第28話 簪談義・1
動かなくなった若い妓女の手を優しく撫でながら、汀老人は言う。
「若いおなごの柔らかな肌は、老人の節々の痛みを吸い取ってくれる。すべすべした肌をこうして撫でていると、血の流れが速くなり、不自由な体が若返ることを、確かに感じるのじゃ」
その言葉を受けて、老人の右横に座っていた年嵩の妓女がすぐさま合いの手を入れた。
「お大尽さま、そのためにも、青蘭楼をご贔屓になさってくださいませ。すべすべした肌を持つ女は、若い子はもちろんのこと、少し歳を食ったものも含めて選り取り見取りにおります」
「嬉しいことを言ってくれるではないか。だがな、この子がよいのじゃ。いや、まだ男を知らぬこの子でないと困る。いろいろと試してみたが、生娘の柔肌と温かい血が、一番、年寄りの老いの苦しみを和らげる」
「まあ、この中で、あたしが寝床の技では一番だと思っていましたのに。それをお大尽さまのお役に立てることが出来ないとは残念ですわ。でも、いまさら、時の流れを遡らせ、若返ることはできません」
そしてその無念を、男なら誰でも思わず生唾を飲むであろう、体をくねらすしぐさで表してみせた。その機智に、老人が声をあげて笑う。
「わしとて若ければ、おまえを放っておくことなどせぬ。そうじゃ、どうだな。どうやらここには青蘭楼に不慣れな若者が二人もおる。今夜一晩、この場を盛り上げるならば、それなりの褒美を取らそう」
「まあ、嬉しい。では、今夜のお楽しみを願いつつ、皆さまでもう一度お酒を飲み干しましょう。お姐さまがた、お隣に座っておられるお客さまの盃に並々とお酒を注いでくださいな。劉さま、乾杯の音頭をお願いいたします。」
淘江馬の無作法に機嫌を損ねていた劉貴明だが、座を仕切る立場を任されて、気難しく尖っていた顔の表情が緩んだ。どうやら彼にとって汀老人は、特別な存在であり特別な心の拠り所であるらしい。
再び座が和み、汀老人も盃を重ねたこともあって口が緩んできた。
「ここで、お若い人に、わしと劉さんの慣れ染めを披露したいと思うが。劉さん、よいかな?」
すぐさま立ち上がった劉貴明は老人に向かって拱手する。もう何度も盃を重ねているはずだが、彼の足は江馬のようにだらしなくふらつくことはない。
「十年、いやそれ以上となる昔のことでございますのに、お大尽があの日のことをいつまでも覚えてくださっていることは、これにまさる喜びはございません」
「十年経とうが、二十年経とうが。いや百年過ぎても、わしはあの日を忘れることはない。劉さんが作ったという簪を見た、あの時の驚きをな」
「拙いものをお見せしました」
「あれは、わしが河南の街に来てすぐのことだ。店先に飾ってあった玉で彫った虎のみごとな置き物に目が留まり、初めて金翠堂に足を踏み入れた。さすがは、金翠堂であった。店の中の品々はどれも目を奪われるものばかり。だがな、わしは隅にあった卓の上におかれた一本の簪に目を奪われてしまったのじゃ」
「お恥ずかしいかぎりです。あれは、父に隠れてわたしが作ったものでした。それを父に見つかり、『おまえはまたこそこそと、このようなものを作りおって。商売に身が入っておらぬ』と、さんざんに叱られたあとのことです。そのあとの忙しさにかまけてしまい忘れていた簪が、汀お大尽さまのお目に留まりました」
「世の中とはそういうものだ。何ごとも、出逢うべくして出逢う。偶然などはない」
「本当に、天の配慮と思えるほどの幸運。いまでこそ、わたしの意匠を忠実に表現できる腕のよい彫金師や彫り物師などの職人を使って作らせておりますが、あの頃は、金翠堂を手伝いながら手に入った屑石を磨き庭の木の枝を削って、おなごの簪を作ることに夢中になっておりました」
「劉さんの作った簪を見て、すぐにわかったぞ。その簪をどのようなおなごのために作ったのかということが。そのおなごの歳もわかったが、背の高さと顔つき。いやそれどころか、痩せている太っている、肌の色までな。おとなしいとか激しいとかの気性まで、手に取るようにわかった」
「あれはあの頃に、心を奪われたおなごを思い浮かべながら作ったものでした。若気の至りでございます。しかしながら、わたしの作った拙い簪を手に取られて、その簪にふさわしいおなごの姿形をぴたりと言い当てられたお大尽には、驚かされました」
「そのくらいのこと、造作もない。男はおなごの腹から生まれ育てられ、またおなごの腹に自分の分身を残すのじゃ。この世に、これ以上の不思議な存在はない。わしはな、関係のあったおなごには簪を贈って来た。そのおなごのための唯一無二の簪をな。まさか同じことを考える者が河南にいたとは。そしてそのものに河南に来て早々に出逢えるとは。これぞ、神のお導きと思う」
「あの時、汀お大尽がわたしの作った簪を褒めてくださり、店先に飾ってあった虎の玉の彫り物を金翠堂の言い値で買い求めてくださった。そのためにその時より父はわたしの簪作りに、しぶしぶながらも口を挟まぬようになりました。汀お大尽は、わたしにとって命の恩人ともいえるお方でございます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます