「……そうね。解るわ。あたしも、ここに漂着した、夢の残骸の一人だから……」 キムラの言葉に、キョーコが、ぽつりと呟いた。その声には、いつものような棘はなく、ただ深い諦観が滲んでいた。聞いて、キムラが、少しだけ優しく微笑んだ。
「この街の空、見上げるとさあ。いつも思うんだよ……」 そう言って、キムラはライブハウスの、黒く塗装された天井を見上げる。そこに見えるはずのない空を、彼は見ているのだろう。目を細め、遠い目をする。
「夢に破れて、生き方を見失った奴らの執念っていうか、怨念みたいなもんがさ、澱んで、溜まってるような色してんなって……」
キムラの言葉に、キョーコもアヤネも、つられるように、見えるはずのない空を見上げた。 そこには、淀んだ、鈍色の、ぬめったような空が、どこまでも広がっていた。
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