君はアオハル色のスプリンター

☆ほしい

第1話

肺が焼けるように熱い。心臓が破裂しそうなほど脈打ち、全身の筋肉が悲鳴を上げている。

「はっ、……はぁっ……!」

ゴールラインを駆け抜けた瞬間、俺、日向葵は膝に手をつき、荒い息を繰り返した。滴り落ちる汗が、熱を持ったタータントラックに染みを作っていく。

「葵、お疲れ。タイム、いくぞ」

横でストップウォッチを止めた部長の声は、いつもより少しだけ硬い。顔を上げなくても分かる。また、ダメだった。

「……11秒82」

「……っす」

唇を噛み締める。自己ベストは11秒30。春先の大会で出した、奇跡みたいな記録。それ以来、俺の足はまるで鉛を引きずっているみたいに重い。練習すればするほど、フォームは崩れ、タイムは落ちていく。焦れば焦るほど、空回りする。悪循環のど真ん中に、俺はいた。

「日向、気にすんなって!そういう時期もあるだろ!」

「そうそう!飯食って寝りゃ治るって!」

チームメイトたちが明るい声で慰めてくれる。その優しさが、逆に胸に突き刺さった。みんな期待してくれてる。陸上部のエースだって言ってくれる。なのに、俺は。

「……わり、先着替えてる」

無理矢理に笑って、俺はその場を後にした。逃げるように部室に駆け込み、ロッカーに背中を預けてずるずると座り込む。悔しくて、情けなくて、涙が出そうだった。どうすればいいのか、もう分からなかった。


いつもなら、まっすぐ家に帰る。でも、今日の足は、なぜか違う方向へ向いていた。海沿いの、古い防波堤。潮風が火照った体を冷やしていく。ざあ、と寄せては返す波の音が、頭の中で渦巻く焦燥感を少しだけ洗い流してくれるような気がした。

その時だった。

視線の先に、人影を見つけたのは。

防波堤の端に置かれたイーゼル。その前に、一人の男子生徒が座っている。同じ高校の制服。真っ白なキャンバスに、一心不乱に筆を走らせている。

汐月湊。

二年生の、確か……美術部の。

学校では有名な男だった。コンクールで何度も賞を取っている天才。けれど、誰ともつるまず、いつも一人でいる。その整った横顔は、まるで彫刻みたいに感情がなく、近寄りがたいオーラを放っていた。

俺は、息を飲んだ。

夕陽が彼の髪を金色に染め、そのシルエットをくっきりと浮かび上がらせている。迷いなく動く腕、絵の具を乗せていく指先、キャンバスを見つめる真剣な眼差し。その周りだけ、空気が違う。静かで、張り詰めていて、何者にも邪魔されない世界がそこにあった。

俺は、動けなかった。

走ることしか考えてこなかった俺にとって、それはあまりにも異質な光景だった。一つのことに、あそこまで没頭できる人間。その姿が、ひどく眩しく見えた。


それから、俺のささやかな日課が始まった。部活で心が折れた日、俺は決まって海辺へ向かうようになった。汐月と話すわけじゃない。ただ、遠くから、彼が絵を描く姿を眺めるだけ。

彼はいつも同じ場所にいた。静かに、ただひたすらに、キャンバスと向き合っている。彼が描いているのは、いつもこの海だった。時間によって色を変える空、光を反射してきらめく水面、風に揺れる草。俺が普段、気にも留めない風景たちが、彼の手によって特別なものに変わっていく。

その姿を見ていると、不思議と心が落ち着いた。自分の悩みがいかにちっぽけで、視野が狭かったかを思い知らされるようだった。


そんな日が、何日か続いたある日のこと。

その日も俺は、少し離れた場所から汐月の背中を眺めていた。すると、一匹の痩せた三毛猫が、おずおずと彼に近づいていくのが見えた。

(……汐月のやつ、どうするんだろ)

彼は動物にすら興味がなさそうに見えた。きっと、追い払うか、無視するに違いない。俺はなぜか、固唾を飲んで見守っていた。

猫は、彼の足元で「にゃあ」と小さく鳴いた。

その声に、汐月の筆がぴたりと止まる。彼はゆっくりと振り返ると、猫を見下ろした。その表情は、ここからでは読めない。

やがて彼は、ふっと息をつくと、おもむろに絵筆を置いた。そして、学生鞄をごそごそと漁り始めた。

(え……?)

彼が取り出したのは、小さなビニール袋に入った、カリカリのキャットフードだった。

嘘だろ、と思った。

汐月は袋の封を開けると、手のひらに中身を少しだけ出した。そして、ゆっくりと屈み、猫の前にその手を差し出す。猫は一瞬警戒したものの、やがて彼の指先から、カリカリをこぼすように食べ始めた。

汐月は、何も言わない。ただ、猫が食べ終わるのを、静かに待っている。その横顔は、いつもと同じ、無表情のはずだった。

なのに。

俺の目には、はっきりと見えた。

彼の口元に浮かんだ、本当に、本当に微かな、優しい笑みを。

ドクン、と心臓が大きく跳ねた。

なんだ、これ。

いつも冷たい氷みたいに見えていた男が、こんな顔をするなんて。誰にも見せていない、秘密の顔。それを、俺だけが見つけてしまった。その事実に、胸の奥がじわりと熱くなる。

もっと、知りたい。

この、汐月湊という男のことを。

気づけば、俺の足は勝手に動き出していた。


「あ、あのっ!」

自分でも驚くほど、声が裏返った。

汐月が、驚いたようにこちらを振り返る。猫はびくっと体を震わせ、さっと逃げていった。

しまった、と思った。邪魔するつもりじゃなかったのに。

「……なんだ」

初めて間近で聞く彼の声は、思ったよりも低く、落ち着いていた。そして、その瞳は、俺が今まで見たどんな色よりも深い、夜の海みたいな色をしていた。吸い込まれそうだ。

「えっと、お、俺、日向葵!二年の!陸上部!」

しどろもどろに自己紹介する。情けない。緊張で頭が真っ白だ。

「……知ってる」

「へ?」

「よく走ってるだろ。グラウンドで」

淡々とした口調。でも、俺のこと、認識してくれてたのか。それだけのことで、また心臓が跳ねる。

「そ、そう!いつも見てて……いや、違う、お前の絵、すげーなって!」

何を言ってるんだ、俺は。不審者だと思われても仕方ない。

汐月は、何も言わずに俺をじっと見ている。その無言が、怖い。何か、何か話さないと。

そう思った、その瞬間だった。

ざあっ、と強い海風が吹き抜けた。

「あっ!」

イーゼルに立てかけてあった一枚のスケッチブックの紙が、風に煽られて宙を舞う。それは、ひらひらと蝶のように舞いながら、俺の方へ飛んできた。

俺は咄嗟に手を伸ばし、それを空中で掴んだ。

「危なかっ……」

言いかけて、言葉を失う。

俺が掴んだ、その一枚の紙。そこに描かれていたものに、目を奪われた。

鉛筆だけで描かれた、ラフなスケッチ。

でも、そこには、信じられないほどの躍動感が満ち溢れていた。

クラウチングスタートの姿勢から、号砲と共に弾丸のように飛び出す、一人のスプリンター。筋肉のしなり、地面を蹴る足の力強さ、未来だけを見据える真剣な横顔。

それは、紛れもなく。

「……俺……?」

呆然と呟き、顔を上げる。

視線が、絡み合った。

驚きに見開かれた俺の目と、何を考えているのか全く読めない、汐月の静かな瞳が。

夕陽の最後の光が、俺たちの間を、オレンジ色に染め上げていた。

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君はアオハル色のスプリンター ☆ほしい @patvessel

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