第16話 芳々
楊福如に見送られて青蘭楼を出た淘江馬と劉賢明は、その後、二人していつもの酒楼に立ち寄った。
豪奢な青蘭楼を見てしまったあとでは、椅子代わりに樽を並べている狭い酒楼など掃き溜めと同じだが、安酒を飲み数皿の料理で腹を満たせば、やっと本来の自分を取り戻せた気分だ。あれやこれやの男同士の気の置けない話で半刻をおおいに盛り上がり、互いに肩を叩き合い呂律のまわらぬ口調で別れを告げあったときは、すでに河南の街の夜は暮れていた。
通りの端から端までまっすぐに伸びる淘家の屋敷の長い土塀は闇の中に沈み、固く閉じられた門扉だけが提灯で浮かび上がっていた。その門扉の両側には長槍をかまえた門番が二人。彼らは闇に身を隠すようにして崩れた姿勢で立っていた。当主の淘蒼仁がまだ役所から帰宅していないときは、彼らは直立不動だ。わかりやすい目印だ。
――……ということは、これは、今夜あたり面倒だな。そろそろ、李下学堂の尊師から兄上に、おれの素行について苦情が伝わるころだ。呼びつけられて、説教があるに違いない――
江馬は立ち止まった。口に手を当てて息を吹きかけ酒臭さを確かめる。安くて薄い酒はなかなか酔えないが、、なぜか悪酔いだけは確実だ。まずは、酔っていることから説教が始まるのかと思うとうんざりするが、身から出た錆としてあきらめるしかない。
「おい、おれだ」
門番にそう声をかけると、案の定、傲慢な返事が返ってきた。
「都尉さまが、おまえにご用がおありだそうだ。まずは挨拶に行け」
そして正門の横にある小さなくぐり戸を顎でしゃくって指し示す。
淘家の他の兄弟たちに対するときとちがって、えらくぞんざいな扱いだ。
母親の身分が卑しいということで受ける仕打ちの理不尽さに、以前の江馬であればよろめくふりをして門番の向う脛に蹴りの一つでもお見舞いするところだ。しかし、そうまでしてその名を、そして人としての尊厳を守りたい母はもういない。母はすでに病死している。守りたい人がいない以上、騒ぎを起こすこともないと、あの日より少しばかりは大人にはなった。聞こえないふりをしてくぐり戸を越える。
しかしながら、このままで兄に逢うのはまずいとは思う。
――冷たい水でも飲むか。いや、そのくらいでは、兄上の目はごまかせない。顔を洗えば、少しはましになるか――
ふらつく足取りで建物と建物の間の細い通路をたどり、広い厨房の建物の正面にある井戸の前に立つ。
昼間は使用人たちでごった返す厨房も、いまは人影もない。ただ、あちこちの影から虫の音がかしましく響いてくる。見上げれば夜空には満天の星が輝いている。音を立てないように気をつけながら井戸の中に釣瓶を落とす。
草むらの中の賑やかな虫の声と井戸の底のかすかな水音と重なって、自分の名前を呼ぶ懐かしく若い女の声がどこからか聞こえてきた。
江馬さま……、江馬さま……。
しかし、江馬はその声の主を探すために振り返ろうとはしない。空耳だとわかっている。しかし、その空耳がもたらす叫び出したくなるような懐かしさと切り裂かれるような胸の痛みは本物だ。耳を塞ぐ代わりに、釣瓶から水を移した桶の中に彼は乱暴に顔を突っ込んだ。
青蘭楼に行くと決めた日からこうなることは覚悟していた。だから、今夜、屋敷にまっすぐに戻るのに彼らしくもなくためらいがあって、「店が気になる」としぶる賢明を無理やり誘って安酒を飲んだのだ。
※ ※ ※
三年前のこと。
年が近いということで、どちらからともなく話すようになった。他愛ない挨拶程度の会話だったが、彼女も自分に好意をもってくれていることを感じた。やがて、芳々と目が合うだけで舞い上がるような幸福を覚え、顔を見ることが出来ない日が数日でも続けば地獄に突き落とされたような気がした。
彼を日々に翻弄してやまない心の中の嵐に世間ではちゃんとした名があるのだと教えてくれたのは、五歳年上の賢明だ。
「江ちゃん、それは恋だよ、間違いない」
「恋……」
あまりの衝撃に、「賢明、おまえ、名前負けしているぞ。知ったかぶりはよせ」と、いつものようにからかうことさえ忘れた。
「江ちゃんの初恋なんだね」
ぼそりと寂し気に呟いた賢明の声も耳に入らなかった。
そして、呆然と突っ立っている彼に、自分の気持ちを伝えるには、簪を贈ればよいと賢明は続けて教えてくれた。そうすれば、よい方にか悪い方にかはわからないが、事態は動くと。
「でも、どちらになっても、きっと、いまの宙ぶらりんな気持ちよりはましだよ」
ちょうどその頃、勉学の成果が出ない彼は、李下学堂を退学して、女の髪飾りを売る小間物屋を商いたいと考え始めていたときだった。
「簪を受け取ってくれたら、芳々ちゃんも、江ちゃんと同じ気持ちだってことがわかるよ。自分も江ちゃんのことが大好きだってことが……」
「簪? 女の頭を飾っているあれか? そんなもの、どこで買えばいいんだ」
「おれに任せてくれる? 芳々ちゃんによく似合う簪を、おれが見立ててあげるよ」
「簪って、高いのだろうが。そんな銭を、おれは持っていないぞ」
苦渋の想いを悟られないようにうつむいていた賢明が顔を上げた。その顔は明るく輝いる。
「任せてくれるのだったら、うんと安くするよ。いや、銭なんかいらない。華仙堂の初めての客が、江ちゃんだなんて嬉しいよ。そうなんだ、おれの店の名前、もう決めているんだ。華仙堂っていうんだ」
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