青の在り処は、きみの隣

☆ほしい

第1話

午後の授業は、古典。

教師の朗々とした声が、初夏の気怠い空気に溶けていく。窓の外では、大きな入道雲が空の青に浮かび、その輪郭をじりじりと太陽が焦がしていた。

水瀬葵(みなせ・あおい)は、教室の窓際、後ろから二番目の席で、その光景をぼんやりと眺めていた。まるで分厚いガラス一枚を隔てた、自分とは関係のない世界の出来事のように。

クラスメイトたちの背中、教師が黒板に書きつける文字、時折響く笑い声。そのすべてが、葵にとっては遠い。彼は風景の一部になるのが得意だった。気配を消し、誰の視界にも映り込まず、ただそこに「在る」だけの存在。まるで置物か、壁の染みのように。


(……この角度から見る雲の形、いいな)


心の中で、シャッターを切る。指先がむずむずと疼いた。今すぐペンタブレットを握って、この光と影のコントラストを、キャンバスに落とし込みたい。空の青、雲の白、窓枠が切り取る四角い世界。そのすべてを、自分の色で再現したい。

そんな衝動を、葵はそっと息と一緒に吐き出して、殺した。


ふと、視線が動く。教室の最前列、教師の真正面に座る、その背中へ。

白金海斗(しろがね・かいと)。

非の打ち所がない、とは彼のためにある言葉だろう。陽の光を反射してきらめく、色素の薄い髪。シャツの上からでもわかる、しなやかに引き締まった身体。どんな授業でも真摯に耳を傾ける横顔は、彫刻家が丹精込めて作り上げた芸術品のようだった。

成績は常にトップ。運動神経も抜群で、今は生徒会長を務めている。誰にでも分け隔てなく優しく、その周りにはいつも人の輪ができていた。

眩しい。

葵にとって、白金海斗はそういう存在だった。太陽そのものみたいに、あまりに眩しくて、直視できない。同じ教室にいても、住む世界が違う。光が強ければ強いほど、その下に落ちる影は濃くなる。葵は、自分がその影の側にいる人間だと、よく知っていた。


だから、彼が自分に気づくことなど、未来永劫あり得ない。

それでいい、と葵は思っている。その他大勢のモブキャラとして、主人公の輝きを遠くから眺めているだけで、十分だ。下手に近づけば、その光に焼かれて、灰になってしまう。


キーンコーンカーンコーン。


無機質なチャイムの音が、長い午後の終わりを告げた。

「はい、じゃあ今日はここまで。号令」

日直の声に合わせて、ざっと椅子を引く音が響く。解放感に満ちたざわめきが、教室を満たした。

「水瀬、また明日なー」

数少ない友人が、ひらひらと手を振って教室を出ていく。葵も小さく手を振り返し、ゆっくりと席を立った。帰り支度をする生徒たちの流れに逆らうように、彼は自分の席で時間を潰す。この、誰もが浮足立つ放課後の喧騒が、少し苦手だった。


「――でさ、文化祭の件なんだけど」

不意に耳に届いた声に、葵の動きが止まる。

白金海斗の声だ。

彼は数人の生徒会役員らしき生徒たちに囲まれて、教卓の近くで話をしていた。その中心に立つ姿は、やはり様になっている。

「今年のテーマは『Re:START』に決まった。ポスターのメインビジュアル、どうするかだけど……」

文化祭。その単語に、葵の心臓が微かに跳ねた。学校行事は得意ではない。けれど、「ビジュアル」という言葉には、どうしても反応してしまう。

「去年通り、美術部に頼むのが無難じゃないか?」

「それもいいけど、今年はもっとインパクトが欲しいんだ」

海斗は腕を組んで、少し考える素振りを見せる。その仕草ひとつで、周りの女子が小さく息を呑むのがわかった。本当に、天性のスターなのだろう。

「何かいいアイデアないか?」

海斗の問いかけに、役員の一人がおずおずと手を挙げた。

「あの、会長。最近、ネットですごい人気のイラストレーターがいるの、知ってますか?」

「イラストレーター?」

「はい。『ao』っていう名前で活動してるんですけど……」


その名前が出た瞬間、葵は息をすることを忘れた。

心臓が、喉の奥までせり上がってくるような感覚。全身の血が、さあっと引いていく。


『ao』。


それは、水瀬葵の、もう一つの名前だった。



自分の部屋のドアを閉めた瞬間、葵は外界から完全に切り離される。六畳ほどの、ごくありふれた高校生の部屋。けれど、ここだけが葵の聖域であり、城だった。

ベッドに鞄を放り投げ、制服を脱ぎ捨てて、スウェットに着替える。そして、机の上のノートパソコンを開き、電源を入れた。デスクトップに現れるのは、青を基調とした幻想的な風景画。彼が三日前に完成させたばかりの作品だ。

SNSのアイコンをクリックする。通知を示す赤いマークが、目まぐるしい数の数字を刻んでいた。


――『ao』。


正体を隠したイラストレーター。それが、水瀬葵の本当の姿だった。

クラスの隅で風景の一部になっている彼とは、まるで別人。ネットの世界では、葵は『ao』として、多くの人にその存在を知られていた。フォロワーは、数十万。彼が新作を投稿すれば、瞬く間に賞賛のコメントと「いいね」で溢れかえる。

現実の自分が、色褪せたモノクロの世界にいるのだとしたら、『ao』は鮮やかな色彩に満ちた世界で生きている。


葵は、通知欄をスクロールしていく。

『新作、最高です!この青の色使い、まさに神……』

『aoさんの絵を見てると、心が洗われるようです』

『いつも素敵な作品をありがとうございます。次回作も楽しみにしています!』

寄せられる温かい言葉の一つ一つが、現実で摩耗した葵の心を、少しずつ修復していく。自分の描いたものが、誰かの心を動かしている。その事実だけが、水瀬葵という存在を肯定してくれる、唯一の光だった。


コメントの中に、ひときわ長い文章を見つけて、葵は指を止めた。

ユーザーネームは、『Kai_S』。

このアカウントは、いつも葵の絵に対して、驚くほど的確で、情熱的な感想をくれる。他の多くのファンが「綺麗」「すごい」といった感嘆の言葉を並べる中で、『Kai_S』は違った。


『今回の作品、拝見しました。前景に描かれたガラス片に反射する月光と、奥に見える深海のコントラストが素晴らしいですね。特に、ガラス片の冷たい質感を表すために、シアンを僅かに混ぜたハイライトを入れている点に感銘を受けました。それは、この絵のテーマである「失われた希望の欠片」を象徴しているように感じます。aoさんの描く「青」は、ただの悲しみや静けさだけではない。その奥に、確かな意志と、再生への祈りのようなものが込められている。いつも、あなたの絵に救われています』


(……すごい。そこまで見てくれてるんだ)


葵は、ごくりと唾を飲み込んだ。

『Kai_S』が指摘したハイライトの色は、葵自身が何度も試行錯誤を重ねた、こだわりの部分だった。誰にも気づかれないかもしれない、自己満足の世界。そう思っていたのに、この人は、その意図を正確に読み取ってくれている。

まるで、自分の心の中を覗かれているようだ。

嬉しい。それと同時に、少しだけ、怖い。

『Kai_S』がどんな人物なのか、葵は知らない。アイコンは、真っ青な初期設定のままだ。性別も、年齢も、何もわからない。けれど、この人だけは、他の誰よりも深く、自分の作品を、そしておそらくは自分の魂の本質を、理解してくれている。

葵は、この見えない共感者に、密かな親近感と、憧れにも似た感情を抱いていた。


(返信、しなきゃ)


キーボードに指を置く。いつもありがとう、と。あなたの言葉が励みになります、と。

そう打ち込もうとした、その時だった。

先ほどの、教室での会話が、脳裏に蘇った。


『文化祭のメインビジュアル、どうするかだけど……』

『最近、ネットですごい人気のイラストレーターがいるの、知ってますか?』

『aoっていう名前で活動してるんですけど……』


白金海斗の、涼やかな声。

心臓が、またどくん、と大きく脈打った。

まさか。いや、そんなはずはない。日本中に、イラストレーターなんて星の数ほどいる。生徒会がわざわざ、正体不明のネット絵師にコンタクトを取ろうとするなんて、あり得ない。きっと、ただの世間話だ。そうに違いない。

葵は、ぶんぶんと頭を振って、嫌な予感を打ち消そうとした。

これは、自分の世界の話だ。白金海斗のいる、あの眩しい世界とは、決して交わらない。


そう、信じたかった。



翌日の昼休み。

葵は、購買で買ったパンを片手に、中庭のベンチに座っていた。教室の賑やかな雰囲気が苦手で、昼食はいつも一人で、人の少ない場所を選んで過ごす。

木漏れ日が優しく降り注ぎ、風が葉を揺らす音が心地いい。スケッチブックを取り出して、目の前の風景を描き留める。無心でペンを走らせている時間だけが、余計なことを考えずに済んだ。


「――見つけた」


凛とした声が、すぐ近くで響いた。

びくりと肩を揺らして顔を上げると、そこに、いるはずのない人物が立っていた。

「し、白金……くん?」

思わず、声が裏返る。

太陽の光を背に受けた白金海斗が、葵のことを見下ろしていた。逆光で表情はよく見えない。けれど、そのシルエットだけで、彼だとわかった。

なぜ。どうして、ここに。

葵の頭は、真っ白になった。今まで、彼とまともに話したことなど一度もない。名前を呼ばれたことすら、あっただろうか。

「あの、な、何か……?」

かろうじて絞り出した声は、情けないほど震えていた。

海斗は、何も言わずに、葵の隣に腰を下ろした。ふわりと、清潔な石鹸のような香りが漂う。近すぎる距離に、葵の心臓は警鐘を鳴らし始めた。逃げろ、と。

「水瀬葵、だよな。2年C組の」

「……うん」

「探したんだ」

「え……?」

何かの間違いだ。きっと、人違いだ。あるいは、生徒会として、何か用事があるのかもしれない。美化委員の仕事で、何かやらかしただろうか。

葵が混乱していると、海斗は真っ直ぐに葵の目を見て、言った。

その瞳は、吸い込まれそうなほど真剣な色をしていた。


「単刀直入に言う。君が、『ao』だろう?」


時が、止まった。

風の音も、遠くで聞こえる喧騒も、すべてが消え失せる。

世界に、自分と、目の前の彼だけしかいないような、錯覚。

海斗の言葉が、脳の中で反響する。


君が、『ao』だろう?


バレている。

なぜ。どうやって。いつから。

思考が追いつかない。葵は、ただ呆然と、目の前の完璧な同級生を見つめることしかできなかった。

海斗は、葵の動揺を肯定と受け取ったのか、続けた。

「昨日、生徒会の集まりで『ao』に文化祭のポスターを依頼したいって話が出たんだ。それで、どうにか連絡を取れないか調べてみた」

「……」

「でも、『ao』は個人の連絡先を一切公開していない。それで、少し……荒っぽい手を使った」

海斗は少しだけ、バツが悪そうに視線を逸らした。その僅かな変化に、葵は驚く。いつも自信に満ち溢れている彼が、こんな顔もするのか、と。

「去年の文化祭で、クラス展示の看板を描いてただろ。水瀬が」

「……え」

「覚えてる。誰も見てないような、隅の方の小さな看板だったけど。光の描き方が、すごく印象的で」

去年の文化祭。葵は、クラスの出し物で使う、本当に小さな看板を描かされた。押し付けられた仕事で、誰も褒めてくれなかった、あの絵。

「あの時のタッチと、『ao』の絵のタッチが、似てると思ったんだ。線の引き方、色の乗せ方……。確信はなかったけど、賭けてみた」

嘘だ、と思った。

あんなもの、誰も覚えてなどいないはずだ。その他大勢の生徒が描いた、その他大勢の絵の一つ。それなのに、この人は。

学校中の人気者で、いつも中心にいるこの人が、クラスの隅にいた自分の、小さな絵を、覚えていた?

「頼みたいんだ、水瀬。いや――『ao』先生に」

海斗は、頭を下げた。

深く、丁寧な、お辞儀だった。

「今年の文化祭のメインビジュアルを、描いてもらえないだろうか」

太陽みたいに眩しい彼が、自分に頭を下げている。

その光景は、葵にとって、あまりにも現実感がなかった。

どうしよう。

断れば、また元の、静かで安全な日陰の生活に戻れる。

でも。

もし、この手を取ったら?

憧れの彼と、話すことができる。彼のいる、光の世界に、少しだけ、触れることができるかもしれない。

それは、恐ろしくて、同時に、とてつもなく魅力的な誘惑だった。

心臓が、痛いほどに鳴り響く。

葵の視線が、揺れる。目の前の、白金海斗の真剣な瞳と、自分の足元の、濃い影の間を。

光と影。交わるはずのなかった二つの世界が、今、目の前で一つになろうとしている。


どうしよう……。


返事のできない葵を、海斗は静かに、ただ、待っていた。

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