第9話 銀狼石の簪
「見つからなかった……」
肩を落として彼は言った。
「往来には馬車が何台もいて、それを一つ一つ停めて、中を覗くことも出来ないしさ。そもそもどちらの方角に去ったかもわからない……」
「とろくさいおまえにわかる訳がないだろう。おまえは名前負けしているんだから」
のそりと立ち上がった江馬が遠慮なく言う。
「江ちゃん、ひどいこと言うなあ」
しかしそう答えた賢明の口調は、かまってもらった仔犬のように嬉しそうだ。彼に尻尾があればパタパタと振ったに違いない。
賢明の笑顔を無視して江馬は手を伸ばす。
「おい、その銀狼石とかいうものを、おれにも拝ませてくれ」
「いいけどさ、大切に扱ってくれよ」
手にした簪を、先ほどの賢明のしぐさを真似て、江馬もまた目の高さにかかげ陽にかざした。半透明の乳白色の石に血のように紅い筋が絡まっている。足を傷つけた銀色の毛並みをした狼が、銀狼山脈の白い岩肌の上を点々と血を染み込ませつつ歩く姿を見たような気がした。
「へえ、きれいな石じゃないか。おれは初めて見た。兄上の部屋になら、文鎮か何かであるのかも知れないが。そうだ、賢明」
「なんだよ、江ちゃん?」
「おまえの親父や兄たちは、宝玉の売買を商売にしているんだろう? だったらさ、そちらから、この簪の持ち主がわかるんじゃないか。これがさ、おまえが言うような、高価な銀狼石の簪であればだがな」
「さすが、江ちゃんだ。灯台下暗しだ」
「なんだ、その灯台下暗しっていうのは?」
「あたりを明るく照らす燭台だけれど、その下は暗いんだよ。人は身近なことには、かえって気がつかないものっていう意味さ」
「へえ、李下学堂の落ちこぼれが、難しいことを知っているな」
ひどく貶されたはずなのに、賢明の輪郭も目も鼻も福々しく丸い顔が喜びに輝く。
「おれの家は商売人だからさ。取引最中の合いの手に故事や諺を、かっこよく使うんだよ。例えば……」
「おいおい、ここは李下学堂じゃないんだぞ。そんな辛気臭い話はやめてくれ。それよりか、その簪の持ち主がわかったら、返しにいくのはおれに任せてくれないか」
「別にいいけどさ。どうしてなんだ?」
「いや、ちょっと気にかかることがある……」
下女と用心棒に抱きかかえられるようにして店を出て行く時、あの少女は一瞬ではあるが江馬をまっすぐに見つめた。金茶色の瞳が何か言いたげだった。しかしいまそれを言ったところで、賢明は信じないだろう。
話題を変える。
「それよりか、おまえ、いつまで客を待たせているんだ?」
「ああ、そうだった。大変だ。商い、商い……」
再び華仙堂の若主人の顔に戻って賢明があたふたと客のほうへと走り寄っていく。
賢明が愛想よく客の相手を始めたのを見届けて、江馬も床に転がしていた本の入った頭陀袋を取り上げて肩にかけた。
外に出ると、河南の秋の陽射しは容赦なく江馬の顔を照らした。
遠くの城壁の向こうに、人はまだ越えたことがない銀狼山脈の万年雪で白い稜線が低く小さく這っている。
人目もはばかることなく、大きく伸びをした江馬は欠伸をもらした。
今日あたり李下学堂に顔を見せに行かないと、また尊師の長い説教を喰らいそうだ。
『おまえは羽の短い鳳凰だ。このまま、みっともない姿で地を這って終わるのか。それともいつかは羽も大きくなり、皆の期待を背負って大空に飛び立つ日が来るのか。いや、そんな悠長なことは言っておられんな。わしの命はまもなく尽きる。おまえの羽ばたく姿を見ずにこの世を去るのは、残念だ』
尊師の説教の内容はいつも同じだ。
床に正座して頭を垂れ神妙に聞くふりをしながら、江馬はいつも思う。
――尊師、それでおれは大空を飛び回って、何をすればよいのですか?――
しかし、いまだ訊ねたことはない。
「そのようなことまで、自分で考えられないのか。情けない」と叱られるのか。
「兄の蒼仁のように科挙を受けて、皇帝のそばに仕えよ」と言われるのか。
どちらにせよ、答えを聞けば自分の道はおのずと決まってしまう。
それがなぜか怖ろしかった。
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