第2話 勇者、押しかけ魔王娘の次は押しかけ元将軍

 魔王の娘、リリアが俺のアパートに押しかけてきてから、数日が経った。

 あれほど絶望的だった俺のニート生活は、彼女の登場によって劇的な変化を遂げていた。


 まず、部屋が常に清潔だ。リリアの使い魔たちは、俺がカップ麺の容器を一つ床に置いただけで、どこからともなく現れては血相を変えて片付けていく。もはや監視されているレベルである。


 次に、食事が豪華になった。毎食振る舞われる魔界料理は、相変わらず「うごめく触手」や「叫ぶキノコ」が原材料であり、見た目は筆舌に尽くしがたい。しかし、味は驚くほど絶品で、俺の貧相だった体も心なしか健康になった気がする。


 そして何より、話し相手がいる。


「ユウキ様、今日のお目覚めはいかがですか?」


「ユウキ様、お洗濯物はこちらへどうぞ」


「ユウキ様、そろそろお昼寝の時間ですわ」


 ……正直、少し過保護すぎるきらいはあるが、孤独だったこの四畳半に、人の声が響くのは悪くない。家賃の心配は依然として残っているものの、あの大家のイトウさんも、リリアの顔を見ると「あらあら、ユウキさんのお嫁さんは今日もめんこいねぇ」と野菜を置いていくだけで、催促を忘れてしまうらしい。


 俺はすっかり、この奇妙で穏やかな日常に慣れ始めていた。

 そう、この日常が、新たな来訪者によって再び破壊されるとも知らずに。


 その日、俺はリリアの淹れてくれた、妙に落ち着く香りのする「安らぎ苔茶」をすすりながら、縁側でぼんやりと空を眺めていた。アキタニアの空は、どこまでも青く、平和そのものだ。


 その平和を切り裂いたのは、地鳴りのような足音だった。


 ズシン……ズシン……


 一歩ごとに、アパート全体が揺れている。地震か? いや、違う。これは明らかに、何者かがこちらへ向かってきている。しかも、とてつもなく巨大で、殺意に満ちた何かが。


「な、なんだ……?」


 俺が立ち上がった、その瞬間だった。


 バキィィィィン!!


 轟音と共に、アパートの玄関扉が蝶番ごと吹き飛んだ。木っ端微塵になった扉の向こうに立っていたのは、燃え盛る炎のような赤い髪を逆立てた、身の丈二メートルはあろうかという大男だった。


 分厚い胸板を覆うのは、傷だらけの黒い鎧。その両腕は、鎧の上からでも分かるほど、丸太のように太い。そして、その鬼のような形相の額には、ねじれた二本の角が生えている。


 紛れもない、魔族だ。しかも、只者ではない。俺の記憶が正しければ、彼は――。


「姫様ッ! ご無事でしたか!」


 大男は、俺のことなど目にも入っていないかのように、部屋の中にいたリリアを見つけると、感極まったように叫んだ。


「ベ、ベルゼノス!? なぜあなたがここに……」


 リリアが驚きの声を上げる。

 ベルゼノス。その名に聞き覚えがある。魔王アビスに仕えた四人の幹部、元四天王の一角。圧倒的な武力で魔王軍の先鋒を務めた、『炎獄将軍』ベルゼノス。


 ベルゼノスは、リリアの無事な姿を確認すると、今度はその血走った目を、ゆっくりと俺に向けた。その瞳には、純度百パーセントの殺意が宿っている。


「……貴様か。貴様が、リリア姫をそそのかしたという、元勇者か!」


 低い、腹の底から響くような声だった。


「ひ、姫をたぶらかすなどとんでもない! これは事故というか、成り行きというか……」


「黙れッ!」


 ベルゼノスの怒号が、部屋の空気を震わせた。


「姫は優しすぎるお方だ! 貴様のような薄汚い人間が、その優しさにつけ込んだに違いない! 万死に値するぞ!」


 話が通じない。完全に俺が悪者としてロックオンされている。

 ベルゼノスはゴキゴキと拳を鳴らしながら、一歩、また一歩と俺ににじり寄ってきた。


「覚悟しろ、元勇者! 姫を誑かした罪、その体で償わせてくれる!」


 そう叫ぶと同時に、ベルゼノスの巨大な拳が、唸りを上げて俺の顔面に迫る。

 速い。そして、重い。並の騎士なら、ガードごとミンチにされるだろう。


 だが。


「……っと」


 俺は半歩だけ身を引き、その拳をひらりとかわす。

 平和ボケしたとはいえ、俺の体には、魔王と渡り合った経験が染みついている。三年間のブランクは、この程度の攻撃で揺らぐほど浅くはない。


「なっ!?」


 渾身の一撃を紙一重でかわされ、ベルゼノスが驚愕に目を見開く。

 俺は、やれやれとため息をついた。


「おいおい、人の家を壊しておいて、いきなり殴りかかってくるなんて、乱暴にもほどがあるだろ」


「ぬかせ! その余裕、いつまで続くかな!」


 ベルゼノスはさらに猛攻を仕掛けてくる。大振りだが、一撃一撃が必殺の威力を持つ拳の嵐。俺はそれを、最小限の動きですべてかわし続ける。


「ちょこまかと! 逃げることしかできんのか!」


「逃げてるんじゃない、避けてるんだ。あんたの攻撃、大振りすぎて全部読めるぞ」


 煽るような俺の言葉に、ベルゼノスはさらに頭に血を上らせる。


「こ、このぉっ!」


 その時だった。


「そこまでです、ベルゼノス!」


 凛とした、しかし有無を言わせぬ威厳に満ちた声が、二人の間に響いた。

 声の主は、もちろんリリアだ。彼女は、俺とベルゼノスの間に割って入るように立つと、仁王立ちで元将軍を睨みつけた。


「リ、リリア姫……。なぜです! なぜそやつを庇うのですか!」


「庇ってなどいません。事実を述べているだけです。ユウキ様は、私をそそのかしたりなどしていません。私が、自分自身の意思で、ここでお世話になっているのです!」


「し、しかし!」


「それに!」と、リリアは声を強める。「あなたは私の忠臣でしょう? そのあなたが、私の大切なユウキ様に手を上げるなど、断じて許しません!」


「た、大切な……!?」


 リリアの爆弾発言に、ベルゼノスは雷に打たれたかのように固まった。俺も「え?」と思わず声が出た。いつから俺は大切な人になったんだ。


 ベルゼノスは、がっくりと膝から崩れ落ちた。あの巨体が、まるで子犬のようにしょぼくれて見える。


「そ、そんな……。では、このベルゼノスは、姫のお気持ちも知らず、早とちりを……。おお、なんたる不覚! この罪、腹を切ってお詫びを!」


 そう言って、ベルゼノスは腰の短剣に手をかけようとする。


「待て待て待て! なんでそう極端なんだよ!」


 俺は慌ててそれを止めた。こんなところで腹を切られたら、ただでさえボロいアパートが事故物件になってしまう。


 こうして、元四天王『炎獄将軍』襲来事件は、あっけなく幕を閉じた。


 問題は、その後だった。


 綺麗になった(リリアの使い魔が修理した)部屋で、俺は正座するベルゼノスに尋ねた。


「それで? あんた、これからどうするんだ?」


 彼は、しゅんとした様子で答える。


「……魔王様亡き後、我ら四天王も散り散りとなりましてな。俺は、姫様が人間界へ向かわれたと聞き、ずっとお姿を探しておりました。これからは、また姫様のお側でお仕えしたいと……」


「つまり、あんたもここに住むってことか?」


 俺の言葉に、ベルゼノスは「うむ!」と力強く頷いた。


「いやいやいや、無理だから! このアパート、2DKだぞ! 俺とリリアでさえギリギリなのに、こんなデカブツがいたら、どう考えてもスペースが足りないだろ!」


 俺が全力で拒否すると、リリアが「まあ、ユウキ様」と俺の袖を引いた。


「ベルゼノスも、行く当てがないと申しております。無下に追い出すのは、あまりに不憫ではありませんか」


「不憫とかそういう問題じゃ……」


「それに、ベルゼノスは力仕事が得意です。きっと、ユウキ様のお役に立ちますわ」


 そう言って、リリアはキラキラした瞳で俺を見つめてくる。この顔に、俺は弱いのだ。

 結局、俺は深いため息と共に、新たな同居人を受け入れるしかなかった。


 その日の午後。


「姫様、お任せください! このベルゼノス、薪割りの一つや二つ、朝飯前ですぞ!」


 ベルゼノスは、大家のイトウさんから頼まれた薪割りを、やる気満々で引き受けた。

 そして、巨大な斧を振りかぶり、


「うおおおおっ! 炎獄爆砕撃!!」


 意味不明な技名を叫びながら、薪を叩き割った。


 ……薪だけでなく、薪割り台と、地面ごと。


「あああああ! あたしの畑がぁぁぁぁ!」


 イトウさんの悲鳴が、アキタニアの空にこだました。


「す、すみません、姫様……。つい、力が……」


「ベルゼノス、力加減というものを覚えなさい」


 リリアに叱られ、巨大な体を縮こませて落ち込む元将軍。


 俺は、ズキズキと痛み始めたこめかみを押さえた。

 元勇者のニート生活は、魔王の娘が来た時点で終わりを告げていた。

 そして今、脳筋すぎる元四天王が加わったことで、俺の日常は『カオス』から『スーパーカオス』へと進化したらしい。


「はぁ……」


 俺のため息は、もはやこのアパートの名物になりつつあった。

 この先、さらに常識の通じない元幹部たちが押しかけてくる未来を思うと、俺はもう、笑うしかなかった。

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