第一部 蒼空の果て 第九章

  1


 旧都市縁部の崩れた坑道を抜け、姿を現した広大な敷地。その入口前で、一行は立ち止まっていた。

 

「ここか」

 至がマップと目の前の構造物を見比べる。かつて数多の人間が出入りしたであろう腐食した鉄扉。今は風と緑に侵食されていた。崩れたその中に、忘れ去られた虚しさが漂っている。

 

 誰も言葉を発さず、しばし耳を澄ませる。地下から、かすかに──金属の軋む音が響いていた。

「中は構造が複雑だ。チームを分ける」

 至はそれぞれを見渡し、計画通りの編成を伝える。

「ジェラードと光莉、カナタは俺と調査班。研究棟の基幹部を回る。遺伝子実験あるいは免疫に関する資料を優先して探してくれ」

「了解」

 ジェラードも光莉も気を引き締めてうなずく。カナタもそれに倣った。

 

「瀬司、蒼、透流は見回り班。索敵と安全確保、あとは使えそうな設備があれば報告してくれ」

「了解。追跡装置は使えるな?」

 瀬司が短く問い、至はうなずく。

「電源は落ちてるが、自己発電装置が生きている可能性がある。蒼、基本構造には詳しいだろう。任せた」

「任されたー」

 蒼が気楽そうに返すと、至はひとこと釘を刺した。

「地下の廃墟だ、瓦解に気をつけろ」



 扉を押し開けると、奥に続く、暗い地下の回廊。

 突き当たりは見通すことができない。


 蒼、瀬司、透流の三人は最初の階段で、最下層の設備室を目指して分岐した。至たちは、そのまま実験室のエリアに真っ直ぐ進む。足を踏み出す度、靴底が古いタイルの欠片を砕き、乾いた音を立てる。

 

 天井から垂れ下がるケーブルの切れ端が風に揺れ、微細な金属音を響かせていた。通路の奥からは、カビ臭さを纏った空気がじっとりと貼りつくように肌にまとわりつく。まるで誰かがこちらを見ている気さえしてくる。


「……ちょっと怖いね」光莉が苦笑いする。壁際をぎこちなく歩いていたカナタが何度も首を縦に振る。

「なんか、空間が死んでるっていうか。僕らの足音しか聞こえない」


 カナタが背を丸めて言ったその時。


「おっ」

 前を歩いていたジェラードが、何かを見つけて、しゃがみ込んだ。瓦礫の中から取り出したのは、ボロボロに煤けた、三本脚の小さな機械だった。球状の頭部にレンズがひとつ、今は曇って使い物にならなそうだ。

 

「これ、蒼が言ってた〈当時流行ってた虫っぽいやつ〉だな」楽しげに、くるりと手の中で回す。

「なにそれ……」光莉が怪訝な顔で覗き込む。

「施設内の維持管理ロボットらしい。清掃とか点検とか、空気の粒子濃度とかを自動で見張ってたんだと」

「虫っぽい……? この脚の関節のこと……?」

 カナタが顔をしかめ、ジェラードは首をかしげてみせた。

「デザイン担当のセンスが最先端をすぎた結果、当時の研究者連中には『ミチカワ!』って言われてたってよ」

 光莉は困惑気味に節足動物を模したロボットを見る。

「ミチ……? え、何……?」

「未知で可愛いって意味らしい」

「ええ……。どちらかというと気持ち悪い……」

 光莉が心底引いた表情で一瞥する。

 ジェラードはロボットのセンサー部をぴこん、と軽く叩いて言った。

「でもまあ、たまに深夜に廊下を這って出てくるもんだから、軍の隊員には割と嫌われてたって」

「やめて、完全にホラーです……」カナタも嫌そうにそれを見る。

 

「中途半端にバッテリー残ってて、動いたりしねえかな。ギギギって音立てて」ジェラードはロボットの脚を手で動かして、カナタににじり寄って遊ぶ。

「ちょ、きもっ! やめてくださいってば!」

 カナタが思わず一歩後ずさり、光莉もジェラードの手元から目を逸らす。

 

「で、それは、いつ動く?」

 後方から至の声が飛んだ。

 

「……いや、動かない。壊れてる」

 ジェラードが頭を掻きながら返すと、至は視線で流し、再び壁面の配線に目を向けた。 

「ここの壁面、まだ奥に何かあるな」

「マジだ。自動扉だったのか? 隙間も隙間すぎて、こじ開けるの、中々骨が折れるぜ」


  2


「最終兵器!」

 ジェラードがふざけつつ、ポケットから銀色の何かを取り出す。5センチ大の円形アイテムが二つ。その中心部でセンサーらしきランプが緑色に点滅している。


「なんですか? それ」カナタが不思議そうに見る。

「これな、扉の分子結合に周波数を合わせて、一気に振動で瓦解させる代物よ。で、ピンポイントでやらねえと、この通路ごと崩れるから注意が必要だ」

 ​そう言って彼はかつて自動扉だったものに貼り付ける。光莉は興味津々といった様子で覗き込み、カナタは緊張しつつも、その手元をじっと見つめていた。至は一歩下がり、二人にも離れて口元を押さえた方がいいと指示する。


​「いくぜ」

 ジェラードが端末を操作すると、放たれた超音波振動が扉の金属に伝わっていく。数秒間の短い高周波音が響き、扉がミシミシと音を立てて軋む。次の瞬間、扉全体砂のように崩れ、音もなく瓦解した。


 ​舞い散る土埃。

 

 扉の残骸が散らばる奥に姿を現したのは、広い実験室だった。

 天井と壁の一部は崩れ、むき出しなったコンクリートには配線が絡みついている。棚の上に残された薬瓶は既に中身を失い、ラベルも剥がれかけて風化していた。

 

 机の下には崩れた椅子、そして白骨化した人骨の一部が床に横たわっていた。

 

 光莉は、立ち尽くす。

 既に輪郭は曖昧だが、それでも人の姿を想起させる。周りをよく見れば、複数人いたと思われる形跡を感じられた。

 

「確かに、ここに人が居たんだね」

 カナタは骨らしき欠片を避けて歩き、小さく呟く。

 

 ジェラードはフロア中央のパネルに膝をついた。すぐ脇に最後の力を振り絞ったかのような姿勢で、白骨化した腕が突き出ていた。手にはIDカードらしきものを握りしめている。


「何かを取り出そうとしたのか、それとも、保管したのか……」

 ジェラードは呟くと、計測機材の残骸を払い、床のパネルを叩く。反響音が、一部だけ不自然に低い。

「この下だ」

 工具を取り出し、慎重にパネルを開けようとするが、錆びついたロックが固い。

「ちっ、やっかいな」

 何度か力を込め、鈍い金属音とともにロックが外れた。露わになったのは、埃と熱によって曇った耐火ボックスだった。

 

「記録媒体か?」

 

 至が問い、ジェラードは目配せして肯定する。慎重に蓋を開けると、中には小指の先ほどの銀色のチップが数枚、整然と並べられていた。表面には医療研究機関のロゴが刻印されている。厳重に保管されていたため、さながら新品に近い輝きを放っていた。

 

「読み込んでみる」

 ジェラードが改造を施したポータブル端末にチップを差し込む。

 低い電子音と共に端末の縁が淡く発光した。室内の埃が光を反射して微細に瞬く。ホログラムが浮かび上がり、淡い青の輪郭線が規則正しく組み上がっていく。


《CASE ID: D13-0098 / IMM-VAR-F》

《Gene Set: β2834 / Receptor: Δ13》

《Generation: G11》

《Condition: Autoimmune Collapse - CONFIRMED》

《N=19 / Failure=17 (89.5%) / Under Obs=2》

《Median Survival (Post-Onset): 72h》

《Notes: Immune overdrive triggers systemic tissue degradation; suspected correlation with Augmentation Protocol ver.4.1》


「……免疫系の過駆動による全身組織の崩壊、か」ジェラードが目を細めながら、思考半分に呟く。

「人体改造の副作用か?」至が横から覗き込んだ。

 ジェラードは考え込むように流れるコードを見つめて、答える。

「なんとも断定できねえな。格納されている情報が膨大だ。持ち帰ろう。念のため複製も取る。少し時間をくれ」 

 ジェラードが端末で媒体の複写を開始する。淡い光が、埃まみれの実験室の壁に滲んでいた。

 

 至は立ち上がり、振り返る。

「光莉、カナタ。この部屋で間違いなさそうだ。手分けして、データや資料を探そう」

「はい!」気合に満ちた二人の声が力強く響いた。


  3


 光のない地下通路を手持ちのランプをかざしながら、三人の影が慎重に進んでいた。先頭は瀬司。その後に蒼、そして最後尾に透流の姿がある。


「人の気配。三、いや、四」


 蒼が立ち止まり、声を落とした。シアンの瞳の隙間を縫って、擬似光彩が赤い微光を発する。瀬司はすぐに手を止め、遮蔽物に身を預けて周囲を窺う。

 

 その先──漆黒の戦闘服を纏った数人の兵士が、研究ブロック前で何かを操作していた。

「あれは……インペリウムの部隊だな」

「政府の?」

「ああ。Obsidianオブシディアンだ。特殊調査部隊」

 

 蒼の顔色が引き締まった。

「どうする? 接触回避?」

「無理だな。もうこちらを探知してる」

 その言葉の直後、通路の先から閃光弾が放たれた。空気を裂く音とともに、爆発的な白光が視界を染める。

 

「っ、来たか」

 瀬司が身を沈める。蒼が反射的に装備を展開、手元の遮蔽用パネルを起動して光を遮った。

「早々に仕掛けてきたな」透流が臨戦態勢を取る。

「殺すなよ。奴らは正規軍。プレトリアの雑兵とは訳が違う。殺せばValkが追われる口実になる。武装解除して撤退させる」

 瀬司は素早く命じ、即座に通信を開く。

 

「至、こちら地下三層──インペリウムの小隊と接触。交戦中。万が一遭遇しても殺すな。戦力を削ぎ撤退させる」

『了解。こちらも警戒しておく』

 

「透流、後方は任せた。行くぞ、蒼」

 

 遮蔽物を飛び出し、ふたりは素早く戦線に躍り出た。

 先手を取った相手の隊は既に陣形を整え、三方向から火線を張っていた。床面は崩れかけ、踏み込むたびに粉塵と破片が靴底を噛む。火花の熱、弾丸の振動が空中に散り、硝煙の匂いが立ち込めた。

 

 だが、蒼は瞬時に死角を読み、一人の兵士の懐へと滑り込む。伸ばされた手から電磁衝撃装置が閃光を放ち、兵士の銃器を無力化した。

 

「接近された! 援護お願い!」

 叫び声が響いた瞬間、瀬司のナイフが一閃し、別の兵士の手元にあった投擲武器を撃ち落とす。

「蒼、右斜め上!」

「了解!」

 蒼の背後をすり抜けて瀬司が回り込み、背面から迫っていた兵士に体術を叩き込む。足払いで体勢を崩し、蒼が間髪入れず補助装置で拘束をかける。

 

「蒼、十秒稼げ」

 更に蒼は素早く瓦礫の山を駆け上り、敵陣に突っ込むと、機器類を正確に狙い電磁パルスを当てる。


「電子照準、死んだよ」


 着地した蒼は、ゆらりと体勢を立て直す。

 そのまま間髪入れずに瀬司が斜めに切り込む。相手の装備の構造を一瞥しただけで、彼の読みは的確だった。兵士が銃を肉眼で構える前に、ライフルで打ち抜き、破壊した。

 蒼と瀬司は通路中央で背中合わせに立ち、取りこぼした相手がいないか確認する。

 

「この戦場の空気は──嫌いじゃないな」

「わかる! ワクワクするよね!」

「そういうことにしておくか」


 蒼の遊び混じりの声に、瀬司は小さくため息をつき、少し呆れの滲む声で返した。 彼らの場違いな会話の背景で「撤退」の声が響く。

 

「というか、お前、さっきの踏み込み。右足一拍早かった。また配線が切れるぞ。次は左軸で重心を取れ。タイムラグは俺がフォローする」

「そんくらい、後で治せば──」

「壊すことを前提に戦うな」

「えー」

「お前の動きは、的に正確な時ほど体の扱いが乱暴だ」

 蒼が苦笑する。

「はぁい、瀬司司令官!」

 

 ふっと息を抜いた瀬司は、背後を振り返った。

「透流は──」

 蒼も同時に後方を振り返り、名を呼ぶ。

「透流?」

 返事は、なかった。

 その沈黙に、ふたりの空気がぴたりと変わる。


「消えた?」


 直後、通路の奥──研究棟のさらに奥の方から、微かに金属の倒れる音が響く。

 瀬司と蒼は目を見交わした。

「追うぞ」

「うん!」

 撤退する部隊を背に、ふたりは新たな違和感を追って駆ける。暗い通路の奥、透流のものだという確信だけが、二人の胸に深く沈んでいた。


  4


 崩れた壁の向こう、兵士が使っていたと思われる小型の作業灯だけが床に転がり、力なく室内を照らしていた。


 匂いだけが異様に濃かった。

 むせ返るほどの血の匂い。


 その中心に、透流がいた。

 息が上がり、肩を小さく上下させている。

 手にしたナイフから滴る血液が、コンクリートの床に赤黒い円を描いていた。 足元には、既に事切れた兵士の亡骸。


 その傍らには、倒れたままのもう一人の兵士。 右脚に突き刺さったナイフが、彼の逃走を不可能なものにしていた。兵士は嗚咽混じりに嘔吐し、痙攣と短い呼吸を繰り返す。

 

 鋭い気配を感じ、兵士が見上げた視線の先には、ゆっくりと歩み寄る透流。 碧眼に宿る光は狙いを定めた獣を思わせる。命を仕留めにいく殺気だけが放たれる。


 男の喉を冷たいものが通り過ぎる。

 


 ──殺される。


 

「殺してやる」



 透流から怒りを抑えきれない声が漏れる。

 


「やめろ」

 

 低く鋭い声が腐敗しかけた空気を裂いた。

 透流の足が止まる。

 廃材を踏みしめて飛び出した瀬司が、負傷兵を背にかばって立ちはだかる。

 

「蒼、あっちを」

「了解!」

 透流の背後をすり抜け、蒼がもう一人の兵士へと駆け寄る。

 

 そして、すぐに足を止めた。その場に漂う匂いの解析データ、一面を染め上げる赤黒い色が、否が応でも状況を理解させる。

 

 既に人間としての形は、なかった。顔面は陥没し、装甲服の胸元は引き裂かれ、露出した胸腔には幾重にも重なった刺創。 筋肉は断裂し、内臓は飛び出し崩れかけていた。 破壊することそのものが目的であったと分かる痕跡。

 

「遅かったか」

 瀬司は押し殺すように言い、鋭く透流を見据えながら歩を進めた。対峙した透流は、怒りと苦悩に飲まれた暗い目をしていた。

 

「全員殺す」

「殺したところで、事態が悪化するだけだ」瀬司の冷えた声でいった。

 

「どけよ」

 透流が即答した。

 一歩、踏み出したその瞬間──乾いた音が響き、瀬司の掌底が、透流の顎を打つ。 鈍い衝撃に透流の体が揺れた。 倒れはしなかったが、その場に膝をつく。

 透流は立ち上がろうとするが、脳が揺れて動けない。

 

 蒼がすかさず滑り込み、倒れた兵士の元へと身を寄せた。

「生きてるね。もう少し待って」

 その声はいつも通りの穏やかさだった。


 瀬司からの連絡を受け、光莉とカナタが医療セットを抱えて駆けつける。 部屋に足を踏み入れた瞬間、血と内臓の匂いが充満した空気に、光莉は驚いて思わず足を止めた。

 続くカナタも後ろへ跳ね、口元を押さえる。一度は飲み込もうとしたが、喉の奥から込み上げる吐き気に耐えきれず、廊下に駆け戻った。

 

「光莉」蒼の声がまっすぐ届いた。

 彼女は我に返り、震える手で口元を拭うと、嗚咽を堪えて負傷兵へと歩み寄る。「止血を」蒼は兵士の脇に膝をついた光莉の背中をなで、落ち着いた声で行った。


 動けない透流から深い闇を思わせる殺気が、まだ外へとあふれ出している。蒼は、その気配に警戒を続けた。

 

 背後から靴音がふたつ。瓦礫を踏み分けて近づいてくる。

 

「来たか」

 瀬司が目線だけを廊下の方に動かす。

 至とジェラード。手持ちのLEDランプが淡く照らす表情には、押し殺した焦燥と、冷静に状況を測る瞳が同居していた。

 

「手当ては?」

「一人は、命がある。けど腿の傷が深いな。放っておけば、たぶん持たない」

 光莉は黙って止血を続けている。カナタは少し離れたところで立ち尽くし、震える膝を必死に支えていた。

 

「透流」

 至の声が落ちる。静かな呼びかけだった。

 透流は膝をついたまま、応じなかった。血だまりの一点を見つめたまま、その意識は虚空にある。

 

「もういい。戻ろう。調査はこれで終わりにしていい」

 

 至の言葉が、再び低く落ちる。

 その瞬間、透流の肩がぴくりと動いた。


 ジェラードが横たわる兵士に目をやり、小さく息を吐いた。 

「この仏さん、どうする。さすがにこのままな、あまりにも惨い」

 瀬司が短く返す。

「俺が」


 空気は収束へ向かっていた。

 至はゆっくりと透流のそばへと歩く。

 一歩、また一歩。

 重たく沈黙を踏みしめるかのような足音だった。

 

「帰るぞ、透流」

 短い言葉。


 透流が、わずかに顔を上げる。

 喉の奥で乾いた息が鳴り、背筋を伝う冷汗が一筋。耳の奥で途切れていた鼓動の音が、じわりと戻ってきた。呼吸音、布擦れ──それらの音が薄膜のように重なり、現実の輪郭がにじみ出す。

 息苦しい漆黒で満たされていた肺が、ゆっくりと空気を吸い込み始める。

 沈んでいた意識が、ゆっくりと呼び戻される。

 

「……俺は」

 声はかすれ、それ以上の言葉にはならなかった。

「何も言わなくて良い。今は、帰ろう。」

 至は力強く言った。


 しばしの沈黙。 その中で透流の眼差しに、微かな濡れ色が差す。

「………………ん」

 その一音だけが、すべてだった。

 至はその肩を支え、立ち上がらせる。 透流の身体は、まだ微かにぐらつく。至の腕に抗うことはなかった。

 ジェラードは小さく「ジープを回す、カナタも来い」と言い、青ざめた少年を連れて先に姿を消した。


 至は透流を支えたまま、ゆっくりと廃墟の出口へと歩き出す。

 その横をすり抜け、瀬司が背後で動き出す。

 彼はビニールシートを切り裂き、絶命した兵士の遺体に手際よく巻きつけた。胸元を覆い、飛び出た臓器を隠すと、丁寧に胸の前で手を組ませる。

 

「蒼、大判のガーゼはあるか」

「うん。これ」

「助かる」

 瀬司はガーゼを受け取ると、かつて喜怒哀楽を持っていたであろう窪みに丁寧にかけた。それ以上、今はどうすることもできなかった。

 

 蒼が光莉の手当をサポートし、止血を終えた。

「蒼、状態は?」

 瀬司の問いに、蒼が表情を曇らせて答える。

「持ち直してる。輸血が必要だけど、すぐには無理そうだね」

 

 瀬司はそれを聞くと、倒れた兵士の顔を見た。

「通信手段は?」

 兵士は呻きまじりに答えた。

「壊された。でも……仲間が、あとで確認に来るとは思う」

「持ちそうか?」

「わからない。だが、充分だ。手当てを、ありがとう」

 傷に苦悶の表情を浮かべるも、兵士は毅然としていた。瀬司は彼の目を見て小さく頷いた。

 

 そして、瀬司はそのまま踵を翻し、部屋を出る。蒼と光莉も、それに続く。引きずり込まれそうなほどの負の感情が、まだ背後の部屋に鎮座しているように感じ、光莉は一度振り返った。


  5


 調査区域を抜けた先にある裏手の川は、薄く月光を受けて穏やかに流れていた。草木のざわめきもない、しんとした夜の空気。川の水が深い紺を帯びた硝子のように揺らめいていた。

 瀬司は血と脂に塗れた体を一瞥し、無言のままベルトに手をかけた。

「洗ってから行く」

 誰に問うでもなく言葉を投げ、川へ向かう。

「じゃあ、俺は先に──」と蒼は言いかけ、言葉を止めた。川に向かう背中を見て、光莉が一歩踏み出したからだ。

 

「私も!」

 

 唐突な申し出に、蒼が一瞬だけ眉を上げる。

(……瀬司は絶対、全裸になる。きっと光莉はそれに気づいていない。うーん、事故の防止)

 察した蒼は、静かに口を結び直し、後を追った。


「やっぱり俺も行くよ」


 瀬司は手際よく血濡れた衣服を脱ぎ捨て、躊躇なく川に入る。川は深く、瀬司の腰まで水面が及んだ。


 彼の肢体が月光に照らされ、水面からの反射で白銀のごとく浮かび上がる。無駄なく鍛え上げられた筋肉の起伏と骨格の陰影。濡れた白い肌の上を伝う水滴が、鎖骨のくぼみや腹斜筋をなぞって流れ落ちていく。


 横目にそれを見た蒼は、思わずこぼした。

「うわ、えぐい造形美」

「何か言ったか?」

 瀬司が振り返ることなく言う。蒼はすぐさま首を振った。

「ううん、何も」

「そうか」

 

 それきり、再び水音だけが響いた。


 瀬司は深く呼吸した。そのまま手と腕、首筋を洗い流していく。冷たい水が血の匂いを洗い落とし、夜気と混じって、静謐な輪郭を帯びていた。


 少し離れた岩場で、光莉は膝まで水に浸かり、血のついた腕を黙々と洗っていた。

 

 蒼が近づくと、彼女の手が止まる。

「マーケットの時とも、全然違ってた」声はかすれていた。「今日のは、壊すための暴力だった。明確な殺意で人の形が壊されているのを見たの、初めて」肩が震える。

 頬に、冷たい雫がすっと伝う。

 水か、涙か、判断はつかない。

 

 蒼は、すぐ隣の岩に腰掛けた。

「でも、蒼と瀬司さんが止めてくれて、本当によかった。あのままだったら、透流は……」

 

 光莉が言葉を結ぼうとしたとき──

 ばしゃり、と水音が響いた。

 顔を上げた光莉の視線が、川の中央からこちらに向かう瀬司の姿を捉える。


「えっ」

 言葉が詰まる。

 瀬司は濡れて体のラインに張り付いたハーフパンツだけ身につけ、上半身は裸だった。肌に伝う水滴が筋肉の陰影を際立たせていた。


「な、なんでそんな格好してるんですか!? 服、着て!」

 

「何でって。汚れてるからだろ」

 瀬司は血を流し、ずぶ濡れになった服を見せて、眉を寄せる。

 

「でも!」

 光莉は耳まで真っ赤にして水を跳ね、背を向けた。そのまま顔をうつむかせる。蒼は手際よく、ボディバックから取り出したタオルを出し、彼女の手を取る。

 

「はいはい、光莉ちゃん。おててを拭こうねー」

「蒼もなんで冷静なの!?」

「いやあ、うん、もともと体を洗いに来たわけだからね」

 蒼が困り顔で言うと、光莉は「あっ」と顔を真っ赤にして顔を背けた。瀬司は気にせず、その横を通り抜け、振り返らずに声をかけた。

 

「風が冷えてきた。戻ろう」

 

 些細なやりとりが、冷たい闇に沈んでいた夜に、ほんの微かに、あたたかさを取り戻した。

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