歌姫、鬼神を飼う。-貂蝉と呂布-悲劇の運命に転生した私、未来知識で天下を操る
チャプタ
見知らぬ天井と、白すぎる手
――チリ、と。
空気が小さく震えるような音が、耳の奥で弾けた。水面の底から浮かび上がるように、私の意識はゆっくりと現実へと戻ってくる。
最後に覚えている光景は、青白いモニターの光が、埃っぽいオフィスの空間を不気味に照らしていた場面だった。
机の上には、飲み干したエナジードリンクの缶が無造作に積み上げられ、まるで戦場の残骸のように散乱している。
休む間もなく鳴り響くスマートフォンの通知音が、心臓をせかすように繰り返されていた。
そして――胸を突き破るような、刃物で刺されたかのような激痛。
呼吸ができない。視界が歪む。
机の端を掴もうとした指先は空を切り、そのまま床へ叩きつけられる寸前、世界がスローモーションに変わった。
(あ……これ、ヤバい……)
三日連続の徹夜。
ようやく仕上げた、会社の命運がかかったプレゼン資料。
三十歳を目前にした、冴えない会社員としての私の人生は、あまりにもあっけなく――そして、あまりにも情けなく――幕を閉じたはずだった。
……なのに。
今、私の意識は、こうしてはっきりと存在している。
瞼の裏から滲み込む、やわらかく温かい光。
身体を包み込むのは、信じられないほど滑らかな布――指先を動かすたびに、水面の上を撫でるように流れ、肌に吸いつく。
それは、これまでに触れたどんな高級シーツとも違う感触だった。
そして、鼻腔をくすぐる芳香。
甘いのに重くなく、清らかで落ち着く香り。フローラルやアロマオイルではない。
もっとずっと古風で、深く心の奥に沁み込むような香り――白檀か、沈香か。
静かに呼吸するたび、胸の奥のざわめきが、不思議と鎮まっていく。
(ここは……どこ?)
病院……?
いや、消毒液のツンとした匂いがしない。
じゃあ天国……?
でも、意識が妙に冴えている。死後の世界というより、あまりに現実的すぎる。
何より――関節の重さや節々の痛みが、妙に生々しく残っている。
重い瞼を押し上げる。
最初に目に飛び込んできたのは、見たこともない天井だった。
漆黒のような艶を放つ木の梁が、整然と部屋を縦横に走っている。
そこには精緻な彫刻が施され、花や鳥、雲の流れがまるで生きているかのように浮き上がっていた。
木目の一本一本まで、異様なほどはっきりと見える。
壁には、墨の濃淡が絶妙な山水画の掛け軸。
床には艶やかな木目を持つ文机。その上には、青銅の器がひっそりと置かれ、鈍い光を放っている。
現代日本の建築ではあり得ない。
むしろ、歴史考証に命を懸けた時代劇の豪華なセットに迷い込んだかのようだ。
「……夢、かな」
掠れた声が、自分でも驚くほど小さく漏れた。
混乱する頭で、とにかく状況を確認しようと、私は上体を起こしかけ――そこで、言いようのない違和感に全身を包まれた。
……軽い。
自分の身体が、驚くほど軽いのだ。
長年のデスクワークと運動不足で凝り固まっていた肩も腰も、嘘のように柔らかくしなやかに動く。
あの鈍く重たい痛みが、影も形もない。
さらに――。
掛け布団から現れた自分の腕を見て、呼吸が一瞬止まった。
それは、私の知っている腕ではなかった。
日に焼けた跡も、パソコンのキーボードを叩き続けてできた小さな硬い角質もない。
代わりにあったのは、透き通るほど白く、柳の枝のように華奢でしなやかな腕。
指先は細く長く、桜貝のように淡い桃色の爪が、完璧な曲線で整えられている。
手入れの行き届いたその手は、まるで陶磁器の人形のようだった。
(こんな手……私じゃない)
心臓が、ドン、と不快な音を立てて跳ねる。
恐る恐る、私は自分の頬に触れた。
滑らかな肌。すべる指先。
小さな顎のラインに、あのアラサー特有の疲れ切った影は微塵もない。
「……え?」
喉からこぼれたのは、鈴を転がすような、可憐で透き通った声だった。
完全に、私の声ではない。
――これは、私の身体じゃない。
その事実が、氷のように冷たい衝撃となって頭から降りかかる。
呼吸が浅くなり、心臓の鼓動だけがやけに耳に響いた。
パニックの淵に追いやられたその瞬間――。
コン……と、控えめに扉を叩く音がして、静寂が破られた。
続いて、軋むような音と共に、木の扉がゆっくりと開く。
「お嬢様、お目覚めになられましたか」
低く落ち着いた女性の声。
そこに立っていたのは、長い裾が床を滑るような衣――漢服らしき服を纏った、若い女性だった。
その表情は穏やかで、どこか親しみを含んでいる。
……お嬢様?
私のことを、そう呼んだ?
胸の奥で、得体の知れない予感が静かに芽吹き始めていた。
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