魔王倒してニートしてたら魔王の娘来たんだが!?
無慈悲な利息
第1話 勇者、職と希望を失い、魔王の娘を拾う
「はぁ……」
万年床と化した布団の上で、俺は何度目か分からないため息をついた。名前はユウキ・ブレイフォード、二十歳。元・勇者。現・無職。世間一般で言うところの、完全無欠のニートである。
窓の外では、蝉がジージーとやかましく鳴いている。ここ、王都から馬車で何日もかかる辺境の街「アキタニア」の夏は、盆地特有の湿気と熱気が体にまとわりついて、ただでさえ低いやる気を根こそぎ奪っていく。
三年前、俺は確かに英雄だった。聖剣を手に魔王を討ち、世界を混沌から救った。新聞の一面を飾り、王女からその労をねぎらわれ、民衆の喝采を浴びた。あの頃は、自分の未来もこの世界と同じように、光り輝いていると信じて疑わなかった。
だが、平和は英雄から仕事を奪う。
絶対悪だった魔王がいなくなると、俺の規格外の力は、人々にとってただの「脅威」でしかなくなった。かつて命を預け合った仲間たち――国の象徴である王女や、民の心の支えである聖女――とも、戦後の復興を巡る意見の対立から距離が生まれ、気づけば俺は王都から追いやられるように、この誰も俺を知らない街へ流れ着いていた。
栄光は過去のものとなり、褒賞金はとっくに底をついた。今の俺に残されたものと言えば、築五十年の木造アパート『メゾン勇者』の滞納した家賃と、三百ゴールドにも満たないなけなしの金だけだ。ちなみに『メゾン勇者』という名前は、大家のイトウさんの亡きご主人が「いつかここから本物の勇者のような若者が巣立ってほしい」という夢を込めて名付けたらしい。本物の元勇者が、その栄光をすべて失って住み着いているのだから、皮肉にもほどがある。
今日の夕飯はどうしようか。戸棚の奥に、名物の保存食「いぶりがっこん」の最後のひとかけらが残っていただろうか。そんなことをぼんやり考えていた、その時だった。
ドン! ドン! ドン!
アパートの古い木製の扉が、内側から破壊されるのではないかと思うほどの、暴力的で執拗なノックが響き渡った。
「ひぃっ!?」
情けない声が出た。間違いない。この殺気、この威圧感。家賃を三ヶ月滞納している俺を地獄の底まで追いかけてくる、大家のイトウさんに違いない。あのパワフルすぎるおばあちゃんに捕まれば、問答無用でアパートからつまみ出されるだろう。
居留守だ。息を殺し、布団に潜り込む。だが、ノックは止まらない。むしろ激しさを増していく。
ドン! ドン! ドン! ドン!
「ユウキさん! いるのは分かってるんですよ!」
ああ、もうダメだ。腹を括るしかない。
俺はのろのろと布団から這い出し、まるで処刑台に向かう罪人のような足取りで玄関へ向かった。震える手でドアノブを握り、ギギギ…と音を立てながら、ゆっくりと扉を開ける。
「や、家賃なら、必ず、来月には……」
言い訳をしながら顔を上げた俺は、次の言葉を失った。
そこに立っていたのは、いつもの割烹着姿の大家さんではなかった。
夜の闇をそのままドレスにしたかのような、豪奢な漆黒の衣をまとった、一人の少女。
歳の頃は十七、八か。月明かりを反射して艶めく黒髪は腰まで届き、人形のように整った顔立ちには、血のように赤い瞳が埋め込まれている。およそ、こんな肥溜めのようなボロアパートに似つかわしくない、現実離れした美貌。
だが、俺はその顔に、その魂に刻み込まれた赤い瞳に見覚えがあった。
三年前、俺が聖剣でその心臓を貫いた、不倶戴天の敵。
――魔王アビスの、面影に。
背筋を冷たい汗が流れ落ちる。心臓が嫌な音を立てて脈打った。
魔王の残党か。あるいは、血を分けた娘か。どちらにせよ、尋ねてきた理由は一つしかないだろう。
少女は、その赤い瞳で俺を射抜くように見つめ、鈴の鳴るような、しかし芯の通った声で宣告した。
「――見つけました、父の仇!」
終わった。俺の短いニート人生は、今、ここで幕を閉じる。
平和ボケしたこの体で、果たして何ができる? 聖剣はとうの昔に王家に返還した。魔法もスキルも、三年も使わなければ錆びついて当然だ。
俺が静かに目を閉じ、運命を受け入れようとした、その刹那。
「うっ、うぅ……ひっく……」
目の前の少女は、なぜかその美しい瞳をみるみるうちに潤ませ、次の瞬間にはボロボロと大粒の涙をこぼし始めたではないか。
「は? え、ちょ、なんで泣いてるんだ!?」
予想外すぎる反応に、俺の思考回路はショートする。
復讐に来たのでは? 憎き仇を目の前にして、感極まったとか、そういうことか?
少女――リリアは、ドレスの袖で涙を拭うと、しゃくりあげながら、俺の理解の範疇を遥かに超える言葉を口にした。
「どうか、このリリアに、あなた様のお世話をさせてくださいませ!」
「…………は?」
たっぷり十秒は無言だったと思う。俺は一体、何を言われたんだ?
お世話? 誰が誰を? この魔王の娘っぽい少女が、俺を?
「いやいやいや、待て待て待て! 話が全く見えん!」
俺は全力で首を横に振った。
「お前、さっき『父の仇』って言ったよな? 俺はあんたの親父を殺した張本人だぞ? なんでそんな相手の世話を焼きたいんだ!?」
するとリリアは、不思議そうに小首を傾げた。その仕草は、復讐心など微塵も感じさせない、あまりにも純真無垢なものだった。
「はい。あなた様は、父である魔王アビスを討伐なさいました。それは存じております」
「だろ!? なのに、」
「父は確かに偉大な魔王でした。ですが、世界征服はいささかやりすぎでした」
「……やりすぎ?」
あまりに客観的、かつドライな評価に、俺はまたしても言葉を失う。
リリアは、さも当然といった風に話を続けた。
「はい。民を顧みず、ただ破壊と恐怖を振りまくだけの統治など、長続きするはずがありません。私は何度も諌めたのですが、父は最後まで聞き入れてはくれませんでした。ですから、あなた様が父を止めてくださったことには、ある意味で感謝しているのです」
「は、はあ……そういうもんか……」
「それよりもです!」
リリアは一歩前に踏み出し、俺との距離を詰めた。ふわりと、知らない花の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「私はずっと、父を打ち破った『勇者ユウキ』という方に興味がありました。どれほど強く、気高く、素晴らしい方なのだろうと。それなのに……」
リリアの視線が、俺の部屋の中――床に散乱するカップ麺の容器、シンクに山積みの汚れた食器、そして俺の寝床である万年床――へと注がれる。その視線は、まるでこの世の終わりでも見るかのように、絶望に彩られていた。
「……この惨状は、一体どういうことですか!?」
リリアの声に、先ほどまでのしおらしさは消え、厳しい非難の色が滲む。
「世界を救った英雄が、このような劣悪極まりない環境で、不摂生な生活を送っているなど、断じてあってはならないことです! これは人類、いえ、全世界にとっての大きな損失ですわ!」
「うっ……」
ぐうの音も出ない。正論、あまりにも正論。
俺が何も言い返せずにいると、リリアは「はぁ」と深いため息をつき、決意を固めたように顔を上げた。
「決定です。本日よりこのリリアが、あなた様の生活環境を抜本から改善いたします! まずはお掃除からですわ!」
「いや、決定事項にしないでくれ! 人の話を聞け!」
俺の制止も虚しく、リリアはズカズカと部屋に上がり込む。そして、何もない空間に向かって、凛とした声で命じた。
「来たれ、我が眷属たちよ。この淀みし魂の住処を、原初の清浄なる状態へと回帰させるのです!」
その声に応え、リリアの足元の影が蠢き、中から黒いモヤのようなものが十数体も這い出してきた。それは、小さなコウモリのような翼を持つ、マスコットじみた使い魔だった。
使い魔たちは、俺の部屋を見渡すなり「キーッ!」と甲高い悲鳴を上げると、一斉に散開した。
一匹は雑巾を手に目にも留まらぬ速さで床を磨き始め、一匹は山積みの食器を抱えて台所へ飛び、また一匹は俺の溜まりに溜まった洗濯物を器用に仕分け始める。その動きは、熟練の職人集団もかくやというほどに組織的かつ効率的。阿鼻叫喚の地獄絵図だった俺の部屋が、みるみるうちにモデルルームのような輝きを取り戻していく。
「お、おい……これ、何の魔法だ……」
あまりの超常現象に呆然と立ち尽くす俺を尻目に、リリアは満足げに腕を組んだ。
「ふふん。私の使い魔にかかれば、この程度の穢れ、瞬く間に浄化されますわ」
「いや、問題はそこじゃなくてだな……」
小一時間後。
見違えるように綺麗になった部屋で、俺はなぜか正座させられていた。目の前には、仁王立ちするリリア。完全に立場が逆転している。
「さて、次は食事ですわ。偏った栄養は、心身の乱れに直結します。このリリアが、腕によりをかけて最高の魔界料理をご馳走いたします!」
そう高らかに宣言し、リリアは意気揚々と台所へ向かう。
俺は、その背中に強烈なデジャヴと、それ以上の不吉な予感を覚えていた。
まかい、りょうり……。その単語の持つ破壊力は、俺の貧弱な想像力を遥かに超えていそうだ。
やがて、台所からグツグツという煮込み音と共に、なんとも表現しがたい匂いが漂ってきた。香ばしいような、しかしどこか土のような、鉄のような……。
そして、時折「ピギャッ!」とか「キュルルル!」といった、食材らしからぬ悲鳴が聞こえてくるのは、絶対に気のせいではない。
やがて、「お待たせいたしましたわ!」という元気な声と共に、リリアが禍々しいオーラを放つ土鍋を運んできた。
蓋が開けられた瞬間、俺は呼吸を忘れた。
鍋の中では、毒々しい紫色の液体が不気味に煮立ち、その中心には、傘に髑髏の模様が浮かぶキノコが鎮座していた。しかも、目が合うと恨めしそうに「…のろ…う…」と呟く。その周囲には、青白く明滅する苔や、のたうつ触手のような植物がひしめき合っている。
これは、料理ではない。錬金術の失敗作か、あるいは呪いの儀式の道具だ。
「さあ、お召し上がりください! リリア特製『
キラキラした笑顔で、リリアがレンゲを差し出してくる。
無理だ。これを口にしたら、魂ごと持っていかれる。
「い、いや、俺はさっきカップ麺を……」
「あら、ご遠慮なさらないで。あなた様のために、心を込めてお作りしたのですから」
うるんだ瞳で、リリアがこちらを覗き込んでくる。その純真な眼差しが、俺のなけなしの良心を抉る。これを断れば、この心優しい(?)魔王の娘は、きっと深く傷つくのだろう。
……ああ、もうどうにでもなれ。こんなゲテモノを食って腹を壊そうが、もはや失うものなど何もない。
俺は覚悟を決め、差し出されたレンゲを受け取り、紫色の液体をすくって口に運んだ。
目を固く閉じて、一気に飲み込む。
「――ッ!?」
その瞬間、俺の全身を雷のような衝撃が貫いた。
なんだ、これは……!?
濃厚なキノコの出汁と、未知の香草が織りなす複雑で奥深いフレーバー。ピリッとした刺激の後から追いかけてくる、どこまでもまろやかな旨味の洪水。見た目からは到底想像もつかない、まさに天上の味が口の中いっぱいに広がっていく。
「う……うまい……なんだこれ、めちゃくちゃうまい……」
思わず、心の声がだだ漏れになった。
リリアは「でしょう?」と胸を張る。
俺は我を忘れ、無心で鍋をかき込んだ。呪いのキノコも、うごめく触手も、口に入れてみれば筆舌に尽くしがたい美味だった。
「ふふっ、そんなに慌てては喉に詰まりますわよ、ユウキ様」
「いや、だって、こんな美味いもん食ったの、王宮で開かれた祝賀会以来だ……」
ハッとして、俺は口を噤む。
リリアは、そんな俺の様子を、どこか嬉しそうに、そして少しだけ寂しそうに見つめていた。
その時だった。
「ユウキさん! いい加減にしなさい! 三ヶ月も家賃を溜め込んで、このアパートから追い出すよ!」
今度こそ本物の、地鳴りのような怒声と共に、勢いよくアパートのドアが開かれた。
現れたのは、御年七十オーバーとは思えぬ
「お、大家さん! 家賃のことなら、その、今月中にはなんとか……!」
俺が慌てて立ち上がると、イトウさんの視線が、俺の隣にいるリリアにピタリと注がれた。
「……あら?」
鬼の形相だったイトウさんの顔が、一瞬で驚きに変わり、それから花が咲くようにぱあっと輝いた。
「まあ! なんてめんこい娘さんだい! ユウキさん、あんたにこんないい子がお嫁に来てくれるなんて、隅に置けないねぇ!」
「嫁じゃないです! 断じて違います!!」
俺の全力の否定は、イトウさんの耳には届いていないらしい。
リリアは、その場でしずしずと立ち上がると、ぺこりと上品にお辞儀をした。
「初めまして。私、リリアと申します。本日より、ユウキ様のお世話をさせていただくことになりました」
その健気で美しい所作に、イトウさんは完全に心を奪われたようだった。
「まあまあ、ご丁寧に。ユウキにはもったいないくらいだねぇ。そうだ、うちで採れたてのきゅうり、持っていきな!」
そう言って、イトウさんは持参した袋から大量のきゅうりをリリアに手渡し、「若い二人の邪魔はしないよ!」と豪快に笑って去っていった。あれほど執拗だった家賃の催促は、跡形もなく消え去っていた。
嵐のような一日が、終わろうとしている。
新品同様に生まれ変わった部屋。未知の美味で満たされた胃袋。そして、当たり前のように俺の隣でお茶をすすり、きゅうりをかじっている、魔王の娘。
「これから、よろしくお願いいたしますね、ユウキ様」
「……ああ」
もう、どうにでもなれ。
俺は天を仰いでため息をついた。だが、それはいつものような虚無感に満ちたものではなく、どこか温かく、諦めとほんの少しの期待が入り混じった、不思議な響きを持っていた。
こうして、元勇者の自堕落なニート生活は、あまりにも唐突に終わりを告げた。
そして、世界で最も厄介で、世界で最もかいがいしい、魔王の娘との奇妙な同居生活が幕を開けてしまったのである。
この先、さらに厄介な元魔王軍幹部たちが、職と住居を求めてこのボロアパートに押しかけてくることになるなど、今の俺はまだ、知る由もなかった。
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