第13話 楊福如


 老婆の私室は、青蘭楼の広さと豪華さに比べると、あまりにも狭く家具調度も質素なものだった。しかし、狭いながらも掃除の行き届いた部屋のそこかしこに置かれた、いかにも古そうな飾り棚や壺や香炉やさりげなく飾られた書画に、青蘭楼の来し方が見える。そしてそれは青蘭楼の今をあずかる女将の矜持の表れなのでもあろう。


 若輩者の二人に椅子を勧めたあと、自分も座った女将は名を名乗った。


「青蘭楼の女将、楊福如よう・ふくじょでございます。淘さま、劉さま、以後、お見知りおきくださいませ。お二人のことは、すでにそちらの劉さまの兄上さまよりお話を伺っております。白麗お嬢さまの銀狼石の簪のことで、華仙堂さまにはご迷惑をおかけいたしました。当方の不行き届きで申し訳ございません」


 女将の声は低いながらも、聞く者の耳を通して心にまで響く。女ながらによほどに肝が据わっているのだ。だからこそ、青蘭楼の女将でいられるわけだが。


「あ、これが、その銀狼石の簪です……。そ、その、お嬢さまの物かどうか、お確かめください」


 部屋の設えと女将の声にすでに飲まれた賢明が、芋虫のようにまるっこい指のついた手を懐に入れて簪を差し出そうとした。

 しかし、江馬の手がそれを押しとどめる。


「女将、おまえも見ただろう。おれたちはあれほどの面倒事に巻きこまれたんだ。いやあ、あの爺さまは人の顔をした怪物だった。もう少しで、おれたちはあの爺さまに一飲みにされかけたんだ。 おい、女将。簪を渡して、はいそうですかと、おれたちが帰るとでも思ってはいないだろうな」


 江馬の言葉に、女将の顔から客をもてなす笑みが消えた。


「淘さまのお怒りはごもっともにございます。白麗お嬢さまのお世話は、下女の亜佳に任せておりますが。亜佳は気立てがよく優しい気質ではありますが、機転が利かないところが多々ありまして。久しぶりの外出を楽しまれるお嬢さまから目を離さないようにと、よくよく申しつけておりましたが。よそ見をしたその隙に、お嬢さまはきれいな髪飾りが並んでいる華仙堂に入ってしまわれたようで、ほんとうにご迷惑をおかけしました。 当然ながら、お礼のほうはさせていただくつもりでおります」


 慌てた賢明が女将の言葉をさえぎった。


「女将もそれから江ちゃんも、お礼だなんて、突然、なにを言い出すんだよ。

 あの女の子を見ただろう。銀狼石の簪を華仙堂に置き忘れたのはあのお嬢ちゃんに間違いないよ。おれたちは簪を返しに来ただけだろう。商売人として当然のことをしているだけだ。お礼を当てにしてはいけないよ」


「賢明、やはり、おまえは名前負けしているぞ。華仙堂の主人に収まって、もう一年だろう? 気づいていないのか? あの子はな、間違って銀狼石の簪を置いていったんじゃない。亜佳とかいう下女と男たちに連れもどされるときに、おれの顔をはっきりと見た。あのガラス玉のようなきれいな金茶色の目はな、『簪を持って青蘭楼に来て欲しい』と、おれに言っていたんだ」


「それは……」

 本当のことでございますか?と、言いかけた女将が口ごもる。


「このおれが見間違えるわけはない。おれは、目のよさだけは自信がある。顔もいいという女たちも大勢いるらしいが。いや、そんな話はどうでもいいことだった。

 ではな、女将、聞かせてもらうぞ。

 白麗お嬢さまとやらが妓女として、ここで働かされているのではないことはわかった。では、なぜ、ここに居るのだ? わざわざ白麗さまなどとさまづけで呼ぶということは、女将の娘、いや、孫ではないということだろう。では、白麗さまとは何ものだ? 髪の毛が真っ白いというのは言われなくともわかる。それに、あの美しさも人並外れているということもな。だから、あの爺さまが執着するんだろう。もう一度、訊くぞ。白麗さまとは何ものだ?」


 突然、楊福如がくすくすと笑った。

 その笑い声は、妓楼の女将のものではない。世の中の移ろいを見てきた一人の老女としての笑いだ。


 江馬の声が尖る。

「なにが可笑しい?」


「いえ、さすが、都尉さまの弟さまだと思いまして。都尉の淘蒼仁さまの頭脳明晰なことは、河南では知れ渡っていることでございます」


「兄上のことを持ち出して、話を逸らすな」


「申し訳ございませんでした。では、白麗さまのことについてお話させていただきます。あなたさま方お二人にお話しすることを、どうやら、白麗さまもお望みのようでございますので。白麗さまはもちろんあたくしめの孫ではありません。大切なお預かり人でございます」


「お預かり人だと? いったい誰から預かったというのだ」


「そのことからお話をすると長くなります。茶を運ばせましょう」


 青蘭楼の女将・楊福如は立ち上がると、部屋から廊下へと出て行った。






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