第20話 殺人鬼の独白 ≪2≫


 卓上に置いた木箱から歩揺を取り出す。木箱の中で止まっていた時が、再び、流れ始めた。歩揺の細い銀の板が触れあって、ちりちりと愛らしい音を立てた。

 しかしそのさまを手燭の灯りに透かして眺めた男は首を横に振った。


「銀が曇って、音が濁っている。すまない、この最近、わたしは忙しくてな。でも、雪梅は優しい子だから、怒ったりはしていないだろう?」


 そう呟くと、彼は卓の上にあった白い絹布で歩揺を磨き始めた。彼の手の中で銀の曇りがとれて、簪はいっそう輝き始める。もう一度、耳元で簪を振って、男はその澄んだ音色を楽しんだ。あの時の雪梅の横顔をありありと思い出す。一年前のちょうど季節は同じだ。




「まあ、きれいな簪!」

 銀の歩揺を見せると、まだ十五歳の少女である初々しい本心と馴染みの客に対するお追従とがないまぜになった声を、雪梅はあげた。そんな彼女もじきに、男慣れしたすれっからしになるのだ。女を苦界から救うのに、残された時は短い。男は逸る思いをかろうじて抑えた。


「おまえに似合うものをと思って、わたしが特別に見立てたものだよ。この簪を見た時、おまえの顔が浮かんだんだ。ほらほら、恥ずかしがらずに、顔をあげてごらん」


 男の手の中の簪を食い入るように見つめていた女が、その言葉にこくりと頷き顔を上げる。


 細い首筋に明るい色をした後れ毛が落ちている。

 肌の色が抜けるように白い女だ。そのために、髪の色も河南の他の女たちのように黒くはなく、栗毛色だ。だが、女はそのことを気にしていて、髪の話になるといつも恥じらう。


 しかし、彼が初めて女を見た時、その髪に似合う簪は銀の歩揺しかないと思った。明るい茶色の髪の上で、銀色の歩揺はますます輝き揺れることだろう。根元にあしらっている小さな赤い珊瑚の玉も、彼女の若さを引き立てるに違いない。


「雪梅、おまえは見栄えもよくて気質も素直で優しい子だ。だから、妓楼から必ずひかせて、わたしが幸せにしてあげるよ。この簪は、そのためのわたしからの誓いだ。でも、その日が来るまで、誰にも言ってはだめだよ。人のやっかみほど恐いものはない。他人の言葉一つで、幸せなどいとも簡単に逃げていく。どうだい、約束は守れるかい。守れるのであれば、もう一度頷いてみせておくれ。そうしたら、この簪を髪に挿してあげよう」


 こくり、女がもう一度頷く。


 その夜、寝台の上で女の体を優しく時に荒々しく扱うたびに、歩揺はちりちりと音を立てた。そして、雪梅があげた喜びの声は、体を売る女が客に聞かせるための声ではなかった。




 数か月が経ち、男の存在について口を堅くし約束を守っている雪梅を、外へと誘い出した。


 今までの妓女たちと同じように城郭外にある廃墟に連れ込んで首を絞めて殺し、その遺骸は枯れ井戸の中に放り込んだ。腰に届きそうな枯草に囲まれた目立たぬ小さな井戸だったが、覗き込めば、底が知れぬほどに深さだけはじゅうぶんにある。


 客を取り始めたばかりの替えの利く若い女が一人いなくなっても、妓楼の店主も世間も騒ぎはしない。自ら逃げ出す女も多い商売だ。それも見込んで、客を取らせるときに値をつけている。人の生き血を吸う商売に損などない。それでも騒ぎが収まらないようであれば、惜しげもなくあちこちに金子をばらまく。世の中を動かすのは人ではない。人が作った金子だけが世の中を動かすのだ。




 簪を磨きながら、髪にそれを挿していた女のことを微に入り細に入り思い出すのは、彼にとって時の過ぎるのを忘れるほどの愉しみごとだった。しかし、蔵の外では、夜はしらじらと明け始めていることだろう。月もすでに西の空に沈んでしまっているに違いない。まだまだ、思い出に浸っていたいとは思うが、朝の早い使用人と鉢合わせしてしまうのも、言い訳が面倒だ。


 磨き終えた歩揺を振ってみる。

 チリチリ……。


 曇りにない澄んだ音色に彼は満足して木箱にしまい、それを棚に戻す。そしておもむろに、燭台を持ち上げようとして、彼は自分の手がかすかに震えていることに気がついた。


 大きく広げた自分の手をまじまじと眺める。

――ああ、また、手が、わたしに囁きかけている……――


 若い女の命を、この手が欲している。


 女を苦界から救いたいと考えるのは自分だが、その手段として女の首を絞めたいと思うのは自分ではない。人生の半分どころか、そのとば口にたったばかりの少女の命を奪うなどと。そのような無慈悲なことを、神でもない自分が考えるわけがない。


 このかすかに震える手が女を殺せと、彼に命じるのだ。

 女の細い首に巻きつけ、柔らかな喉に親指を食いこませろと。

 命がすうっと消える瞬間がたまらないのだと、手が彼に囁くのだ。

 

 深い井戸の底に積み重なった女たちの遺骸を思う。それらは骨と豊かな黒髪を残して、血と肉はすでに土に還っていることだろう。二目と見られぬ恐ろしい姿かたちとなっているはずだ。


 だが、短くあっても彼女たちの幸せな時を一緒に生きた簪は、こうして再び彼の手もとに戻り、木箱に収められ、永遠に美しい。

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